55話 揺れる心【5】

「まだ休んでいなかったのですか?」


「それは陛下の方でしょう」


 ジーグフェルドの台詞に、プラスタンスは眉間に皺を寄せた。


「二人揃って、どうしたのです?」


「陛下…、あのイシスは……」


 ジュリアが泣きそうな表情で、おずおずとイシスの身体のことを彼へと告げる。


「何だって!?」


 知らされたジーグフェルドは青ざめるのだった。


「オレは……」


 俯いて顔を覆う。


『何故気付かなかったのか……!? いや気付いてやらなかったのか……』


 後悔の念が頭の中でグルグル渦巻き、一層彼を苦しめる。


 イシスは女性にのみ月に一回定期的に訪れるお客さん、生理が始まっていたのだった。


 この時の体の調子は、個体差が大きくでる。


 全く何も問題なく普段と変わらない者もいれば、下腹部に激痛があり貧血を起こして寝込む者もいる。


 一様に言えることは、嗅覚や味覚が敏感になることだ。


 普段は気にならないような臭いでも、とても不快なものに感じてしてしまったり、ひどい時には自分の体臭ですら気持ち悪く思ってしまう時もある。


 いくら次の生命を育むためのものであっても、それが頼みもしないのに、毎月やってくるのだから女性は大変だ。


 このことが女性は戦闘に向かない理由のひとつでもある。


 そしてこれは精神的なことにとても大きく左右されるため、異世界にたったひとりで存在していること、言葉や生活環境の違い、また戦といった負の要素が重なって起こったイシスには、今まで生理がこなかったのだ。


 男性とは違い、女性の身体は色々なことに敏感で、デリケートなのである。


「陛下と出会ってから今日までの約三ヶ月間、全くこの兆候がなかったのでしたら、今回はかなり重くきつかったはずです」


「ええ、私のところにきた時は、既にかなり辛そうでした……。微熱もありましたし、本当なら途中どこかで休ませてあげたいくらいでした」


 プラスタンスの言葉にジュリアが補足する。


「それをこの城に着くまではと、頑張って我慢していたのだろうからな……」


 二人とも知ってはいるが、ジーグフェルドにはっきりと伝えることは躊躇ためらっていたのだ。


「自分達とてこの時は男性に気遣って欲しいが…、かといってあからさまに知られるのもいい気持ちはしない。微妙な女性の心理です。ましてや他者から男性に、告げられたくは決してない事柄ゆえ……」


 だからこそジュリアはあそこまで口を濁していたのだ。


「どうかジュリアを責めないで頂きたい」


 そして当のイシスも何となく気恥ずかしく、ジーグフェルドに気付かれたくなくて、あんな態度だったのだろう。


 可愛いことに、彼女なりに恥じらっていたのだ。


 だが、そのことがジーグフェルドの不安を煽ってしまった。


 本来なら気付いていたり、疑問に思ったりしていたであろう事柄に、全く注意がいかなくなってしまったのである。


 結果、今回の事件に至ってしまった。


「オレが一番気遣ってやるべき存在なのに……」


「陛下…」


 飲み物に入れられていた毒を速効でイシスが気付いたことから、彼女は人体に害があるものを見極めることが出来る能力があるのだと確信が持てた。


 これはアスターテ山脈を移動していた頃、彼女が採取してきたキノコや果物の中に、毒性を持つ物が一切混入していなかったことからも証明される。


 普通の状態であるならば、目の前にグラスを出された時に危険であると気付いたはずなのだが、今はタイミング悪いことに、あまりにも重くひどい生理痛と微熱のせいで、その鋭い感覚が麻痺してしまっていたのだった。


 そのため気付くのが遅れた。


 一口含んでようやく気が付いたのだ。


 不幸な偶然が重なって起こった出来事であった。


「今まで本当に何度も彼女に命を助けて貰ってきたのに、自分はその逆で、もう少しでイシスを死なせてしまうところだった……」


 しかも自分の中で発生した苛つきをぬぐい去りたいがための、無神経で一方的な気持ちの押しつけを、押さえきれなかったばかりに。


「情けない……」


 呟いて涙が出た。


 こんな感情を何と呼ぶのか、彼はまだ気付いてはいない。


 テーブルに肩肘を付いて、手で顔を覆うジーグフェルドを、プラスタンスがとても不安そうな表情で見つめた。






 進軍の朝になってもイシスはベッドから起きることは出来なかった。


 意識のない状態からは幸いにも脱したが、彼女が身体に受けたダメージはそう簡単に回復とはいかない。


 もともと体調がよくなかっただけに、通常よりも時間がかかる。


 枕元に立ったジーグフェルドは、断腸の思いで彼女へと告げる。


「すまない……。そなたを置いて出発する」


 唇を噛みしめ、ジーグフェルドは言葉を吐き出した。


「後で、追う、よ」


 やつれた顔で彼女は笑う。


 笑いながらたどたどしく喋るイシスがひどく愛おしかった。


 意識が戻ってからも、彼女はジーグフェルドを責めることはなく、ただただ彼が無事であり、自分の行った行動が正しかったことを喜んだ。


 まだあまりよく自分達の言語を喋れない彼女を残して出発しなければならないことがとても辛い。


 片言でかなり話せるようになったとはいっても、両国の言語を訳している辞書など存在していない。


 それに聞き取るヒアリングよりも、自分の意志を相手に伝えるスピーキングの方が何倍も大変なのだ。


 こんな状態では尚更である。


 しかし、イシスのために回復するまで、ここに陣をはることは出来ない。


 ましてや軍を率いている自分が残り、他だけを進軍させるわけにもいかない。


 ジーグフェルドは、今の自分の立場が恨めしかった。


「私がここに一緒に残ります。どうかご安心を」


 ジュリアがそう言ってくれたのがせめてもの救いである。


 城の管理をまかせたパーロット男爵と、彼の軍勢二千をここへ残した。


「呉々も二人のことを宜しくお願いします」


「かしこまりました」


 後ろ髪を引かれながらジーグフェルドはマーレーン男爵城を後にした。


 アスターテ山脈スオード山で出会ってから初めて、ジーグフェルドとイシスは行動を別にするのであった。

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