98話 光の灯す記憶【15】

「えっ⁉」


 イシスは驚いた。

 彼女だけではない。

 周囲にいた皆が、この本当に不思議な光景に声なく驚いたのだった。


 その光は暫しの間、神々しく煌めいた。

 その後、まるで意思を持っているかのように、イシスの身体の中に音もなくスウっと入っていった。

 彼女と床を真っ赤に染めていた血は、その場から痕かたもなく消え失せたのである。


「えっ⁉ な、何?」


 次から次へと不思議なことが起る。

 するとその直後。

 どこからか男性のものと思われるとても弱々しい声が微かに聞こえてきた。


〈……れ、い……? れい?〉


 声のした方向を全員が一斉に向く。

 部屋中に緊張が走ったのはいうまでもない。

 しかし、彼等は自分が目にしたものに驚く。


「‼」


 それは突然イシスから約三メートル程離れた場所に現れる。

 淡い光に包まれて佇む男性の姿であった。

 いや、よく見るとその男性自体が、淡い光の粒で構成されている。


『床に影が出来ていない……。実体ではないのか?』


 光の男性は年齢が二十代前半くらいにみえた。

 身長は百七十五センチメートル前後。

 髪は短く首筋で綺麗に切りそろえてある。

 服装は襟のあるシャツにスラックス。

 男性自体が光を放っているため、残念なことに個々の色は全てが不明である。


『面立ちが何となくイシスに似ている……?』


 ジーグフェルドは思った。


 その光の男性はゆっくりイシスに近づいた。

 嬉しそうに微笑んで上半身を傾け、床に座っている彼女の頬へと手を差し伸べた。

 触れられた頬からは熱さも冷たさも感じられはしない。

 だが、表現しようのない懐かしさを覚えるのだった。


《なに? この感じ……?》


 イシスは抵抗も拒絶もせずに真っすぐ彼を見つめ、その行為を受け入れている。

 これに対してジーグフェルドは非常に驚いた。

 このような訳の分からない存在に対して、無防備になるイシスを見たのは初めてであったからである。

 この状況を彼は無言で静観した。


 少しの間があったのち、光の男性の唇が動く。


〈やっと見つけたよ……。こんな所にいたんだね。探したよ。れい


 彼の話す言葉を聞いてイシスは驚いた。

 それは周囲にいた者達も同じである。


〈言葉が、同じ!〉


 イシスの目が大きく見開かれ、唇が震えていた。

 彼女はまだふらつく身体を必死に起こし、立ち上がろうと足に力を込める。

 そんなイシスの身体をジーグフェルドが後ろから抱きかかえるように支えてやるのだった。


れい……?〉


『れい?』


〈私を知っているのね? 貴方は誰? 麗って私のこと? 私は、私は誰なの⁉〉


 イシスは光の男性の両腕を掴もうと、手を伸ばした。

 しかし、その手は虚しく空をきるのみである。

 実体のない光を掴むことなど出来るはずがない。


〈あ……〉


 空をきった自分の手を見つめ、彼女の表情が瞬時に悲しく曇る。

 必死に自分が何者かを問いかけるイシス。

 彼女とは違ったかたちで光の男性は衝撃を受けていた。


〈麗……。何ということだ! 記憶を失くしているのか⁉〉


〈そうよ! 私には今までの記憶がないの! そしてこの世界には、私を知っているものはいない……。教えて! 私は何者なの⁉〉


 イシスは必死だった。

 全く知らないこの世界に放り出されてから約五ヶ月。

 やっと出会うことが出来た同じ言語を話す人間なのだから。


〈麗……。抱きしめてあげたいが。今の僕には……もう実体がない。そして時間も……。これが僕からの最後の贈り物だ。受け取ってくれ。〉


 切ない表情で光の男性はそう告げると、イシスの額にそっと口づけをした。

 その途端。

 額が燃えるように熱くなり、イシスは不思議な感覚に全身包まれた。


「うっ・・・!」


 額を押さえて蹌踉めいたイシスの身体を、ジーグフェルド大きな腕が支え受け止める。

 そして彼はそのまま懐の中に隠すようにして、彼女を抱きしめたのだった。


 先程告げた言葉通り。

 光の男性は時間切れといわんばかりに、その輝きと形を急速に失いはじめていった。

 人間のかたちを作っていた光の粒が揺らぎ始める。

 風に吹かれる砂のごとく、サラサラと聞こえない音をたてて床へと落ちていく。

 それでも、最後の力を振り絞るように、唇が切れ切れに言葉を紡いだ。


〈麗……。生き……ろ……〉


〈待って‼ 嫌っ‼ お願い! ひとりにしないで! やっと会えたのよ!〉


 片手で燃えるように熱い額を押さえながらイシスは叫ぶ。

 消えゆく光に向かって、ジーグフェルドの腕の中から必死にもう片方の手を伸ばす。


『イシス……』


 これ程必死になって追いすがるように、誰かを求める彼女を見たのは初めてだった。

 その相手が自分でないことに、ジーグフェルドは軽い嫉妬を覚える。

 そしてこのまま手を離したら、彼女が光の粒と共に消えてしまいそうな不安に駆られた。

 彼は腕に力を込めるのだった。


 イシスが延ばしたその手で、実体のない光を掴むことは遂に適わなかった。


〈……僕の……〉


 この言葉を最後に声は途絶える。

 空中に最後まで残っていた光の粒がキラキラと儚く瞬き、崩れるように床へと落ちた。


〈やだっ‼ 待って‼〉


 イシスの願いも叫びも虚しく部屋に響く。

 絨毯の上で最後の一粒が小さく跳ねると瞬時に消えてしまった。

 周囲は再び元へと戻った。

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