第10話

それから数日間療養した幸燕はみんなの看病の甲斐もあってすっかり元気を取り戻した。

  幸燕は旅籠の下女たちに人気があり一度話しただけでお姉様と呼ばれるほどの慕われっぷりだったそうだ。

 

  そんな幸燕は元気になって数日後、迎えがきた。

  「これまで本当にありがとうございました。」

  幸燕は目に涙を溜め深々とお辞儀をする。

 

  「そんなん全然気にしないでいいって。」

  白嬰は照れ臭そうに頭を掻いている。

 

  「では幸燕殿、また機会があれば何処かで。」

  その隣でにこやかに笑う白圭は幸燕に拱手きょうしゅする。

 

  白圭の一挙手一投足には見るものが申し訳無くなるほどの誠意が込められていた。

  全身からは高貴ながらも人を撥ね付けず、むしろ包み込むようなあでやかな雰囲気が溢れ出ており、 その笑みからは人が必ず放つ、欲が醸し出す生臭みを全く感じずそれどころか薫風が頬を撫でる心地すら覚える


  洗練された一連の動作に思わず見とれてしまっていた幸燕は少し遅れて慌てて拱手を返す。

  「い、いえこちらこそ。」

  緊張して思わず声が上擦ってしまった。

 

  「幸燕様、そろそろ…。」

  後ろの馬車で待機していた御者の一人が乗車を促す。

  白圭様たちの時間をこれ以上奪ってはならないと幸燕は後ろ髪を引かれる思いで馬車に乗り込む。

  が、 その直前に後ろを振り返り白嬰に向けて女神の如き上品な笑みを向け、パチリと片目を閉じる。

  白嬰は思いも寄らぬ不意打ちに顔がボンっと音を立てて赤くなる。

  そんな様子を横目で見ながら幸燕はご機嫌に屋根の下へと姿を消した。

  幸燕が乗り込んだのを確認すると周りの従者たち全員が白圭と白嬰に向かって深々と拱手する。

 

  そして馬車は去っていった。

  幸燕が乗る馬車の周りには囮の馬車が四台並んでおりその周囲を騎兵や歩兵が厳重に護衛していた。

  あの警備をかいくぐって再び幸燕を攫うには一師団をもってしても不可能だろう。

  もう二度と姫様を失うまいと兵たちから闘志がにじみ出ていた。

  どうやら幸燕は楚でも慕われているらしい。

  いや、もしくは懐王の政治の道具としての愛着ゆえか。

  ともかく幸燕は万全の体制で警備されたまま秦・へと向かっていった。

 

 

  揺れる馬車の中、幸燕は白嬰に思いを馳せる。

  「それにしても…まさか白嬰様が白圭様のご子息だったなんて。」

 

  幸燕はこれを聞いた時、あまりにも驚きすぎて淑女にはあるまじき生娘のような声を上げてしまった。

  だが、驚くのも無理はない。

  白圭は生ける伝説なのだから。

 

  周に本拠を置き裸一貫、わずか十年ほどでこの世に並ぶものがいないほどの資産を保有するようになった。

  それだけではただの成り上がり英雄譚として話は終わる。

  白圭の真髄はむしろここからだ。

  白圭は それらの資産を惜しげもなく投げ打って魏に大防波堤を築きあげた。

  王侯貴族でもない一介の商人が歴史に名が残るべき大偉業を成してしまったのである。

  これにより洪水に苦しめられてきた民達の生活は安定し、皆がこぞって白圭を褒め称えた。

 

  それからも飢饉や天災のたびに、苦しむ民達にただ同然で必需品を提供するなどの善行を成し徳を積み、その威光はもはや七雄の王達すらも凌ぐとされている。

  白圭に比肩しうるものはこの世に一人のみとすら言われるようになった。

 

  しかも、不思議なことに白圭を嫌うものが中華全域どこを探してもいないのだ。

 悪評の一つも聞かない。

  民達からはもちろん、王族達からもその才器を惚れ込まれ敬われている。

  風の噂によると何処かの大国に宰相の席を以って招かれたという。

  が、白圭は断った。

  白圭は常に弱者の味方であった。

 

「でも、それなら身分的には何の問題も無いはず。」

  気づけばそう呟いていた。

  そして、ハッと我に返って顔が急速に赤くなっていった。

  (えっ、えっちょちょちょっと待って。身分的に問題ないって何が?私、急に何考えてんの。)

 

  しばらくアタフタと一人でひとしきり悶えた後、ふぅーっと熱い息を吐き、すっかり赤らんだ頬を両手で添えながら

  (また、どこかでお会いしたいなぁ。)と、蕩けるような表情で遠い目をする幸燕の姿はどこからどう見ても恋する乙女の姿であった。

 

 

  白嬰は幸燕が馬車で去った後もしばらく呆然としていた。

  幸燕の美しさの余韻から抜け出せないでいた。

  幸燕は穏やかそうに見えて案外強したたかなのかもしれない。

  女神の如き笑みの中に小悪魔じみた意地悪さを垣間見た気がした。

  と、そんなことを考えていると右側から視線を感じた。

  そちらを振り向いてみると白圭がからかうようにニヤニヤと笑っている。

 

  「なんだよ。」

  少々居心地が悪くなって口を尖らせる。

 

  「いや、なるほどそういうことかと思ってな。嬰、お前も罪な男だな。だが、お前が望むなら俺が万事整えてやってもいいぞ。」

 

  「いや、何の話だよ。」

  白嬰の顔が羞恥で赤く染まる。

  いや、親父が言わんとすることはなんとなくわかるが、敢えて深く考えないでおこう。

  幸燕が今現在抱いているそれは、おそらく心が弱っている時に優しくされたが故の気の迷いだろう。

  もう少しすれば自分のことは感謝こそすれその対象にはなり得ないだろう。

  などと、馬車の中の幸燕とは真逆のことを考える息子を見て白圭は一つ大きなため息をした。

 

  「まー、嬰がそれでいいなら別にいいけどよ。」

  白圭は息子の色恋沙汰にとやかくいう気は毛頭ない。

  店を無理に継がせる気もないし、白嬰のやりたいようにやればいいと思っている。

 

  (それにしても大きくなったな。もうあれから十四年も経ったのか。)

  しみじみと柄にもなく感傷に浸っていると突然白嬰の纏っている雰囲気が一変した。

 

  「で、親父どうだった。やっぱり攻めてくるのか?」

 

  この問いに白圭は少なからず驚いた。

  まさか、そこまで見抜いているとはな。

  白圭も真剣な顔になり雰囲気が鋭いものとなる。

 

  「ああ、嬰の想像している通りだ。宜陽ぎようが陥落した。そして、秦軍はそのまま洛陽らくように馬を向けた。」

 

  「やっぱりな。九龍神鼎きゅうりゅうしんていの軽重を問いにくるってだけじゃなさそうだな。」


  「ああ、奴らは確実に俺たちの国を滅ぼしにきている。」

 


白嬰らの人生には血生臭い戦雲が立ち込めようとしていた。

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