第15話
洛陽は東に虎牢関、西に函谷関、北に邙山、南に伏牛山があり中岳嵩山も隣接する。
また、黄河・洛河・伊河・澗河・瀍河が領域内を流れる。
大軍を迎え撃つならこれほど防衛に適した土地はない。
圧倒的に守りやすいのだ。
本来ならば…。
しかし、もはや没落した周には小国にすら劣る軍しか持てず秦の大軍を迎え撃つことができない。
周が現在動員できる戦力は兵士五千、住民が一万と少しといったところだ。
とてもではないが勝ち目はない。
そこで、今回の戦で総大将に任命された白圭が採った戦略が籠城戦である。
城は一城抜くのに攻める側は守る側の戦力の十倍は必要だと言われたいる。
守るには最適の戦略だ。
「しっかし、すげぇ大軍だな。何人いるんだ?」
白嬰は城に向けて彼方から砂埃を巻き上げる無数の影を仰ぎ見て嘆息する。
「斥候からの情報によると総大将 樗里
白圭が白嬰の隣に並び立つ。
「親父は落ち着いてるな。」
白圭は白い甲冑を身に纏い右手には白嬰の身長を優に超える戟が握られていた。
屋敷に飾られていたもので白嬰も何度か見たことがあった。
どちらも相当に使い込んだのだろう。
所々に傷や汚れが付いている。
だが、それらの要素が白圭自身の発する魅力と相まって、まるで一枚の絵画のような神々しさを感じる。
息子である白嬰が見ても美しくカッコいいと思う。
それに比べて白嬰の鎧は自身が韓にて大量の武器と共に注文した量産品で傷ひとつない新品だが白圭の隣にいるともはや鉄くずとしか思えないほど色褪せて見える。
白嬰の着込む鎧は城の兵士らが身につけているものであるが、腰に帯びた剣は白圭に贈ってもらった業物だ。
白嬰はこれを風呂の時以外は手放したことがない。
(クッソ、手が震えてやがる。)
さすがの白嬰も本物の戦を前にして緊張を隠さないでいた。
ここ一週間で城壁の補強や武器の仕入れ、食料の備蓄などできることは全てやったつもりだ。
やたら横柄だった使者が携えてきた降参勧告も跳ね除けた。
隣には親父がいる。
それでも不安であった。
この戦乱の世で戦が起きるなんてそう珍しいことではない。
死は常に自分の隣にいる。
だが、いざ自分が戦うとなるとやはり緊張する。
「ふぉっふぉっふぉっ、心配召されるな白嬰殿。白嬰殿のことはこの爺やが守ってみせますのじゃ。」
どうやってこの緊張をほぐそうかなんて考えていると後ろから茶房が城壁の上にのっしりと上がってきた。
茶房には普通の鎧が入らないため特注の赤い鎧を着てとてつもなく重そうな鉄槌を肩に担いでいた。
普段と変わらない好々爺然とした笑みを浮かべて悠々と隣に立つ。
おそらく茶房は敢えて軽口をたたくことで白嬰の緊張をほぐそうと慮ってくれたのだろう。
たしかにこれは白嬰にとってありがたかった。
普通に慰めや励ましの言葉を掛けられると自分が惨めな気持ちになりそうだし、また周囲の人間達まで不安にさせてしまうからである。
あの日赧王に堂々とメンチ切った後から皆が白嬰を首魁の一人として頼りにしてくれている。
そのため城壁の修理や部隊の配置などに白嬰は引っ張りだこであった。
眠るヒマもないほどであった。
もちろん白圭や茶房の働きには遠く及ばないが。
ほんといつ寝ているのであろうか。この二人は。
「誰がだよ。それをいうなら茶房こそ!老いぼれは俺の後ろで応援でもしてくれたらいい。」
「ふぉっふぉっふぉっ。青二才が随分立派な口を利くようになりましたな。爺やは涙で前が見えませんぞ。」
二人の間で和やかな雰囲気が漂う。
それに当てられたのか周りの兵たちも笑い出した。
兵たちの緊張もいい感じにほぐれたようだ。
白圭はそんな様子を一歩手前から慈しげに見ていた。
周の都洛陽を囲むようにして作られた陣地は圧巻の一言だった。
幾重にも巡らされた柵に秩序立って配置された天幕。
そして無数に靡く堂々たる軍旗。
兵たちは明日からの攻城戦に備えて竃を焚いていた。
煙がもくもくと天空へ引き寄せられていく。
誰も私語をしない。
大きすぎる軍には不釣り合いなほど不気味な沈黙が漂っていた。
これだけを見ても秦軍の精強さを感じ取れた。
そんな秦軍の陣営でも一際立派な天幕の中、此度の軍の中枢が集う軍議が終わろうとしている時に一人の男が愚痴をこぼした。
「まったく、王の我が儘には付き合いきれんなぁ。」
男のあまりにも不躾すぎる言葉に一座が凍りついた。
それもそのはずだ。
秦において王は絶対的な存在でありそのような言葉を吐こうものなら首が繋がってはおれない。
だが、誰も咎め立てはしない。
この男こそが此度の戦の副将 魏 冄その人なのだから。
魏 冄の容貌は一言で形容するなら胡散臭かった。
とても国家の中枢に位置する人間とは思えないほどだ。
目には黒い隈が広がっておりニコリともしない口元からは鋭い牙が覗いている。
「いかがなされた?魏 冄殿。此度の戦に何かご不満がおありのようだが?」
魏 冄の発言にも眉ひとつ動かさなかった樗里 疾は不満があれば出て行けと言わんばかりの雰囲気がだだ漏れで魏 冄を睨み付ける。
「不満も何もあるか。今回の洛陽攻めで俺たちに何か得るものはあるのか?いや、何もない。あんな腐りかけの王朝放っておけば勝手に落ちるのにわざわざなんでとどめを刺す必要がある。軍を維持するだけでも莫大な金が失われる。あの土地にそれを埋め合わせるほどの価値があるとも思えんがな。」
「此度の戦は金のためではない。武王様きってのご要望だ。それに、天下を志す我々としてはいつまでも天下の主人気取りの国からその称号を取り上げねばなるまい。」
「はん、天下ねぇ。なんなら金だぁ。金は天下のまわりものだぁ。金さえあれば天下なんぞ好きなようにできる。こんな一斤の価値も無いガラクタなんぞ捨てておけ。唯一の武器である名さえ失われたんだからよ。それに…」
「それに何かな?」
「此度の敵陣にはあの白圭がいる。」
「はっ、臆されたか魏 冄殿。たかが賈人ごときに何ができるというのか。」
「左様。仁も義も無くただ金にのみ執着し勇にかける臆病者に何ができるのか。」
「いや、白圭にもできることがあるぞ。我らに金を払うことだ。」
「はっはっはっ、それはいい。払うだけ払わせてあとは略奪すれば良い。」
(ダメだなこいつら。)
魏 冄は気楽な会話に興じる貴族出身の馬鹿どもを横目に密かにため息を吐く。
魏 冄は一度白圭と会ったことがある。
対面するだけで直感できた。
あれは天下の傑物だ。
格が違う。
太公望や管仲、伊尹にも負けない時代の寵児だ。
無論この馬鹿達にも白圭の名声は知れ渡っているだろう。
だが、貴族意識に凝り固まった春愁時代から賈人は侮蔑の対象であった。
この馬鹿どもは、すでに下剋上が当たり前であり、己の才気一つで宰相にまで上がれる戦国時代においても未だ全時代の考えから抜け出せていないのだ。
国を発展させるのに邪魔でしかないこういう奴らを追い出して外国人だろうが才能がある奴を取り入れるようにした名宰相商鞅の当時の苦労が偲ばれる。
あの白圭を万が一殺しでもすれば天下から批判が殺到するだろう。
今や白圭の存在は全中華の重心とも言うに等しいのだ。
魏 冄は雑談に興じる貴族たちに会釈もせず立ち上がりそのまま席を立った。
樗里 疾は魏 冄を咎めたてたりはしなかった。
魏 冄は損得で動く。
まさに貴族達がいう賈人のような人間なのだ。
しかし、ああ見えても命令には忠実だ。
それもとびっきり優秀なのだ。
扱い難いことを除けばだが。
樗里 疾は人知れずため息を一つ吐いた後立ち上がり粛々と告げた。
「では明日用意ができ次第開戦だ。」
そう締めくくり天幕を後にした。
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