13話 陰謀のドーチェスター城【8】
イシスは宛てがわれた部屋のテラスに出ていた。
ラルヴァに挨拶をしたのち。
疲れた身体を早く休めるようにという、ジーグフェルドの配慮から先に退室したのだった。
しかし、借りた夜着に着替えはしたものの、まだ一向に眠気がこない。
なので深夜ではあったが外に出てみようと思ったのである。
客用の部屋は王宮よりの使者達が使用している。
イシスとジーグフェルドには家族用棟の、普段は使用していない空き部屋が用意された。
家族用と客用は別棟で離れている。
廊下で鉢合わせする危険性が少なく、この方が安全であるといえた。
手摺りに腰掛け、柱に身体を凭れかける。
月明かりに照らし出される美しい庭を二階から見下ろす。
そして、ここ数日間のことを分析した。
⦅今まで会った人間や、この屋敷から考えると、時代的に中世って感じよね。武器は剣や槍、そして弓を持っている者もいたわね……。銃や大砲などの飛び道具は、全く見当たらない。ということは火薬が発明される以前の時代と思っていいだろうな……⦆
そして、小さく溜息を吐くと徐ろに天空を見上げた。
赤と青の双子の月を。
『二つの月。大きさはどちらもほぼ同じに見える。まぁ、だからといって実際の質量が同じとは限らないけど……。片方の距離が遠くて大きいから、ここから見ると同じ大きさに感じるだけかもしれないし……。同じ太陽の光を受けて発行する色が違うのは、月を形成している鉱物が違うためかな?』
冷静にというか、なかば自棄になりつつ分析している。
だが、この月こそ自分がこの世界の人間ではないと確信するに至った代物なのであった。
『あそこに浮かんでいるのが、見慣れた黄色の月ならよかったのに……。この風景は全く別世界だもの……』
今度は盛大に溜息を付き、がっくりと項垂れて片膝を抱え込む。
呟いた途端、落ち込みだしたのだ。
今までは色々と分析するだけの情報量があまりにも少なすぎた。
また、その日を生きることに精一杯で、極力考えないようにしていたのだ。
しかし、こうして少し時間や生活に余裕が出来ると、どうしても思考が働いてしまう。
『この世界がどこなのか? 何故ここにいるのか? 記憶を失っている自分は誰なのか? 今までの自分は何をしていたのか? そして、これからどうすればいいのだろうか?』
全ての疑問に対して答えを得ることは出来ない。
『あ~あ……。本当に一体どうしてこんな世界に紛れ込んでしまったのかしら? 言葉は違うし、誰一人知る者はいない。過去の記憶も虚ろなうえ、自分が誰なのかすら分からないなんて……。まいったなぁ……』
イシスの意識はそのまま深い暗闇の底へと落ちていった。
その時不意に、彼女の脳裏にテノールの優しい声が響いてくる。
それは声だけだというのに、明るい光となって沈んでいた彼女の心に差し込んできた。
『こっちへおいで。うん、そうだね。我々の持つ力は強大すぎる。人は自分たちと異なる者に、恐怖や嫌悪を感じる。出来るだけこの力を他人には見せない方がいいと思うよ』
『あれ……?』
イシスは顔を上げ、固まった。
確かにその声には聞き覚えがあり、懐かしく感じる。
しかし、顔も名前も頭に浮かんではこない。
『しかも、どうしてこんな台詞が、いきなり浮かんできたのだろう?』
彼女は首を傾げた。
⦅この力って……、空を飛んだりすることかな? ジーグフェルドが相当驚いていたものね……。彼は飛べないし……。じゃあ、彼の前で飛んだのはいけなかったのかな……?⦆
が、どんなに一生懸命考えても分からない。
煮詰まりだしたイシスが、再び闇に沈んで行きそうになった時だった。
「どうかしたのか⁉ イシス?」
最近最も聞き慣れた声が、背後から掛けられた。
驚いて振り向く。
隣のテラスにジーグフェルドが立っていた。
手摺りから身を乗り出し、心配そうにこちらを見ている。
「ジーグフェルド……」
見慣れた顔が現れて、イシスの心が訳の分からない暗闇から解放された。
が、その途端、彼女は再び固まった。
ジーグフェルドがテラスの手摺りによじ登り、明らかにジャンプする姿勢をとったからだ。
『エッ⁉ ウソ!』
イシスが声を上げたとほぼ同時。
ジーグフェルドは彼女のいるテラスへと、その巨体を静かに移動させていた。
二メートル近くあるテラス間を、ものともせずに飛び越す。
音もさせず見事に着地すると、一目散に近づいてくる。
⦅その距離を、普通飛ぶか⁉ 熊というより猿?⦆
その一連の動作の静かさと、常人離れした跳躍力にイシスは呆れていた。
「どうした? 眠れないのか?」
イシスの傍らに立ち、彼は優しく声をかける。
先ほど脳裏に聞こえた声とは性質が全く異なるが、こちらもテノールであった。
力強く、張りがあり、よく響く。
イシスには彼の声がとても心地よかった。
彼女はジーグフェルドに、かなりの信頼を寄せるようになっていた。
それはあの樹海での一件後、危険回避のための言葉を集中的に教えて貰った時からである。
【逃げろ】という言葉を初めて理解した際、刺客と剣を交えながら彼が自分に何を必死に言っていたのかやっと分かった。
あの時、危険度が高かったのは明らかにジーグフェルドの方である。
にもかかわらず、彼は自分を気遣い本当に必死に逃げるように叫んでいたのだ。
そのことが、全面的に彼を信頼するに値すると思わせた。
故に、樹海を抜けた後も、彼女はジーグフェルドと行動を共にしたのだった。
無言で自分を見上げるイシスに、ジーグフェルドは言葉を続ける。
「王宮からの使者に見つからないよう、早朝にはここを立つ。そこからはまた野宿になる。ベッドで眠れるのは今だけだ。ゆっくり休んでおいてく、れ……?」
イシスは何も言わないが、その顔には不満の表情が現れていた。
出会ってから僅か数日ではある。
だが、常に行動を共にしてきたので、彼女の表情からその心理が何となく分かるようになっていたのだった。
イシスにしてみれば初めて別々に寝ることになるうえ、このように広い部屋にたったひとりにされるのだ。
かなり不安なのだろう。
しかし、だからといって一緒の部屋で寝るのは、遠慮したいジーグフェルドである。
何故ならそのことがバレた時、カレルに何を言われるか分かったものではないからだ。
(あいつの口は、遠慮というものを、知らんからな……)
なので、彼女を宥める。
「心配しなくていいよ。ここは安全だ」
ジーグフェルドには、そう言い切れるだけの自信があった。
この西域地方は、昔から結束が堅い。
それには大きな理由がある。
ここから更に西にある大国クリサンセマムからの侵略の驚異に、常に晒されているためであった。
シュレーダー伯爵が治めるこの地より南、海に出るまでは比較的起伏が穏やかな平原がずっと続いている。
アスターテ山脈を水源とした川が幾筋にも流れ、水にも恵まれており、農耕にはとても適した土地が広がっているのだった。
それは他国から見れば、非常に魅力的な土地であることを意味する。
そんなメレアグリス国と隣のクリサンセマム国を隔てているのは、アスターテ山脈から南の海へと流れ出ている、シュブラタ大河だった。
大河とはいっても、水源がアスターテ山脈しかないため、横幅は広いが、水深はたいして深くないうえ、流れも比較的緩やかである。
そのため、乾季で川の水位が低くなれば、小さな船でも簡単に渡れてしまう。
それ故、強固な守備陣が必要となるのだった。
更に、ここシュレーダー伯爵と父のファンデール侯爵は、幼なじみで親睦も深い。
ジーグフェルドとカレルも、その父達と同様に、幼い頃よりお互いの屋敷をよく行き来していた。
彼にとって、シュレーダー伯爵夫妻は、自分の両親と同じ存在であり、カレルは唯一無二の親友といえるのであった。
それに、自分がラナンキュラスの息子であると認められた際、真っ先に賛同の意を唱え、足下に跪いたのがシュレーダー伯爵であった。
よって、ジーグフェルドは彼らに絶対的な信頼を寄せているのである。
ジーグフェルドの様子から、何となくではあるが状況を理解したのか、イシスは諦めたような感じの小さな溜息をひとつついた。
「おやすみ」
そう言うと部屋の中へと入っていった。
「おやすみ」
そんなイシスの背を見送りながら、ジーグフェルドは挨拶を返した。
翌早朝、屋敷の周辺一帯を、朝靄が包んでいた。
その中を二つの影が静かに動く。
シュレーダー伯爵の屋敷を出立する、ジーグフェルドとイシスであった。
無論、門から出ることも、見送りもない。
この屋敷に侵入した時と同じように、人気のない場所から壁超えして、こっそりと外へと出たのだった。
その屋敷から少し離れた場所に、大きな木が数本密集している小高い丘がある。
小麦畑の中、その身を屈めて、二人はその場所へと真っ直ぐ向かった。
そこには黒と栗毛の馬が放たれていた。
周囲に人の気配がないことを確認したジーグフェルドは、黒馬の名を呼んだ。
「アスター!」
主人の声を聞き取った黒馬が、駆け寄ってくる。
そのアスターの顔をジーグフェルドはしっかりと抱きしめた。
「無事でよかったよ。アスター」
アスターも鼻を鳴らして、ジーグフェルドに甘える。
そんなふたりの再会に、後ろからイシスが優しく微笑んでいた。
ジーグフェルドにひとしきり甘えたアスターは、そのあとイシスにも顔をすり寄せ、甘えだした。
『うん。お互い無事でよかったね』
よく知っているカレルにでさえ、こんなことは一度もない。
ジーグフェルドはイシスという存在を、本当に不思議に思った。
そして、シュレーダー伯爵達とはまた別の、違う絆を感じたのだった。
(オレの選択は、間違ってはいない)
改めてジーグフェルドは強く思った。
二頭の馬の背には数日分の食料と、少しの衣服が括り付けられていた。
シュレーダー伯爵の厚意である。
感謝しながらジーグフェルドは、アスターに跨った。
イシスもヒラリと栗毛の馬に跨る。
上手なものであった。
ジーグフェルドの胸に、自信のようなものが漲っていた。
根拠となるものは何もない。
だが、イシスがいてくれれば、この先も何とかなりそうな、感じがするのだった。
「行くぞ。イシス」
「うん!」
太陽が地平線を白く染めはじめる。
二人は平原の屋敷をあとにして、更に西へと向かった。
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