始まりの一ページに、名前を添えて

「貴方はこの世界の事について何か知っているのですか……?」


 僕は自身のできうる限りの丁寧で、聞き取りやすく、ゆっとりとした声でそう彼女に尋ねる。


「ごめんなさい」


 答えはたった一言。たったの一言であり、僕の望む回答ではなかった。


「その……泣かないで? 大丈夫だから」

「え……?」


 女性は僕の頬にそっと触れると、いつの間にか僕の瞳から流れていた涙をその白く、綺麗な手でそっと拭ってくれた。


 その時の僕の胸中にはそんな彼女の優しくも暖かい気遣いに対する溢れんばかりの喜びと、まだ知り合ったばかりの女性の前で涙を流し、まして気を遣わせてしまった事に対する情けない気持ちがあった。


 これがもし僕の昔からの知り合いであったのならば、恥じる要素もなかったのだが、事目の前の女性に至っては、完全に初対面。喜びよりも申し訳なさの方が圧倒的に上だった。


「君は……この世界の事について知りたいの……?」

「そんなの決まって……決まって……決まって……」


 実際の所どうなのだろう。


 僕は確かにこの世界の事を異常だと思っているし、可能ならば知りたいと心の奥底から思っている。思っているのだが、それは一体何故なのかわからない。


 僕がこの世界の事……心理について解き明かして一体何のメリットがあるというのだろうか。


 あんな化け物が跋扈する世の中で、危険を冒して心理を探し回るなど、馬鹿のする所業ではないのか。


 生きていくだけなら、あの教会で、水と野生動物を捕まえるだけで生きていけるのだ。


 仮にあの生物がまた襲ってきたとしても、その時は目の前の女性に助けてもらえばいい。いいはずなのだ。


 なのに、なのに、僕の心の奥底では、それに納得できないわずかな棘の様なものが刺さっている。


 もし、いや、万が一ここで教会で、この女性と共に生きていく選択肢を取ったら一生後悔する。そんな予感が僕にはある。


 それは動物の持つ野生の勘と呼ばれる類の物であり、人間である僕に備わっているのは、甚だ疑問なのではあるのだけれど、ここでの僕はその勘に何か絶対的に信用に足る何かを見出していた。


「どうしたの? もしかして体調が……」

「ううん。違うよ。ただ決めただけだよ」


 僕はこの世界の謎を解き明かす。一体全体どうしてこの世界がこんな歪で、醜い、恐ろしい世界になり果ててしまったのか。


 どうして僕には記憶がなく、あの教会で安置されていたのか。僕はそれをなんとしてでも解き明かす。


 それはきっと僕の身の丈には余る所業で、あの化け物一匹程度にあれほどビビっているのでは、当然できるわけがないし、そんな事この世の誰よりも自身が一番理解している。


 そんな僕だからこそ、ここでの僕の取りうるべき選択もまた知っている。


「僕はこの世界の事について知りたい。余すところなく、過不足なく、この世界の真理と呼ばれるものについて知りたい。だから君の力を僕に貸してくれないか?」


 そう言いながら僕は、さながら婚約者に対して結婚の意思を確認するかの様に、そっと手を差し出した。


 彼女が僕のその手の意味を理解しているとは思えないし、そもそもこの提案に乗るメリットが、彼女にはない。むしろ僕という重荷を背負ったうえで、あの化け物がいる世界を歩き回るというのだから、自身の命の危険をさらす確率は今回の非ではない。


 僕はそれを全てわかった上で、知ったうえで、彼女にこう質問を、お願いを、希望を託し、手を差し出しだ。


 ここで彼女が僕の願いを拒絶したとしても、僕は何ら責めない。責める資格など僕にはないし、その時は、ここで彼女に別れを告げ、一人で行動するだろう。


 その結果一人で野垂れ死ぬ結果になろうと、僕は彼女の選択を責めることはなく、命の恩人だと、救世主であったと胸の内に刻み込みながら死んでやろう。


「そんなの……決まっている……よ?」


 彼女は僕の手を両の手で、包み込みようにして握り返してくれた。


「貴方は私の全て。私はあなたが何より大事。貴方の望む意思が何より大事なの」


 その答えは少し複雑な物だった。だって彼女の答えは、まさしく人形の様で、まるで自分の意思がないように感じられて、僕が自殺しろと言ったら彼女は本当に死んでしまいそうだったから。


 --ああ、そういうことか


 僕がどうして彼女という人間と出会って感動しなかったのか。それは彼女のこんな性格に、生き方に起因していたのだ。


 まるで人形の如く生きるその様に、僕は彼女の事を人間であると心では認めていながら、無意識のうちに人として認めていなかった。


「君はどうしてそこまで僕に尽くそうとするんだ?」


 この時、僕の声は少し怒っていたかもしれない。それは僕自身の原因か、それとも彼女のそんな生き方を気にいらないと思ってしまっていたかもしれないからか。将又そのどちらかか。そんな事はどうでもいいし、僕のこの選択は明らかに間違いで、何も言わないのが得策だというのはサルでもわかる。


 そうしなかったのは、僕の胸の内に眠る良心からくるもので、彼女を死の淵へと追いやろうとしている僕が良心というのは、可笑しい話ではあるのだけれど、それでも紛れもなく、僕の胸の内に眠る良心が彼女のその余りに悲しい生き方に納得できないからに他ならない。


「それは……私があなたと、貴方だけとずっと一緒にいたから」

「それは一体どういう……」

「……? そのままの意味。私はあなたとずっと一緒にいた。貴方がずっとあの教会で眠っていた、あの時も、その前も、ずっと、ずっと、私はあなたと一緒にいた。ずっと一緒にいたいと思っていた。だから今、こうして一緒に入れて、嬉しくて、嬉しくて、他の何もかもどうでもいい」


 言葉通りに捕らえれば、彼女と僕は肉親に当たる家族か幼馴染のどちらかに当たるだろうが、身の丈などから考えて前者の可能性は、おそらくないだろう。


 それにあの瞳。彼女は再びあの目をしている。あの不気味で、得体の知れない、深淵のごとき眼をしている。


 おそらく彼女がそうなったのは、僕の質問のせいで、過去の事を聞くのがトリガーとなってそうなったのだろう。


 今のところ、僕を襲ってくるような事は無いが、どちらにしろ彼女に過去を聞くのは、あまりよい行いではないということが分かった時点で十分であり、彼女の性格を変えるのは現時点では不可能であることもまたわかった。


「ごめん。今の質問は忘れて。それよりも君の名前を教えてくれないかな?」


 僕は話を変えるべく、これから共に行動をするパートナーの名前を聞こうとするが、彼女から答えは帰ってはこない。それどころか首を傾げ、質問の意味すら理解していない様子だ。


「もしかして名前ってわからない……?」

「……うん」


 規格外の人だとは思っていたが、まさか名前がないとは思わなかった。


 人間である以上誰だって名前があるはずだ。僕だって……


 そこで僕もまた気づいた。いや、気付いてしまった。自身もまた名前が思い出せない事に。


「どうかしたの……?」

「名前が……名前が……」

「名前ってそんなに大事なの?」

「それは……勿論」


 名前があって、人は初めて人として認められるのだ。名前がないということは、人ではないという証明であり、名前がない僕と彼女は人ではないと嫌でも証明されてしまう。


「なら君がつけて」

「え……?」

「名前。君がつけて。私も君の考えるから」


 その声音と表情は至って真面目な物であり、瞳も先ほどの物からいつもの物に戻っていた。


 僕はそんな彼女に頷くと名前を考える。考える。考える、考える、考える、考える。


「……ハク」

「ハク?」

「そう。君の名前はハクだ」


 雪の様に白く、真っ白な肌と髪。その姿はまさしく白。美しくも儚い色である白こそが彼女に最もふさわしい色であり、名前にもまた相応しい。ただシロでは安直すぎる。だからこそのハクだ。


「ハク……ハク……ハク……ハク。うん。覚えた。私の名前はハク」


 彼女の態度を見るに、どうやらお気に召してくれたらしい。先程から何度も読んでは、にやにやと笑っている。


「素敵な名前をありがとう。


 どうやら僕の名前は、ソラに決まったらしい。一体どのような意味があって、彼女がその名前を僕に与えたのかはわからない。でも僕はこの名前。ソラという綺麗な名前を気にいった。それこそ彼女と同じように口ずさむ程度には。

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紅き月が支配するこの狂った世界で、人間の僕は何を思う? 三日月 @furaemon

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