後編

「……大丈夫?」


 先輩の手から解放された喉が、酸素を求めて激しく息を吸い始める。

 大量に注ぎ込まれる空気の感覚で、先輩の手が自分から離れている事に気付いた。


「……だい、じょ……す」


 目に涙が浮かび、先輩の姿が滲む。

 ああ、私がもっと我慢できていれば。

 謝罪の言葉は次々と浮かぶのだが、それはしっかりした音にはならず息と息の合間に不完全な言葉として漏れ出るばかり。


「どんな感じだった?」


 ふいに、先輩との距離が縮まる。

 唇が触れ合いそうなほどの至近距離。

 酸欠で激しくなった鼓動が更に早鐘を打つ。


「その……光が、チカチカ、して……意識は朦朧と、するんですが……」


 意識は朦朧としていたのに、鮮明に思い出せる記憶。

 

「ふーん……なるほどねぇ」


 先輩の吐息。細い目。まつ毛。

 視線がぶつかり合う状態に耐えかね、私は目線を壁へと逸らす。


「じゃあ私にも同じこと、してよ」


 パン買ってきて、くらいの気楽なノリで。

 あまりにも意外で、異常な、先輩の申し出。

 壁へ逸らしていた視線を思わず先輩の方へと戻してしまう。


「ダメ?」


 私の顎をくい、と引き寄せながら先輩はそんなことを言う。

 思わず即答してしまいそうな所をぐっと堪えて。


「……ダメ、です」


 返事をしながら目を逸らす。

 他でもない先輩のお願い、可能な限り聞いてあげたいが。

 先輩の頼みと言えど、それだけは出来ない。


「なんで?」


 また顎が掴まれ、先輩の元へと引き寄せられる。

 生半可な誤魔化しはきっと通じない。

 かといって本当のことを言ってしまうのもどうなのだろう。


「先輩を傷付けるなんて、出来ません」

「なんで?」


 出来る限りぼかした言葉が、先輩の即答で打ち砕かれる。

 問いかけるように先輩。

 かわいい。

 じゃなくて。

 無意識に喉がごくりと音を立てた。

 ああもう、どうにでもなれだ。


「その、先輩のことが……好き、なので……」


 言ってしまった。ついに、言ってしまった。

 反応が怖くて、思わず先輩から目を逸らす。

 しばしの沈黙。


「好きだと出来ないもんなの?」


 いつもと変わらない口調の先輩。


「へ?あ、はい……」


 あまりに拍子抜けしてしまって、いつものトーンで返事を返してしまう。


「私の場合は逆だけどなぁ」

「えっ」


 馬乗りのまま、再び先輩の顔が近付いてきた。

 思わずぎゅっと目を瞑った私の首元に、鈍い刺激。

 眼前に広がる先輩の首筋を見て、先輩に首を噛まれたのだと再認識する。


「こういうことしたく、ならない?」


 噛み付かれた首元から先輩の口の端まで伝う線。

 それをぺろりと舐め取りながら、先輩が小悪魔のように笑う。


「こういうことは、その、あまり」

「そっか」


 会話が途切れる。

 先輩に噛まれた首元の熱量で、頭が上手く回らない。

 そのせいだ、きっとそう。


「じゃあ、どういうことがしたいわけ」


 そんな私と対照的に、先輩はいつになく饒舌で。

 私は天敵に睨まれた草食動物のように、じりじりと壁際へと追い詰められてしまう。


「どういうこと、と言われましても……」

「……言われましても、何」


 明確な答えが出るまで、きっとここから動けない。

 というかなにより、私の方が我慢できない。


「……ん、む」


 私と先輩の熱が混じりあう。

 その大半が私から先輩へ。

 でも先輩から私へも、確かに微かに伝わってくる。

 当たり前のことだけど、その当たり前のことが今は何故だか無性に嬉しくて。


「ぷはっ……はーっ、はーっ」


 酸欠で荒々しくなる呼吸も今は煩わしい。


「先輩……っ!」

「……こら」


 再び唇を重ねようと覆い被さる私の額が、先輩の人差し指で制される。

 ほんの一瞬の間。冷静になるには十分な間。

 激しい呼吸が緩やかになるにつれて、自分の蛮行がゆっくりとフラッシュバックしてきた。


「がっつくな」


 動きを止めた私の頬ががっしりと掴まれ、そのまま壁に押し付けられる。


「ふ、ふいまへん……」


 口をひょっとこのように歪められながらしばらくその体勢のまま固められていた。


「さっきのが、したかったこと?」

「はい……すいません……」


 拘束を解かれ、ベッドの上で向かい合う私と先輩。

 こちらは正座で先輩はあぐらと姿勢は対照的で、現在の状態とは完全に真逆といえる。


「謝らなくていいよ」


 気付けば先輩の顔がまた目の前に。

 今度は私の方が動けない。


「ん……ぁ……ふ」


 再び壁に押し付けられ、動きを封じられる。

 先輩から伝わってくる熱量は先程よりも強く、脳が蕩けそうなほどで。


「別にそんな悪い気してないし」


 私の口元へ伸びる白い糸を拭いもせず、先輩が言葉を続ける。

 あまりに多くのことが起こりすぎて、思考が正常に働かない。


「先輩、その、男の方と、付き合って」

「付き合ってたね」


 考えるよりも先に、言葉が出る。


「それは、その、なんで」

「なんでって……強いて言えば暇つぶし?」

「暇つぶし……」

「好きって言われたら、なんだかんだね」


 言葉は留まることを知らず。 


「……好きです、先輩」

「知ってるよ」

「その、先輩は、私のこと……」

「んー、嫌いではないかな」


 先輩はいつものように飄々としていて。


「先輩」

「ん」


 その気持ちを確かめるように、もう一度こちらから口付ける。


「……いきなり積極的だね、あんた」

「すいまs……」


 謝ろうとした言葉ごと舌が齧られた。


「謝るなっての」

「すいm……」

「……ふふ、バカみたい」

「……たはは、そうですね」


 こんなに簡単な事なら、もっと早くに言っておけばよかった。


「先輩、もう一回……」

「調子乗るな、バカ」

「あひっ」


 するりと横を抜けられ、耳を齧られる。

 これも先輩なりの愛情表現と思うと、妙に愛おしい。


「……にやけ顔がなんかムカつく」

「あ、すい……いや、えと、あ、ありがとうございます?」


 自分でも素っ頓狂だと感じる返答。


「……がぶ」

「い、いた……痛いです、先輩」


 案の定、先輩からの反撃付き。


「やり返したくなった?」

「いや、それは別に……」

「……チッ」

「先輩?」

「何でもないよ、何でも」


 少しむくれる先輩を後ろから抱きしめる。


「……あむ」

「……んっ」


 された事を真似て耳を噛むと、くすぐったそうに身を震わせる先輩。


「どう、ですか?」

「……物足りない」

「えっ」

「もっと、強く」


 先輩が無防備な体勢でベッドに横たわる。

 まさかの展開だ。


「……善処します」

「うむ、頑張れ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その日私は初めて先輩に首を絞められた ハナミツキ @hanami2ki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ