90話 光の灯す記憶【7】
ファンデール侯爵アーレスの体調は
ドーチェスター城【花の郭】での瀕死状態を知るカレルもアーレス自身も驚くばかりだ。
もともと心身の健康と鍛練には十分気を使う方であった。
だが、それにしてもこの快復は異常なほど早いのである。
つまりは全てイシスのお陰であるといっていい。
到着当日は移動の疲れがあるだろうからと、再開以降の面会は流石に控えた。
そして翌日夜、アーレスの部屋の前でジーグフェルドは浮かない顔をして立っているのだった。
『母上のことを、どう告げよう……』
ランフォード公爵城までの道中。
カレルもイシスもそのことを彼には伝えていないと告げられた。
『何故か父上自身も一切触れてはこなかったといっていた』
カレルとイシスがそうしなかったのは、弱っている心身に更なるショックを与えてはならないと判断したからである。
またそれはジーグフェルドの役目であるとも理解していたからだ。
彼は俯いて瞳を閉じた。
『父上には母上のことが分かっているのかも知れない。だから何も聞かないのではないだろうか?』
そう考えると、ただただ辛い。
全ては自分の至らなさのせいであるから。
しかし、嘆いてもいられない。
生きている者は皆。
明日に向かって前を向き、動いていかなければならないのだから。
それが自分のせいであるならなおさらだ。
ジーグフェルドはゆっくりと扉を叩いた。
母付きの侍女で、ここに残ってくれたひとりが顔を出す。
そして中へと入れてくれた。
奥に設えてあるベッドに寝ているアーレスに笑顔で近寄る。
「ご気分は如何ですか?」
「これは陛下。わざわざお越し下さり、恐悦至極です」
嬉しそうに笑い、ふらつく身体で起きあがろうとする。
そんな彼をジーグフェルドは慌てて止めた。
「ああ、どうかそのまま」
昨日より更に顔色がよくなっているように見えるので、少し安心した。
そして、近くにいた医師に尋ねる。
「少し話せるか?」
「数分程度でしたら大丈夫かと存じます」
「分かった」
ジーグフェルドはベッド横に椅子を貰い、出来るだけ父アーレスの側で話すよう務めた。
医師と侍女は黙って部屋から退出する。
気を利かせてくれたようだ。
「父上……。あの……」
そう言いにくそうに切り出した彼に、厳しい言葉が返ってきた。
「まだそのようにお呼びですか? 私は陛下の父親では御座いませんよ。改めて頂くよう何度もお願い申し上げたはずですが? プラスタンス殿のことも、いまだに叔母上と呼んでいらっしゃるそうですし……」
「あ、の……。ですが……」
「そのお言葉使いも。君主が臣下の者に対して使うものでは御座いませんね」
「…………」
玉座に就く時にも散々行った問答であり、返す言葉なくタジタジである。
アーレスのことを父親として尊敬し慕い十九年間生きてきた。
それを急に変えろなどと言われても無理である。
そんなに器用ではないし、その理由に自分自身が納得できていないから。
「そのことは十ヶ月程前に、納得して頂いたはずですが?」
「私は何一つ納得などしてはおりません! 貴男のことも父上以外に呼び方など知りません」
やっとのことで反論するが、まるで駄々っ子状態である。
アーレスは深い溜息を吐いた。
「……困りましたね。陛下はファンデールの者ではないのですよ。一時的に御身をお預かりしていただけです。どうかご理解頂きたい」
「ですが!」
尚も食い下がろうとして、ジーグフェルドは言葉を飲み込んだ。
『このような口論をしに来たわけではない。父上の身体にも障る』
快復傾向にあるとはいえ、まだまだ完全快復にはほど遠いのだから。
「すみません……。こんなことを言いに来たのではありませんでした。母上のことです……。お聞き頂きたい」
そう言ってジーグフェルドは持ち得る限りの情報を丁寧に告げる。
アーレスは目を閉じたまま一言も発することなく全てを聞き終えた。
ゆっくりとその目を開けジーグフェルドを見て頭を下げた。
「お手数をおかけ致しました。処置に感謝致します」
彼の言葉にジーグフェルドはまた苛立つ。
いくら産みの親でないといえど、母と呼び育ててくれた女性には違いないのだ。
それはアーレスも同様に、ジーグフェルドの中では生涯変わらない事実。
それなのにあまりにも他人行儀過ぎる。
更には彼の言葉ひとつ態度ひとつが、自分を突き放しているようでとても悲しくなってしまった。
暗闇に放り出された幼子のような気持ちである。
「父上……」
ジーグフェルドは悲痛な面もちでアーレスを見つめた。
「お知らせ下さりありがとうございました。ひどく疲れました故、暫くひとりにして頂けませんか?」
やっと再会できたのだ。
まだまだ話したいことは沢山ある。
しかし身体にも障るし、こう言われては引くしかない。
「分かりました……。下がります」
彼は椅子から立ち上がった。
そして懐から小さな紙を取り出し、そっと手渡す。
「お疲れでしょうが、これを受け取って下さい。母上からです」
「レリアから!?」
アーレスは驚いていた。
侍女から渡されていた手紙は二通あったのである。
一通はジーグフェルド宛てで、もう一通は夫であるアーレス宛てに。
自分が受け取った手紙と一緒にずっと懐で大切にしていた。
それをやっと渡せたのである。
ジーグフェルドは少しだけ心が軽くなったような気がした。
「お休みなさい」
そう告げて彼は退室する。
アーレスは本当にひとりになった。
そして先ほど渡されたレリアからの手紙を開く。
『貴男からの愛に包まれ、陛下に出会え、本当に幸せでした。二人の今後の幸せを願います』
弱々しい文字で認められた短い文章。
しかし、確かに彼女の手によるもので、単語のひとつひとつに深い愛情を受ける。
あり得ないことではあるが、確かにレリアの温もりをそこに感じた。
守りきらなかった最愛の女性。
彼の頬を一筋の涙が伝う。
「ひとりで逝かせてしまった……。すまない。レリア…………」
力無く呟いたアーレスはそっと目頭を押さえた。
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