97話 光の灯す記憶【14】
それからどれくらい過ぎたのか、誰にも記憶がなかった。
ほんの数秒だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。
ジーグフェルドに抱えられた身体から、床に力無く落ちていたイシスの指が微かに動いたのだった。
「…………ん……」
次いで彼女の口から小さな声が発せられ、彼の腕の中の身体が僅かに身じろいだ。
「イシ……ス…………?」
ジーグフェルドは驚いた。
信じられないといった表情で、自分の腕の中にいるイシスの顔を覗き込む。
先程までの苦痛に満ちた表情も、額の脂汗も今はすっかり引いている。
顔色も普通に戻っていた。
程なくして彼女の茶色い瞳がうっすらと開かれる。
ジーグフェルドの青い視線としっかり合う。
非道く心配そうにイシスを見ている彼の顔を間近にする。
不思議そうにその唇が弱々しく動くのだった。
「ジー……ク……?」
イシスは今現在の自分の状況が分からない。
先の事で体力を著しく消耗もしている。
直ぐに起きあがることはできなかった。
ジーグフェルドの腕にその身体を預けたままの状態である。
瞳はボンヤリとしていた。
しかし、彼の名を呼んだ口調はわりとしっかりとしている。
「イシスッ‼」
イシスの愛らしい唇が自分の名を呼んだ瞬間。
歓喜のあまりジーグフェルドは再び彼女を強く抱きしめていた。
その目にはうっすらと涙が光っている。
「生きていたんだな……。よかった……。本当によかった!」
「ジーク? ちょ……。どうしたの? 痛い、痛いよ……」
「ああ、すまん。すまん……」
思わず込めてしまった腕の力を彼は慌てて緩める。
そして、イシスを自分の身体からそっと少しだけ離した。
それは幸か不幸か。
今まで当然のようにあったジーグフェルドの温もりが、身体を離したことで失われてしまう。
それによって肌寒さを感じたイシスは自分の上半身を見た。
途端、絶句してしまった。
さっきまで着ていたブラウスが前側全部はだけている。
そのうえ、よく見るとボタンが全て無くなってしまっていた。
辛うじて血まみれのブラジャーが胸の膨らみを被っているだけになっている。
驚きも当然であろう。
「や! やだ‼ な……何? これ⁉」
顔を真っ赤にしながら、慌ててブラウスの前身頃をかき集めて肌を隠す。
「す……すまん。これは……。その……」
ことの張本人であるジーグフェルドが、イシス同様顔を真っ赤にする。
しどろもどろで弁明をはじめた。
「ジークの、仕業か?」
少々涙目で恨めしそうにイシスは下からジーグフェルドを見上げる。
そのイシスの目に、彼は両目を閉じた。
『まいったな……』
緊急の事態ではあった。
だが、ジーグフェルドがやったことは女性をひどく傷つける行為であることに変わりはない。
怒られても仕方のないことである。
『顔の形が変わらない程度ですめばよいが……』
願いながら、ジーグフェルドは二・三発殴られるのを覚悟した。
「そうだ。傷口を探すためにオレがやった。すまない」
そう言って頭を下げた彼に、イシスから返ってきた言葉は以外にも呆気ない一言であった。
「そう、か……」
呟くように言う。
ボタンがないため左右を合わせられないブラウスの裾を、おへその前でキュッと結ぶ。
貴族階級のご婦人でなく農民の娘であっても、こんな場合は喚くか泣き崩れるだろう。
あげくに「責任をとれ」などと言ってくる。
こんな言葉は序の口だ。
イシスの場合は更に手まででてくるであろうと思っていた。
ジーグフェルドの覚悟とは全く反対のイシスの反応だった。
彼はホッとすると同時に拍子抜けもしている。
「怒ってないのか?」
「まあ……。いい、行為じゃ、ないけど。急ぎ、だったの、だろう?」
倒れたのがジュリアで、ジーグフェルドが自分だったと置換える。
きっと同じことをしていただろうと思うので、イシスは彼を責めはしなかったのだった。
《恥など一時のものだし。でも命は一度失ってしまったら、二度と取り返すことは出来ない》
従って、彼のとった行動は決して間違ってはいない。
《それに、まあ。幸いなことにブラジャーがあったから、泣くほど恥ずかしかったわけでもないし……。ビキニの水着姿を思えば、まあましだ……》
「ふぅ……」
ジーグフェルドが安堵の溜息を吐いた。
そんな彼を横目に見る。
イシスは無言で血が噴き出していた辺りを手でそっと押さえた。
《傷などどこにも見当たらない》
そして不思議なことに、彼女の全身から先程の激痛はすっかり消えている。
《何事も無かったかのように身体も自由に動く……》
イシスは大層怪訝そうな表情をして、血塗れの自分の手をじっと見つめた。
そんな彼女にジーグフェルドが心配そうに声をかける。
「身体は大丈夫なのか?」
「ああ。今は、もう、なんともない」
「一体何だったんだ?」
「分からない。突然、胸、大きな痛み、走って……。息、苦しかった……」
イシスは再び心臓の辺りを手で押さえた。
その時である。
突然、彼女と絨毯を赤く染め上げていた血がキラキラと眩いばかりに光り輝きだしたのだった。
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