料理と映画から見る韓国

ネコ エレクトゥス

第1話

 ここ何か月か韓国料理のお店にたびたび行っている。理由は簡単、おいしかったから。それだけではなく奥様方で埋まっている店の中に単身乗り込むスリルも味わっている。都心の女性専用車両にいるただ一人の男状態。完全アウェーだ。そんなことで韓国の文化について考える時間も増えた。


 先日亡くなったある日本の映画監督の方が韓国映画が大好きで、韓国映画の「安定性」ということを口にしてらしたという。この「安定性」なるものは何物か。それは韓国映画が日本の人気時代劇シリーズ『水戸黄門』と同様なものであることから生み出される。つまり偉大なるマンネリ。

 だからと言って僕が韓国映画を否定しているとは思わないでほしい。偉大なるマンネリであるためには要求されることも多い。反復練習。スポーツの世界などでもいかに反復練習が多くのものを生み出すか。それに毎回同じことをやってるのに飽きさせないための工夫の数々。実は僕の食べている韓国の料理にも同じことが言える。同じものになりがちな日々の料理をいかに飽きさせないようにするか。これが韓国の文化の根底にあるパターンだと思っていい。

 

 さて、この間韓国の映画がアメリカのアカデミー賞をもらったという(まだ見てない)。新聞などの評論によると従来の韓国映画の世界を「一歩踏み出た」ものであるそうだ。これが何を意味するのか。欧米の側からすると韓国が彼らに一歩近づいた、ということになる。だからこそアカデミー賞をもらえたのだ。ただそこからさらに踏み出そうとするなら韓国は学ばねばならないことが多すぎる。今までのような「日本は慰安婦の補償をしろ」的な世界では済まされない。そしてそれは韓国の持っていた「安定性」とはまた全然違った領域なのだ。それを消化し終わった後、韓国にも黒澤明や小津安二郎が出てくることになるのだろう。そこで初めて韓国はフランスや日本のような「ブランド」になる。「フランスのものは何をとってもセンスがいい。」「日本製は安全安心だ。」韓国もいつかそういうレベルに到達するのだろうか?

 考えてみると近代以降の朝鮮半島の歴史は一歩踏み出しては内に戻り、また一歩踏み出しては内に戻りの連続だった。それは必ずしも日本や中国の外圧だけによるものではなく、彼らに内在的なものでもあった。果たして今度はどの方向に向かうのか。

 ただ非常に勝手なことながら僕が韓国料理を食べる時、期待しているのは「安定性」なのだ。だから韓国の人たちが同様に「安定性」を選んだとしても驚かないし、内心そうあってほしいと思っている。昔、安土桃山時代の茶人たちが愛したのもこの「安定性」だった。だからこの「安定性」をブランドとして認め、ひっそりと愛でていたいのだが。ただこんなことを言うと「日本は韓国を隷属させたがっている」と非難されるのかもしれないが。

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料理と映画から見る韓国 ネコ エレクトゥス @katsumikun

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