第8話

その後、白嬰らは旅籠に戻り怪我の治療を受けた。

  怪我の治療は旅籠の女将がしてくれて二人とも治療が終わると泥のように眠った。

 

 

  白嬰が目を覚ますと眩しい光が目を刺した。

  あれから一夜が明けたようだ。

  尿意を覚え起き上がろうとするも四肢に力が入らない。

  だるけが体に重くのし上がってきた。

  だが、不思議と痛みは残っていなかった。

  女将の治療を受けていた時茶坊が無理やり塗ってきたあの激臭がする軟膏が効いたのかもしれない。

  それからしばらく悪戦苦闘し、なんとか起き上がった白嬰は厠に行った後下に降りて行った。

 

 

  この旅籠は大通りに面しており、賑わっている市場が一望できる。

  そのすぐ下にある食堂も少々値がはるが美味だと評判で朝から労働者たちでごった返していた。

  白嬰は食堂に入りキョロキョロと周りを見渡すとすぐに茶坊と共に朝餉をとっている白圭を見つけた。

 

  「おう、嬰もう怪我の方は大丈夫か?」

  白嬰が白圭の隣に座るとすぐに朝餉が運ばれて来た。

  「ああ。痛みもすっかりひいてるし今日からまた働いても問題ない。」


  「阿保。あと数日は大人しくしとけ。」

 

  「ところで幸燕は?」


  「幸燕殿ならまだ上で寝てる。負った傷は数日安静にしとけば完治すると言っていたがなにぶん精神を大分摩耗しているようで昨晩から高熱が続いているんだとさ。」

 

  「そっか…」

  無理もない。

  あんなことがあった後だ。

  実を言うと白嬰は後悔していた。

  もっと早い段階で幸燕を助けれたんじゃないのかと。

  そうすれば心に残った傷がもっと軽くなったのではないかと。

 

  長身が幸燕に匕首を突き刺す寸前を狙って奇襲を仕掛けたのはその時が最も成功率が高かったからだ。

  人間は意識の切り替えを急にはできない。

  例えば演技ではなく本当に大爆笑した直後に人を殴ることはできない。

  泣いた後にすぐ笑うことができないのと同じだ。

  どれほど意識の切り替えが早い人でも幾らかの間を要する。

 

  長身が幸燕に匕首を突き刺そうとした瞬間、当人だけに限らず周りの男たちも皆意識の中では獲物を狩る捕食者となったのだ。

  ゆえに咄嗟の反応が遅れた。

  加えて生物は獲物にとどめを刺す瞬間が最も隙をさらけ出す瞬間でもある。

  白嬰はその隙を突いた。

  だからこそ男たちは普段の十分の一の実力も発揮できず倒されたのだ。


  だが結果的に白嬰は助けを求める幸燕を囮にした。

  幸燕の感じた死の恐怖と引き換えに自分の安全を買ったのではないかと白嬰は自己嫌悪に陥っているのだ。

  俺がもっと上手くやれていれば。

  あの方法じゃないもっとましな方法があったはずだ。

  そう思うと食欲すら湧いてこない。

  目の前に出された朝餉にも食指が動かない。

  幸燕が今なお苦しんでいるのに自分が食べていいものか。

  そう心の中で葛藤してしばらく朝餉とにらめっこしていると突如白圭に肩を組まれた。


  「こら嬰。またウジウジいらん事を考えてるな。」

  白圭は息子の額と自分の額を合わせ言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 

  「いいか嬰、俺たちは神じゃない。

  骨が支え、血が流れ、肉が付いた人間だ。

  どれだけ頑張っても完璧に事を成せることなんてない。

  必ずどこかしらに後悔が残る。

  だがその後悔を誇れ。

  それは自分が物を成し得た証となのだから。

  だが卑下だけはするな。

  自分が選択した事を否定することだけはするな。

  もっと上手くやれたかと後悔するのもお前にはまだまだ可能性があると言う証拠なんだからな。」

 

  その言葉を聞くとすっと心が軽くなった。

  白圭には全てお見通しのようだった。

  白嬰は屈託無く笑った。

  「親父…ありがとう。」

  白嬰の胸のうちに渦巻いていた苦悩が刹那の内に振り払われた。

 

  そしたら尋常じゃないくらい腹が減ってきた。

  白嬰は目の前にある朝餉を一瞬で平らげおかわりを頼んだ。

  そういえば昨日花の蜜しか食べてなかった事を思い出し二杯目も一瞬で胃の中へ流し込む。

  やがて積み重なった器が天井を衝かんばかりになったところでようやく腹が膨れた。

 

  ちなみに先ほどの白圭の言葉は白嬰の心の奥底の箱に大事にしまい込んだ。

  白嬰は日々の生活で学んだ大切なことは全部この中に入れることにしている。

  まぁ、ほぼ親父の言葉だが。

 

  積み重なった器を見上げて向かい側に座る茶坊が嬉しそうに笑う。

  「フォッフォッフォ、元気になったようで何よりなのじゃ。」

 

  「茶坊にも心配かけたな。本当に済まなかった。」

 

  「フォッフォッフォ、なんのなんの。この一件で楽殿が一段階成長なされたようですし爺やは嬉しゅうございますぞ。」

  白嬰は幼い頃から茶坊を爺やと呼んでおり茶坊は今でも白嬰の前で嬉しそうに自分の事をそう呼んでいる。

  白嬰は恥ずかしいから二人きりの時しかそう呼ばないのだが。

 

 

 

  その後、男三人で部屋に戻りたわいない雑談に興じていると、ふと白嬰の頭にある疑問が頭をもたげた。

 

  「なあそういえば親父ってなんで幸燕の事を知ってたんだ?」

  白嬰を助けに来た時、白圭は少女を一目で幸燕だと見抜いていた。

 

 

  「ん?あー半年前に楚に商いに行った時、宰相の屈原殿のお宅にお邪魔してな。そこで幸燕殿と会いしたのさ。」

 

  「 なるほど、ちょうど俺が流行り病に掛かっていた時か。わからないわけだ。」

 

 

  白嬰は基本どこへでも白圭とともに行動するのだが、その時は起き上がるどころか人の話を聞くことができないほど重体だった。

  後から聞いた話だと白圭はわざわざ楚に赴いて病に効く薬を仕入れて恵まれない人々にただ同然で売り渡していたらしい。

 

  後日、お礼を言いに来た人々が家の門に殺到して数日家から出られなかったぐらいだ。

 

  懐かしい思い出に記憶を巡らせていると廊下からドタドタと騒がしい音が聞こえバーンと部屋の扉が開け放たれた。

  はぁはぁと肩で息をしながら入って来たのはこの旅籠の女将だった。

 

  「幸燕様がお目覚めになられました。」

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