9話 陰謀のドーチェスター城【4】

 食事の用意をしている間、イシスはお湯を使わせて貰っていた。

 彼女は誰にもその存在を知られていないので、館内を移動中宮殿からの使者に見つかっても、何ら問題はないとカレルが判断したためである。


 久しぶりに入る温かいお湯のお風呂であった。

 樹海の中では布を水で濡らして身体を拭くのが精一杯だったので、本当に嬉しいことである。


⦅あー、気持ちよかった。やっぱりお湯はいいな~。髪も久々まともに洗えたし、最高⦆


 しかし、ご機嫌で浴室から出てきたイシスを、思いも寄らぬ災難が待ち受けていたのだった。


 一方のジーグフェルドは、カレルの部屋にお湯を運んでもらい汚れた身体を拭いていた。

 そして新しく用意された服に丁度着替え終わった時だった。

 部屋の扉がけたたましい音を立てて乱暴に開けられたかと思うと、白と黒のコントラストが勢いよく飛び込んで来た。


 音と同時に身構えたジーグフェルドとカレルであったが、飛び込んできたそれはジーグフェルド目掛けて一直線に走ると、そのまま彼に張り付いてしまった。

 何事かと思った二人であったが、開いたままの扉の向うからこの家の使用人達を仕切っている侍従長の声が聞こえ、次いで息を切らせた彼女が姿を現した。


 四十台前半でふくよかな体型の彼女は、どうやら相当走ったようである。

 床にへたり込みそうなくらい身体を曲げ、ゼイゼイと肩で息をしていた。


 その顔を上げ、カレルの後ろにジーグフェルドを見つけ、思わず声を上げそうになったが、口に人差し指を当てた動作のみでカレルが静かにするよう指示すると、彼女はそっと一礼をして部屋を出て行った。

 流石は長年館に仕える侍従長である。


 そして、この一連のことから察するに、ジーグフェルドに張り付いたまま動かないものは、どうやらイシスのようである。

 湯殿から上がったばかりなので、いつも頭の上でひとつに束ねている黒髪を、今は惜しげもなく流していた。


 その下には白いドレスを着ている。

 足は、裸足であった。


「どうしたのだ? イシス⁉」


 彼女の肩に手をかけ心配そうに質問するジーグフェルドの顔を、イシスは真っ直ぐに見上げる。


 腰まで長く真っ直ぐに伸びている黒髪と、白いドレスのコントラストが実に見事であった。

 しかし、今まで彼女が着ていた服とは対照的に、胸元から肩のラインを強調しているこのドレスは、上から見下ろすと胸の谷間がやたらと目立つ。


 ご婦人方のこのような衣装は見慣れているはずなのに、イシスが身に纏っているというだけで何やらとても新鮮だ。

 彼女が女性だったのだと改めて再認識させられ、声なく赤面してしまったジーグフェルドだった。


「ほう……」


 そんなジーグフェルドの後ろから、カレルが感嘆の溜息を漏らしている。

 こちらもイシスのこの変わり様に驚いているのだった。

 しかし、そのイシスの表情には、かなり悲壮感が漂っていた。

 というか、「助けてくれ」と目で訴えている。


「一体何がそんなに嫌なのだ?」


 問い掛けるジーグフェルドの言葉を理解したのか、イシスはフリルがいっぱい付いているドレスを嫌そうに摘んだのだった。

 舞踏会や夜会用の派手な装飾は施されてはいなかったが、そこはやはり貴族の女性の部屋着である。


 上等のシルクで肌触りはとてもよいのだが、問題はその形であった。

 フリルとレースが凄いのである。


「何が気に入らないんだ? 上質の絹で作ってあるドレスだぞ。そなたが今まで着ていたものよりも、遥かに質はいいと思うが?」


 カレルが不思議そうに口を挟んできた。

 迎えた客人に不満を訴えられ、不本意なのだろう。

 そんなカレルの言葉にイシスが反応した。


 ジーグフェルドにへばり付いたままの状態ではあるが、眉間に縦皺を刻み、彼を睨み付けたのだった。

 どうやら彼女はカレルの言った言葉を、自分にとって不快なもの、もしくは悪口と受け取ったようだ。


 その表情から「お前なんかに何が分かる!?」とも言っているようである。

 なにやら一触即発の雰囲気にジーグフェルドが割り込んだ。


「きっと動きづらくて嫌なのだろう」


 そう言ってイシスの両肩をそっと叩いた。


「部屋着としてここで着るだけだから、そんな表情をしないで。よく似合っているよ。明日にはもっと動きやすい服を用意してもらおう。な⁉」


 ジーグフェルドの言っていることが分かったのか、イシスは小さく頷いた。


「よし、いい子だ」


 彼女が大人しく言うことを聞いてくれたことにジーグフェルドは安堵して、彼女を椅子に座らせた。

 そしてカレルにこっそりと訪ねる。


「彼女の服、捨ててないだろうな?」


「必要なのか? あんな汚れまくった服が」


「どう記憶に結びつくか分からないんだ。返してやってくれよ」


「そこまで気を遣ってやらなければならないほどの娘か?」


「彼女は……、え……と、出会いからして不思議だったし。さっきも伝えた通り、記憶をなくし、この国にひとりぼっちなのだぞ。気を遣うさ」


「ふ~ん。オレには単に珍しい異国の娘ってだけなのだがな」


「…………」


 ジーグフェルドの唇が何かを言いたげに不自然に歪み、目が明後日の方向を虚ろに向いた。


(お前もあれを体験したら、そんなこと言っていられないぞ。きっと……)


 あれとは当然、空中遊泳のことである。

 しかし、この場で彼に伝えることはしなかった。

 話したところで、到底信じてもらえるとは思わないし、イシスが彼女の判断で教えるならいいけど、自分が周囲の者に話す事柄ではないとも思ったからだ。


 程なくして部屋に食事が運ばれてきた。

 二人分の食事を運んできた者は、部屋にいるイシスを見て奇妙な表情をした。


 カレルはもう済ませているし、この時ジーグフェルドは見つからないようにとベッドの影に隠れているので、このスレンダーな女性がひとりで二人分食べるのかと思ったようだ。

 これには流石に、少々気の毒に思ったカレルだった。





 食事が終わり二人が一息ついた頃、カレルは父のラルヴァに使いをだしていた。

 内容は就寝前にゲームを一局しませんかとういものである。


 小さな盤面を使ってのゲームであるのだが、ラルヴァはこれが大層好きで、幼い頃からカレルはよく相手をさせられていた。

 ジーグフェルドや彼の父アーレスもこの屋敷に遊びに訪れた際には、必ず相手をさせられたものだった。

 娯楽の類が少ないので、夜の遊びといえばこれくらいしかないのだから仕方ないのかもしれないが、カレルには面倒なだけの代物であった。


 しかし、数日前気まぐれで相手をした際、つい本気をだしてしまい父に勝っているので、誘えば必ずやってくると確信していた。

 例え、王宮からの使者に見つかったとしても、怪しまれることなく、咎められる必要もない。


 彼の部屋にいるジーグフェルドに対面させるため、父を呼び出すには格好の文句である。

 普段は滅多に相手をしない息子からの誘いに、案の定ラルヴァはいそいそとカレルの部屋にやって来た。


「そなたの方から誘うとは珍しいな」


 そう言って扉を閉めたラルヴァは、部屋の奥に立っている人物を見て、驚きのあまりその場に一瞬棒立ちになった。


「陛下!」


 呟いたと同時にラルヴァはジーグフェルドに駆け寄り、その足元に跪いた。


「心配致しましたぞ。よくぞご無事で……。本当によかった……」


 ジーグフェルドを見上げるラルヴァの瞳にうっすらと涙が滲んでいる。

 そのことだけでも彼が如何にジーグフェルドのことを心配していてくれたのかが伺えた。


「シュレーダー伯爵、どうかお立ち下さい。私にそのようなことは不要ですと、何度も申し上げているではありませんか」


 ジーグフェルドはシュレーダー伯爵の手を取って立ち上がらせ、名将軍と名を馳せた、自分よりか一回り小柄な金髪の彼を懐かしんで見つめた。

 幼き頃より父同様に慕い、我が子のように可愛がってくれたラルヴァに再会でき、ジーグフェルドの胸には先程と同じように熱いものが込み上がってきていた。


「ご心配をお掛けして申し訳ありません。再びお会いすることができて本当に良かった。お体に変わりはございませんか?」


「ふっ……。陛下の方こそ、そのお言葉使い……、直りませんな」


「十九年もこうだったのですから、急には変わりませんよ」


「では、私も同じですよ。陛下。これが君主に対する礼儀なのですから」


「貴公から、そのような言葉遣いで話されると、むず痒くて仕方がないのですが………」


「諦めて下さい。貴方はこの国の王なのですから」


「挨拶はそれくらいにして、本題に入ろう。紹介しなければならないのも、ひとりいるだろう」


 放っておいたらどこまででも長くなりそうな会話の気配に、カレルが横から声をかけた。


「それに、これからどうするかを考える前に、現在の状況を先に整理しよう。ジークの方から詳しく教えてくれ」


 カレルの提案にジーグフェルドが頷き、ラルヴァは顔をしかめながらこめかみに手を当てた。

君主に対する言葉遣いとは程遠い息子にである。

 そしてここから長い夜が始まるのだった。

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