29話 愚かさの代償【9】

 一方イシスは、ジーグフェルド達とは少し離れた森の中を、ひとり歩いていた。


 戦闘の傷跡がいたるところに刻まれている。


 彼女はとても不快な表情を浮かべていた。


≪悲惨だな・・・≫


 過去の記憶はなくとも、初めて見る光景であるということは分かる。


 樹海でジーグフェルドと共に襲われた時、自分が斬った相手に対して、また光景に対してここまで不快には感じはしなかった。


 血の臭いに関しても。


 しかし今は周囲に充満している臭いが、耐え難いほど嫌で、眉間に縦皺を刻んだ。


<人は・・・>


 その時、また不意にあのテノールが頭の中に響いてきた。


<人に欲がある限り、人類の歴史から戦争が無くなることはないんじゃないかな・・? そんな気がするよ>


「えっ!?」


 イシスの瞳が大きく見開かれ、誰もいない空間を凝視する。


<虚しいね。自分の大切な人を守るためと言いながら、他者の大切な人を殺す。本当に人間は過去の歴史から何も学べない生き物だね・・・>


 確かに自分の横に誰かがいて、会話をした気がする。


 それが誰なのか、本当に欠片も思い出せない。


 しかし、脳裏に残り響く言葉が、今自分が置かれている状況とあまりにも重なり、イシスの心を引っ掻いた。


≪これは一体、何のための戦なのだろう? ジーグフェルドは、そして自分はどこに向かっているのだろう?≫


 イシスは思わず天を見上げる。


 だが、不思議とジーグフェルドから離れようとは思わなかった。


≪信じよう。あの男を。私にとってこの世界で唯一の道標なのだから≫


 その時である。


 側の茂みで何かが動く音がした。


 残存兵がまだ残っているのかも知れないと、イシスは瞬時に剣を構え、瞳を凝らして音のした辺りを見つめる。


「あ・・!」


 そこには一羽の雄鷲がその羽に矢を受け飛べずにもがいているのだった。


「何だ・・」


 イシスは緊張して止めていた息をフッと吐き出し、鷲の方へと足を進めた。


 人間が近づいてきたので、鷲は興奮し傷ついた羽根を広げ、声を出して威嚇する。


<静かに。傷にさわる。お前なんか誰も食べやしないよ>


 イシスの声を聞いた鷲は、急に静かになった。


<いい子だ。言葉分かるでしょ?>


 鷲は首を傾け、不思議そうにイシスの顔を見上げる。


 そんな鷲に苦笑し、そっと抱き上げると、イシスは屋敷の方へと踵≪きびす≫を返した。


 その途中で同じく屋敷へ戻ろうとしていたジーグフェルドとカレルを見つける。


「ジーク!」


 今度も後方からかけられた聞き慣れた声に、ジーグフェルドが驚いて振り返ると、こちらへ向かって走ってくるイシスの姿があった。


 しかもその腕に何やら抱えている。


「どうした!? イシス」


 いつもと同じく自分に近づいて来てくれる彼女に、ジーグフェルドは心の中で安堵しながら、駆け寄ったのだった。





「鷲?」


 手当てした鷲を、イシスがバスケットに入れて食堂へと持ってきた。


 食事の支度が出来たと告げられた彼女が、部屋に鷲を置いていこうとしたらとても騒いだので、仕方なくここへ一緒に連れてきたのである。


 テーブルにはシュレーダー伯爵親子、アフレック伯爵一家、そしてローバスタ砦司令官バインが既に席に着いていた。


「ええ、流れ矢にでも当たったのでしょう。傷ついているのをイシスが拾ってきたのです」


 手当を手伝ったジーグフェルドが、周囲の者に説明をする。


「鷲・・ねぇ・・」


「あれはランフォードではないのですから、殺したりなさらないで下さいよ。プラスタンス叔母上」


 イシスの席後方の床に置かれたバスケットを上から見下ろし、少し不快な表情を見せたプラスタンスに、正面の席に腰を下ろしたジーグフェルドが慌てて釘を刺す。


 ランフォード公爵の旗が双頭の鷲なので、きっと奴を連想したと思ってのことである。


 プラスタンスの横で、エアフルトが床にへばり付くようにして、瞳を輝かせ鷲を眺めた。


 人間に囲まれた鷲が再び興奮して、ケガをしている羽根をバタバタさせて威嚇の声を発し始める。


<かいり。静かになさい。傷にさわるよ>


 イシスはこの鷲に、かいりと名付けた。


 シュレーダー伯爵から頂いた栗毛の馬の名は翼と、空に因んだ名前を与え。


 そして大空を支配する鷲には浬と、海に因んだ名前を与えている。


 きっと海の生物と親しくなったなら、陸に因んだ名前を付けるのであろう。


 何故なのかは分からないが、イシス自身そうするのが自然であると思えたのであった。


 彼女の言った言葉が分かるのか、鷲は騒ぐのを止め静かになる。


 ローバスタ砦で小鳥と会話し、嵐が来ることを予言したのを目の当たりにしているジーグフェルドと司令官バインは、また彼女の不思議に触れた気がした。


「鷲って何食べるの?」


 そんな二人を余所に、間近で鷲を初めて見たエアフルトが、プラスタンスを見上げ無邪気に聞いた。


「バッ」


 「バカ。よせ!」とジオが言おうとしたが、間に合わなかった。


「野生なのだ。生肉に決まっておる」


 間髪入れぬ無神経すぎるプラスタンスの返答に、食卓のあちこちから不況音が響く。


 ジーグフェルドは飲んでいたものを吹き出し、カレルがグラスを床に落とし、ジュリアはナイフで切り分けていた肉をテーブルの上にはじき飛ばしてしまった。


 質問したエアフルトに至ってはその場で石化している。


 食事の最中だというのに、戦争初体験世代が揃って具合を悪くし、部屋へと退却を余儀なくされた。


「おやおや・・・」


 プラスタンスが呆れ顔になり、ジオと司令官バインは天を仰ぎ額を抑えた。


 前途多難な指揮官候補生達である。


 そんな中、唯一イシスだけは食事を続けていた。


 プラスタンスの言った言葉が理解できないのだから、平気であるのも当然と言えようが、それだけではないようである。


「美味しいか?」


「ああ、美味しいよ」


 プラスタンスの問いかけに、ジーグフェルドそっくりの口調で、ニッコリ笑って返事をする。


 そして浬用にと用意して貰った生肉を、笑顔で摘んで彼に食べさせるのであった。

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