96話 光の灯す記憶【13】
イシスはゆっくりと周囲を見渡す。
だが、視覚的に何も異変は見当たらない。
聴覚的にも何かが聞こえるわけでもない。
何もないはずなのに六つ目の感覚。
いわゆる第六感が異変を感じ取っているのだった。
心拍数が小刻みに早くなり、寒くもないのに鳥肌が立つ。
全身の毛が逆立つと、最後に震えがきた。
《なに⁉ この感じ……》
胸に手を当て、再度部屋を見渡した直後である。
突然イシスの身体を激しい激痛が襲った。
「ハウッ‼」
飲み込むように小さく声を発すると、激痛の衝撃で上半身が後ろに一瞬大きく仰け反る。
次に全身が麻痺していくような感覚に見舞われ、遂には呼吸をすることも出来なくなった。
何が自分に起こったのか全く分からず、イシスの頭の中は真っ白となる。
痛みが一番酷かったのは心臓の辺りで、なにかに刺し貫かれたような衝撃を受けていた。
朦朧として消えかかる意識の中。
心臓部を両手で抱え込むように押さえ、彼女はゆっくりと床に崩れ落ちていった。
「イシスッ‼」
異変に驚いたジーグフェルドが叫ぶ。
倒れるイシスを支えようと椅子から立ち上がり、懸命に腕をのばしたが間に合わない。
突然発せられたジーグフェルドの大きな叫び声。
二つの椅子がほぼ同時にひっくり返った音。
ほんの少しの間をおいて、イシスが床に倒れ込む鈍い音が部屋中に響き渡る。
退出するため扉に向かっていた人達が、驚いて音のした方へと一斉に振り返った。
「どうしたのだ?」
「陛下……?」
彼等の視線が、イシスの側に駆け寄るジーグフェルドの動きに合わせて床へと移動する。
その先に胸を抱えて床に倒れ込んでいる彼女を捉える。
「何だ?」
「イシス……?」
「どうした?」
当初から戦に参加していた面々が口々に声を発しながら、彼女の周囲へと駆け寄って行く。
そして彼等は更に驚く光景を目の当たりにすることとなる。
仰向けに倒れているイシスの胸。
心臓の辺りからおびただしい量の血が噴き出している。
それは瞬く間に彼女の着ている白いブラウスと、床に敷いてあった絨毯を真っ赤に染め上げていった。
まさにイシスは血の海に横たわっている状態である。
「イシス! イシスッ‼」
余りにも突然の出来事だっただけに、ジーグフェルドは激しく動揺していた。
震える手でイシスの頬に触れ、その名を何度も叫ぶ。
しかし、既に彼女は意識を失っているのか、彼の呼びかけに対して全く反応しない。
しかも出血による極度の痛みのせいであろう額には脂汗が浮き出ている。
その表情は苦痛に満ちているのだった。
誰の目から見ても瀕死の状態である。
「イシス殿!」
「イシス‼」
「おい! イシス!」
二人の周囲を取り囲んだ人々も、その様子に口々に彼女の名を呼んだ。
出血している傷を探そうと、ジーグフェルドはイシスのブラウスの胸元を掴み、引き裂くように左右へと強引に引っ張った。
その力にボタンがパチパチと悲鳴を上げながら血の海へと弾け飛ぶ。
彼女の上半身が露わとなる。
今のジーグフェルドにはボタンをひとつひとつ外していく余裕はない。
ましてや女性なのにとか周囲に男性がたくさんいるのになどと気遣ってやる余裕も全くなかった。
とにかく傷を見つけて塞ぐこと。
それだけしか頭にはないのだった。
そんな状況の中。
イシスはこの世界にくる以前から身に着けていたもののひとつであるブラジャーをしていた。
そのおかげで完全にセミヌードにならずにすんだのは幸いであった。
しかし、緊迫した状況は依然として続く。
勢いに任せて服を脱がせはしたものの、ジーグフェルドは愕然としていた。
「‼」
イシスの胸元から確かに出血はしている。
だが、その部分に触れても肝心の傷がどこにも見当たらないのだ。
それなのに真っ赤な鮮血のみが、次から次へと止まることを知らないかのように噴き出してくる。
「傷が、ない……」
この信じられない現象に、一同はひどく驚く。
「一体どういうことなのです?」
「分からん! 傷がどこにもないのだ……」
「そんな馬鹿な!」
「では、一体どこから出血していると言うのです?」
「オレの方が聞きたい。刃物などは刺さっていないし、第一この部屋で誰が攻撃するというのだ⁉」
そう、この部屋にはジーグフェルドを中心とした同士しか存在していない。
会議の場に剣を持参した者もひとりとしてない。
しかもイシスに異変が起きた時。
その側にはジーグフェルドしかいなかったのだ。
「こんなに大量の出血をしては死んでしまうぞ‼」
「早く血を止めないと!」
カレルが叫び、プラスタンスが怒鳴る。
「無理だ! キズが見当たらん!」
周囲が為す術もなく狼狽えている間。
状況は更に悪化し、イシスの身体が痙攣を始めた。
それは死を迎えるということだ。
「いや……。イシス……」
ジュリアが口に手を当て、泣き崩れそうになる。
「しっかりしろ! イシス‼ イシス‼」
ジーグフェルドは痙攣している彼女の上半身を抱え上げ、必死に名を呼ぶ。
『どうしてこんなことに⁉』
彼の脳裏をこの言葉のみが、何度も何度もグルグルと駆けめぐる。
「死なないでくれ! イシスッ‼」
ジーグフェルドが悲鳴のように強く叫んだ時だった。
彼の腕の中で微かながらも動いていた彼女の全身から、全ての力がするりと抜け落ちた。
首が頭を支えることを放棄する。
その重みがジーグフェルドの胸へとゆっくりと移動してきた。
即ち、それの意味するところは完全なる死である。
「……うそ……だろう‼ こんなことって……」
信じられないといった表情で、震えるジーグフェルドの唇が動く。
「どうしてなんだっ⁉ イシスッ‼」
悲痛な面もちで彼は叫びイシスの身体を強く抱きしめる。
誰の目から見ても彼女の死は明らかであった。
あまりのことにその場に崩れ落ちる者もいる。
「そんな……」
「どう、して……?」
全員がこの出来事に呆然としてその場に立ちつくす。
部屋の中の時間が凍り付いたかのように止まった。
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