2話 天空より降りし者【2】

「ここはアスターテ山脈スオード山の山頂付近だ。分かるか?」


 沈黙の天使から解放されたジーグフェルドは、今現在自分達がいる場所を教えた。

 しかし、さっぱり分からないのか少女は曇った表情で首を傾げるだけである。


(見る限りは、知能が足りなくて理解出来ないというわけではなさそうだ。オレが喋っている言語と地名を聞いたことがないので分からないといった感じだな……)


「困ったな……」


 彼は溜息をついた。


(しかし、言葉は通じなくとも、お互い自分の名前くらいは名乗りあえるだろう)


 彼は己を指さしながらゆっくりと自分の名前を少女に告げる。


「オレの名前はジーグフェルド。ジーグフェルド=ラル=ア=クレセンハート」


 次は君の番だと、己を指していた指を少女に向けた。


「そなたの名は?」


 彼の動作で何を言われているのか理解したのか、少女は声を出そうとしたその刹那、凍り付いたように固まってしまう。

 大きく見開かれた瞳のみが何かを探しているかのように左右へと泳ぎ、何度も瞬きを繰り返す。


 その視線が一点で止まったかと思ったら、小刻みに震えだした手を口に当て、数秒の間微動だにしなかった。

 そして少女はジーグフェルドの瞳を見上げると、青ざめ困惑した表情で頭を横に振り微かに呟いた。


『分からない……。何も、思い出せない……』


 それだけ告げると地面に手を付き、がっくりと肩を落とし項垂れた。

 瞳はどこを見ているのか、どこに視点を合わせているのか分からない。


 残念ながら少女の言った言葉はジーグフェルドには理解できなかった。

 しかし、彼女の表情や様子から判断して自分が何者なのか分からないでいるみたいだ。


 思い出せないことが相当ショックであったのだろう、少女は呆然としてその場に座ったままであった。

 涙は見えない。

 だがそれは泣かないのではなくて、涙すら流せない精神状態なのだろう。


(記憶がないのか……⁉)


 ジーグフェルドは自分が羽織っていた上着を掛けてやり、その背中をそっとさすった。

 しかし少女はピクリとも動かない。

 全くの無反応であった。


 再び止まってしまった時間を打破したのは馬のアスターだった。

 いつの間にか側にきており、俯いていた少女の頬を軽く舐めたのだった。


 すると少女の頭が微かに動き、まだ照準の合わない瞳で、ゆっくりとアスターの方へと顔を向けた。

 アスターはまるで少女の心境が分かっているかのようで、慰めるように彼女の頬に自分の顔をすり寄せる。

 少女の手がアスターの顔に伸び、とても切なく微笑しながら自分の顔を付けると何やら呟いた。


『うん……。そうだね。落ち込んでいても、しょうがない。現実を受け入れないとね。ありがとう』


 更に、数秒前とは比べものにならないほど明るい瞳でニッコリと微笑んだ。

 完全に正気を取り戻したようである。


(よかった)


 この光景に安堵したジーグフェルドは小さく息を吐き出し、自分もかなり緊張していたのだなと、改めて思ったのだった。


「大丈夫か?」


 通じないと分かってはいるが声を掛ける。


 心配そうに覗き込むジーグフェルドの表情で、掛けられた言葉の意味が分かったようだ。

 少女は首を縦に振った。

 だが、その顔は必死で涙をこらえているようである。


 そんな彼女をこの場に置いていくことはジーグフェルドには到底出来なかった。


 記憶の件だけではなく、この少女は身を守る為の武器を何も持ってはいない丸腰状態だ。

 そのような者をこんな山の中に一人置いていったなら、待っているものはである。

 いくら自分が危険な状態にあるからといって、断じてしてはならない行為だと思ったのだった。


 数秒の苦悩の末、ジーグフェルドは少女へと手を差し伸べた。


「一緒においで」






 そしてその夜。

 向かい合って簡単な食事をしているのである。


 出会いとしては最悪だったかもしれない。


 しかし、ずっと緊張し神経を張りつめた状態での旅の中。

 この少女に会ってから少しの安らぎを得ている自分がいることもジーグフェルドは感じていた。


(不思議なものだな。言葉がお互い通じなくとも誰かが側にいる。一人ではないということが、こんなにも精神的に安心できるものなのか……)


 調味料など一切持ち合わせてはいないので、本当に焼いただけの肉であった。

 少女は丁寧に骨から肉を剥ぎ取り美味しそうに食べている。


「美味しいか?」


 そう聞いて呼びかけのために上げた手が止まってしまった。

 異国の言葉を話し、この近隣諸国で使用されている言語をまったく解さない少女に、なんと言って呼びかければよいのか悩んだのだ。


 たかが名前、されど名前。


 それを指し示す固有名詞が存在しないというだけで、これほど困るものだとジーグフェルドは初めて思ったのだった。

 そんな彼の困ったオーラを感じ取った少女が、肉にかじりついた状態で小首を傾げ、「なに?」といった表情で彼を見つめ返す。


 先程上げた手を自分の方へと移動させポリポリと頬を掻く。

 そして閃いた。


(思い出せないのだったら、それまでの間。仮でよいからオレが付けてやればいい)


 だが、そこからまた更に悩むジーグフェルドであった。


(どんな名前にすればよいのだろう……? いくら思い出すまでの仮とはいっても、本人に全然似合わない名前では意味がない)


 かといってそんなに多くの女性の名前を知っているわけでもない。

 ありふれているとはいえ友人と同じにすると、後々ややこしくなる可能性がある。

 ましてや過去に付き合った女性の名前など論外であった。


 少女はそんなジーグフェルドをじっと見つめていた。


 さんざん悩んだのち少女に視線を戻す。

 その意志が強そうで雲一つない快晴の空のように澄んだ光を放つ瞳を直視したとき、彼の脳裏に一つの名前が浮かび上がった。


「イシス。そなたの名前は、今からイシスだ!」


 それは赤と青の双子月のうちの片方の名前である。


 ジーグフェルドの国で祀られている太陽神アヴァノスには双子の娘がおり、青い月の名をエディルネといい治癒と慈愛を司る女神。

 赤い月の名をイシスといい、戦を司る女神とされていた。


 出会った昨晩。

 天空に輝いていた月が赤だったこともある。


(せっかく助けたのだから、簡単には死なないで欲しい)


 その願いからジーグフェルドは少女にこの名を贈った。


「イ……シス?」


 たどたどしく少女がその名を復唱する。


「そう、イシスだ。スペルはこう書く」


 ジーグフェルドは細い木の枝で地面に名を刻んでやった。

 その上を少女、イシスの指がゆっくりとなぞっていく。


『うん、覚えた。ありがとう』


 ジーグフェルドに向かってニッコリと微笑みながら、イシスは自国の言葉でお礼を述べた。

 彼が自分に名前を付けてくれたことと、そして今から自分が呼ばれる響きを理解したようである。


 言葉は通じないと分かっていても、会話をしようと努力をしてしまうのだった。

 今現在、一人で旅をしている彼にとってイシスは、肩書きや気兼ねなど一切不要の、数日ぶりに得た話し相手なのだから致し方ない。


「歳はいくつか憶えているか?」


「?」


 デザートの木の実を食べていたイシスの手が止まる。

 何を言っているのか理解しようとしているが、やはりさっぱり分からないようである。

 困った表情でジーグフェルドを見つめ返してくる。


 そんな少女に彼は苦笑しながら、先程と同じように小枝で自分の歳を地面に刻んでいった。

 いきなり数字を書いても分からないであろうから、長さ五センチメートル程度の直線を十九本書いたのだった。


『いち、に、さん、よん……』


 イシスは自国の言葉を呟きながら、細く長い指先でその本数を数えていった。


『十九』


「そう、それがオレの歳だ。そなたは?」


 そう言ってジーグフェルドは持っていた小枝をイシスへと手渡した。

 憶えているのであれば、自分と同じように一本ずつ書いていくかと思っていたのだが、全く違った。


 イシスは小枝を受け取ると、ジーグフェルドが書いた十九本の直線の内、後ろにある二本の線に対して垂直に一本線を引いたのだった。


『私は、十七歳よ』


 この実に合理的かつ無精なイシスの行動にも驚いたが、それ以上に彼を驚愕させたのはその年齢であった。


「十七歳⁉」


 失礼にもジーグフェルドは指をさして大声を上げた。

 そしてイシスの頭から足先までを、三度ほど上下に首を振りながら見た後、ポソリと呟いた。


「見えない……」


 人の気分を害する言葉というものは、例え言語が解せなくとも分かるものなのか、イシスの眉間に縦皺がクッキリと浮かんだのだった。

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