53話 揺れる心【3】

「う……」


 先ほどテーブルに置かれた飲み物の中に、即効性の毒が盛られていたのだ。


 それに気付いたイシスの制止も、時既に遅かった。


 ジーグフェルドは少し飲んでしまっていたから。


「チッ!」


 イシスは小さく舌打ちして、彼の口や胃の中を洗浄できる水を探した。


 テーブルの上に水差しが置いてある。


《いや、ダメだ。危険すぎて使えない。水を求めることを予測して、大量の毒が仕込まれているかもしれない…。他になにか…》


 更に、部屋中に素早く視線を巡らす。


「あっ!」


 部屋の中央に視線を向けた先、今はまだ使用されていない暖炉の上に、花が生けてある花瓶が飛び込んできた。


 花は生き生きと鮮やかな色を発している。


 イシスは花瓶を手に取り、生けてある花を乱暴に放り出して、中の水をジーグフェルドにそのまま飲ませる。


 そして、彼の口の中に指を入れ、飲ませた水を強引に吐かせた。


 その動作を何度も繰り返す。


 花瓶の水が底をついた頃、ジーグフェルドはようやく二重の地獄から開放される。


「ゲホ……ゲホ……。ハァ…ハァ…」


 床に腹這いになりながら、かなりせてはいるが、一命は取り留めたようだ。


 焼け付くように熱かった喉や胃は、かなり楽になっている。


『……助かった…』


 まだ咳き込みながら、床を向いていた顔を上げてジーグフェルド凍り付いた。


 視線の先でイシスが床に倒れていたからだ。


「イ・シス…!? おい! イシス!!」


 グラスの毒に気付いたのが早かったので、ジーグフェルドほど飲んではいなかったが、やはり一度少し口に含んでいる。


 今、毒が回りだしたのだろう。


 自分を後回しにしてジーグフェルドの手当をした結果だった。


「イシス!!」


 彼は青白くなっている顔をさらに青くした。


 急いで彼女の口や胃も洗浄しなければならない。


 ジーグフェルドはまだふらつく身体を必死に起こし、イシスを抱き抱え水を探した。


 だが、屋敷内の飲み水はあまりにも危険すぎる。


 ましてや自分はイシスのように毒味が出来ないため、迂闊に飲ませられない。


 しかし、急がなければ死んでしまう。


 そうしているうちにも、彼女の顔色はどんどん悪くなる。


 ジーグフェルドは焦った。


「イシス……」


 彼女を強く抱きしめたジーグフェルドの脳裏に、城のすぐ側を流れていた川の光景が浮かんだ。


「そうだ! そこなら」


 一連の自体に顔面蒼白となり床にへたり込んでいる給仕には目もくれず、イシスを抱えて城外の川へと必死に走った。


 川辺に彼女を横たえ、最初は手で水をすくって飲ませたが思うように口に入らない。


 一刻を争うので自分の口に大量の水を含み、イシスの上半身を起こして唇を重ねると、一気に彼女の口へと注ぎ込み飲ませた。


 更に、飲ませては吐かせるを何度も繰り返す。


「間に合ってくれ! 助かってくれ……」


 その行為が自分にとって、とても危険であるということなど、今の彼の脳裏には微塵も浮かばなかった。


 他の状態ならば別段構わないのだが、口から毒を受けた者に口移しで水を飲ませれば、当然その最中逆に貰ってしまう可能性が高い。


 助けようとして行った行為によって、その本人までもが共倒れとなる、危険な行動なのである。


 しかし、今のジーグフェルドにあるのは、ただただ彼女を救いたいという思いだけであった。


 もの凄い形相でイシスを抱え、ふらつきながらも城の廊下を疾駆しっくしたジーグフェルドの様子を聞いた者達が、二人のいる川辺に集まってきた。


「陛下!?」


「ジーク!」


「一体どうされたのですか!?」


 状況を知ろうと、口々に問いかける。


「…う……」


 その時、青ざめたイシスの口からようやく声が漏れる。


「イシス!!」


 ジーグフェルドはイシスを抱きしめた。


 全てのものに誕生がある限り、必ず最期を迎える瞬間ときがくる。


 ファンデール侯爵家の祖父母を亡くし、周囲のアフレック伯爵家やシュレーダー伯爵家のご老人達も見送ってきた。


 悲しくて泣いたこともある。


 ローバスタ砦で勤務していた時も、他国との戦こそなかったが、訓練中に死亡する者はいた。


 戦をしている今、それは至極当然のこととして考えていたはずだ。


 しかし、失うことをこれ程までに恐ろしく感じたのは生まれて初めてだった。


 イシスを抱きしめている己の手が小さく震えているのは、毒のせいではないとジーグフェルドは思った。

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