第9話
幸燕は眼を覚ました直後、ここがどこかわからなかった。
が、 しばらく周囲を見回している内にどうやら今自分は旅籠の布団に寝かされていると理解した。
起き上がろうとするも全身が鉛のように重くなかなか思うように体を動かせない。
自分は何故ここにいる?
思い出そうとしても記憶が水面に浮かぶ泡沫のようにぶくぶくと浮かんでは消え、浮かんでは消え送り返し輪郭が上手く焦点を結ばない。
頭がズキズキと痛むのを我慢し額を抑えながら記憶を掘り起こしていく。
幸燕は秦に向かう途中盗賊に襲われた。
周囲にいた従者たちは懸命に戦ったがなにぶん多勢に無勢で男たちは殺され、女達はその場で犯された。
しかし、幸燕だけは一番の上玉としてその場では乱暴されず首領に献上された。
盗賊達の中ではその日に取れた成果の内最も価値のあるものは首領に差し出さなければいけないという規則でもあったのだろう。
もしくは点数稼ぎのためだったのかもしれない。
幸燕は寝ぐらに連れ込まれしばらく首領の酌をさせられた。
額に大きな傷が走った初老の首領はニコニコと笑って、怖がらないでいいよと優しく語りかけてきた。
とても陽気で好々爺然とした様子だった。
だが幸燕はブルブルと体が震え、酌の中の酒がほとんど溢れてしまった。
なぜなら部屋の至る所に赤茶げた血痕が飛び散っていたからだ。
よく見れば生物の骨らしきものまで転がっていた。
首領は恐怖する幸燕の様子をニタニタと眺めながら旨そうに酒を煽っていた。
そして幸燕の恐怖が最高潮に達したのを見ると着ているものを剥ぎ取り首を締め上げた。
そこからは苦しみと絶望で周囲が黒く染まり詳しくは覚えてない。
ただ気がつくと手にはいつのまにか血にまみれた骨のかけらがあった。
目の前には腹を抑えて悶える首領がこちらを睨んでいた。
怖くなって必死に逃げた。
森の中を無我夢中で走った。
木々が身をズタズタに切り裂き何度も何度も転んだ。
獣たちの怒声が、罵倒が常に背中を追ってきた。
とてつもなく苦しかった。
それからどうしたんだっけ?
自分に微笑みかける少年の姿が思い浮かぶ。
だが顔がわからない。
後光が少年の顔を覆ってしまっている。
そうだ。
自分はあの少年に助けてもらったんだ。
それからどうしたっけ?
体が急に震えだす。
火照った体から冷や汗が滝のように流れ出てくる。
体が無意識に思い出すのを拒否したがっている。
だが脳裏の片隅の彼方からじわじわと一枚の場面の絵が近づいてくる。
顔に残忍な笑みを浮かべた男が地に倒れ伏した少年に向かって白刃を振り下ろす。
そこで記憶が途切れている。
「そうだ…あの後どうなって?」
少年、いや白嬰様はご無事なのか?
心配で居ても立っても居られず、ボロボロの体に鞭打って立ち上がろうとすると扉が開く音がした。
音がした方に振り返ると少年がお盆を持って入ってきた。
少年の顔が記憶の中で後光が覆い隠していた顔とピタリと一致した。
「身体の方はもう大丈夫か?」
「白嬰様!ご無事でしたか。」
白嬰の問いかけなど耳に入らなかった。
ただ安堵が津波のように押し寄せてきた。
自分を助けてくれた方が無事で本当に良かった。
白嬰の方はまさか自分の事をいの一番に聞かれると思わず明らかに戸惑っていた。
幸燕は言いたいこと、伝えたいことがいっぱいあった。
だが感極まってなかなか言葉に出来ずやっとの事で一言だけ絞り出すことができた。
「本当に…よかった。」
白嬰は一瞬唖然としたがすぐに相好が崩れ、照れ臭いやら嬉しいやらが入り混じった満面の笑みを浮かべた。
白嬰は幸燕の側にお盆を置き自分も腰を下ろした。
お盆の中には盃と湯気を立てる粥の入った小さめのお椀、そして気持ちづけの漬物が三切れ小皿に載っている。
白嬰は肩を貸して幸燕の上半身だけを起こすとまず盃を差し出した。
盃の中には白湯が入っている。
幸燕はそれを両手で何とか受け取り少しずつ中身を嚥下していった。
全て飲み終えたのを確認すると白嬰はお碗を取り匙で粥を掬いふーふーと少し冷ましてから幸燕の口元に持っていく。
幸燕がまだ匙すらまともに持てないことを見抜いての配慮だろう。
どうやら先程、盃を両手で持つだけでやっとだったのを見逃さなかったようだ。
幸燕は顔を赤くしてしどろもどろしていたが結局白嬰の好意に甘えた。
程よく冷まされた粥はとても美味しかった。
塩加減もちょうどいい。
ただ、 粥を噛む力が無くて弱々しく啜すするしか無かったため、腕を上げている時間は長く相当にきつかったはずだが白嬰は嫌な顔一つせずニコニコと笑っていた。
白嬰の笑顔を見ているとなぜか鼓動が速くなり体がとても熱くなった。
お粥を食べて体が火照ったのだろうか。
全て食べ終わると白嬰は空になった食器を下げて出て行った。
一人になった幸燕は不思議なことに先程まで胸の中でわだかまっていた恐怖が薄れていたのがはっきりとわかった。
何故だろう?
ただ一つはっきりしていることがある。
彼が側にいてくれたことに安らぎを感じた。
お母様が側にいてくれる時とはまた違う種類のやすらぎだ。
白嬰は幸燕がなぜ男たちに襲われていたのかを尋ねなかった。
そのために自分が死にかけたのにである。
それは何故だろうか。
幸燕への哀れみからだろうか、憐憫からだろうか?
いやおそらく違うだろう。
彼はその人がどうしてそうなったのかなど、どうでもいい。
ただ救えたらそれでいいのだろう。
たとえ自分が傷ついてもその人が助かってくれればそれでいい。
それは自己犠牲の精神とかという美しいものではない。
自分がそうしたいからするという子供の癇癪かんしゃくじみたただの我儘わがままのようなものだ。
危うい。
彼のそのような性質はいずれ彼を大いなる矛盾の沼に引きずり込んでしまうだろう。
耐えきれず彼が壊れてしまうかもしれない。
そうならないためにも彼を側で支えて上げたい。
思考がそこに行き着いた時彼女は大いに困惑した。
支えて上げたい?
自分は何故そのように思ったのか。
気づけば鼓動が耳元で聞こえるほど高鳴っており顔が耳の先まで真っ赤になっていた。
おかしい。
今までこんなことなかったのに。
胸が 苦しい。
彼の事ばかり考えてしまう。
目を瞑れば瞼の裏には彼の顔が浮かび上がってくる。
幸燕は布団を頭から被り無言で悶えた。
何かの病気だろうか。
今までこんなこと無かったのに。
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