59話 揺れる心【9】

「あ! いかん!!」


「どうされました!?」


 彼の直ぐ後ろに控えていたプラスタンスが、何か不備があったのだろうかと驚く。


 そんな彼女の方へと振り向いた彼の表情は、ひどく困っていたし、悲しそうでもあった。


「マーレーン男爵まで流れて行ってしまったぞ……」


「そ…のようですな……」


 ラルヴァが何を今更といった顔をする。


「下流で回収出来ないかな?」


「遺体で宜しければ……」


「……それは…、欲しくない…か・な……」


 死んでいるのでは意味がない。


 イシスの件も含め、自分が殺したかったのだから。


 己が作戦を立てておきながら、何とも間抜けなことを言う。


 まあ、それが彼らしいとも言えるのだが。


 後方木の陰で司令官バインが、誰にも分からないようにクスリと笑った。


「これでやっと進軍できますね!」


「そうですね」


 司令官バインの言葉に気を取り直したのか、ジーグフェルドがニッコリと笑った。


「シュレーダー伯爵、アフレック伯爵ありがとう。お疲れ様でした。上流で待機していた者達を呼び戻して、十分に休息を与えてやって下さい。」


「恐れいります」


「お言葉ありがたく」


 二人の表情も晴れやかであった。


 昼間戻ってきた時もそうであったが、自分の身を労ってくれるばかりでなく、他の兵士達の身体をも気遣って、言葉をかけてくれる。


 上にいる者が、いや国王がかけてくれるこの一言が、どれほど兵士達に活力を与えてくれるか、彼は分かっているのだろうか。


 彼のために働いてよかったと思える瞬間である。


 そのことが二人には何より嬉しかった。





 夜が明けてから、また大変な作業が待っていた。


 河川内を一掃した洪水は、扇状地に大量のお土産を残していっているからだ。


「これはまた……。凄いですな……」


「岩に丸太に木々の破片……、そして泥か……」


「向こうの山すそまで散乱してますね……」


 ラルヴァの言葉に、プラスタンスと司令官バインが続く。


 敵兵の動く姿はいっさい見あたらない。


 殆どの者は訳が分からないまま、濁流にのまれたのであろう。


 下流へ行けばきっと屍が、累々と積み上がっていると思われる。


 今現在、川の水位はかなり低く、踝のあたりを気持ち程度流れていた。


「敵がいなくなったのはいいけれど、ここからが大変だな……」


 小さく溜息を吐くジーグフェルド。


 だが兵士達の反応はすこぶるよかった。


 たった一夜、いや数時間にして敵兵一万五千を一掃してしまったのだ、この光景が彼等にもたらす効果は計り知れない。


 しかもバーリントン伯爵城を攻めた時同様に、またこちら側の被害がほぼゼロなのは、喜ぶべきことである。


 ほぼ、というのは、堰を築いた際に、シュレーダー伯爵とアフレック伯爵の陣営に怪我人が数名発生したためである。


 それでも死者はいない。


 北西域連合軍として兵を挙げてから、大きな衝突はファンデール侯爵城の時のみで、その後は知略を駆使した戦いばかりで全勝である。


 兵士達の志気は上がる一方であった。


「さてと、大変でしょうが、荷車が通れるように、道を造って下さい。指揮はコータデリア子爵にお任せします」


「かしこまりました」


 任された子爵は実に嬉しそうな表情をした。


 今まで共にいて、初めて任された大任だからである。


「今回荷車が通れればいいだけですから、道は別に真っ直ぐでなくて構いません。多少曲がっていても問題はありませんので、速度を優先して下さい」


「承知致しました」


「それと労働力はファンデール侯爵家の兵も使って下さい」


「お言葉ありがたく」


 松明を照らして昼夜作業を行った結果、二日で出来上がった。


 驚くべき早さである。


 コータデリア子爵の労をねぎらい、早々に進軍を再開して道の半分まで進んだ時であった。


 前方より砂塵が巻き上がるのが見えた。


 ランフォード公爵の旗が見て取れる。


 他にも複数違う色の旗が風に靡いていた。


 その数約一万である。


「!」


 全員の顔が瞬時に青ざめる。


 足下の泥はかなり乾いたとはいえ、今いる場所が戦場に適しているとは言い難い。


 しかも現在の隊列は、縦一線であるうえ、まだまだ多くの兵士達が山中である。


 急いで出てこさせても、とても陣形を整えるまでには至らない。


「いかん! 山の中へ戻れ!」


 ジーグフェルドは叫んで、後退を命じる。


 せっかく平地へ出たというのに、アッという間にもとに戻されてしまった。


 ランフォード公爵軍は、前回同様の攻撃を受けることを警戒してか、左右の山に囲われた扇状地へ踏み込んでこない。


 山の連なりが切れた、入り口の先に陣を張った。


 結局事態は振り出しに戻ってしまい、膠着状態へ陥ってしまっていた。


「参ったな……」


 よい打開策もなく、食料を消耗するだけの、非常に好ましくない状況となる。


 更に今より数日前から、毎日届けられていたジュリアの手紙が届かなくなったのだ。


 不安になりマーレーン男爵城の管理を任せてきたパーロット男爵に手紙を送るが、彼の手元に届くだけでこれまた数日かかるであろう。


 眼前の敵と、イシス達の様子。


 ジーグフェルドにとって眠れぬ夜が続く。

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