その日私は初めて先輩に首を絞められた

ハナミツキ

前編

「今日あんたんち、泊めて」


 いつもと変わらぬ帰り道。

 突然後ろから首根っこを掴まれたかと思うと、開口一番低い声。


「何があったんですか、先輩」


 一応こちらもいつもの対応。

 別に二つ返事で承諾してもいいのだけれど、少しでも先輩との会話を長引かせたいから聴き返す。


「うっさい、とにかく連れてけ」


 言葉と同時に小さな衝撃。

 寄りかかってきた先輩の指先が視界の端で所在なさげに揺れている。


「仰せのままに」


 私は先輩の指先をしっかりと握りながら歩き出した。

 私と先輩は私換算で頭一個半ほどの身長差があるので、結構無理した体勢でのエスコートになる。

 ずりずりと先輩の靴が地を擦る音だけをBGMに、私達は帰路についた。



「私ってそんなにわがままかな」


 家に着き私の部屋に入り、いつもの定位置であるベッドに寝転がった先輩の開口一番。

 私はその一言を聞いて顎に手を当てる。

 返答は選ばなければならない、それも慎重に。


「どうしたんですか急に」


 思いついた選択肢の中で一番無難なものを選び口にする。

 そんな私の心虚しく先輩は不満顔のまま。


「またフラれた」


 半分寝返りを打った体勢でこちらを見つめながらの返答。

 ビー玉のように丸い瞳が、今だけ歪んだ形でこちらを見つめている。


「またですか?」


 思わず言葉が口をついて出た。

 慎重に選ぶ予定だったのだが、出てしまっものは仕方ない。


「そう、まただよまた」


 あからさまに不機嫌度の増した先輩の声。

 それが私に向けられたものなのか、今までに先輩を無下にしてきた相手へ向けられたものなのか、その区別は付かない。


「……ん」


 先輩がこちらへ向けて、漫画なんかで格闘家がやるような指をちょいちょいとする仕草を繰り返す。

 これもいつもの流れ。


「……失礼します」


 促されるまま、先輩一人だと丈が余り気味なベットの余分なスペースへ潜り込む。

 いつも通りのことだけれど。


「んひっ……」


 背後から手を回されるこの感覚は、何年経ってもなかなか慣れない。


「動くなって」


 先輩の声。

 甘い香り。

 柔らかい手の平。


「す、すいま……せん」


 全ての誘惑を振り切って何とか声を絞り出す。

 先輩は昔から嫌なことがあるとこうして、私を抱きかかえて気を紛らわすことがあった。

 最初は確か小学生くらいのときで、原因は先輩の両親が離婚したせいだと記憶しているが、本当にそれが最初であったかはもはや定かではない。

 先輩曰く、でかいテディベアを抱いてるようで安心する、とのことらしく。

 無駄に大きなこの身体が少しでもお役に立つならと、今日に至っているわけだ。


「あんた、また大きくなった?」


 先輩の指が腰を滑り、へそを撫でる。

 

「はあ、まあ……お陰様というか、なんといいますか……」


 手の平が位置を変えるたびに走るこそばゆさを耐えつつなんとか言葉を返せた。

 

「ふーん……」


 興味なさそうな返答と対象的に指は軽やかに腹周りを這い上がり、そのままの勢いで胸元へと到達する。

 幼い頃は何も思わなかった習慣でも、今はもう高校生。

 思うところがないといえば嘘になる。


「私だってさ、我慢してるとこはちゃんとあるし」


 私の知らない誰かへの不満をぶつけるように激しさを増していく指づかい。

 不意の声が漏れぬよう、人さし指をしっかりと噛む。


「そもそもさ、告白してきた方から別れようってなんなわけ?」


 先輩は昔からモテる。

 少しツリ目気味だけど整った顔立ちに、よく通る可愛らしい声。

 そこに人形のように可愛らしい背丈も組み合わされば、当たり前といえば当たり前で。

 一週間も保たずことごとくフラれているという前情報すら、我こそはと男心に火を付けるのかもしれない。


「ねぇ、ちゃんと聞いてる?」

 

 会話の棘に合わせるように、ちくりと先輩が爪を立てる。

 痛いというほとではないものの、敏感になった身体には十分な刺激だ。

 指を噛む力も自然と強くなってしまう。


「ふ、ふぁい……聞いてまふ……」


 言った直後に自分でも失敗だったと確信が持てる声。

 これでも頑張ったほうだったが、これなら返事をしないほうがマシだった。


「ちゃんと聞いてるかって聞いたのに、ちゃんと聞いてないじゃん」

「ふ、ふいまへっ……へんぱっ……」


 左手はそのまま、右手の指が不平を訴えるように私の口角を引き延ばしてくる。

 しかしそんな行動とは裏腹に、先輩の声からあまり苛立ちは感じない。


「あんたはそういうの、あんまないわけ?」


 一通り先輩がうっぷん晴らしを済ませた後。

 ベッドの上で向かい合った先輩が唐突にそんなことを問いかけてきた。


「そういうの、ですか」


 そういうの、ってのは所謂浮いた話とか惚れた腫れたとかそういうのだろうけど。

 本気で聞かれているのだとすれば結構、こちらとしてはむっとならざるを得ないのだが。


「私は先輩みたいにモテませんので、そういうのは……」


 一切意図せず、後悔が先に立つ間もなく飛び出した棘。

 見たことのない表情で目を丸くする先輩の瞳の中で、同じように目を丸くした私が映っている。

 別にモテるのが羨ましいとか、告白の仲介役が面倒だとか、そんな感情は微塵もなくて。

 強いて言えばなんで分かってくれないんだ、みたいな実に子供っぽくて恥ずかしい感情。


「モテたいと思ったことなんて、無いけどな」


 不意に先輩が状態を起こしたかと思うと、私の右肩がベッド側へと押し倒される。

 仰向けの私。

 馬乗りの先輩。


「見る目が無いな、世の男どもは」


 指が私の顎を沿い、そのまま手の平が包み込むように添えられる。

 気付けば先輩の目はいつものいたずらっぽい笑みへと変わっており、そこに映る私の姿はもう見えない。


「見る目が、ですか?」


 散らかった思考では考えがまとまらず、上手な返しが出てこない。

 私は仕方なく、先輩の言葉をほぼそのまま返した。


「うん、見る目が」


 その見る目が無い男どものおかげで、先輩は今私の前にいる。

 正直助かっているのだが、そんなこと先輩には口が避けても言えない。


「ねぇ、いい?」


 主語無き先輩の確認。

 いつの間にやら先輩の両手は私の首元に。

 先輩の意図はすぐに分かった。

 

「へ……あ?」


 意味までは分からなかったので、返答までは出来なかったけど。


「答え方は、はいかいいえで」


 少しからかうような、そんな声色の先輩。

 依然としてその真意は透けてこない。

 透けてこない、けど。

 なんとなく急かされているような、そんな感じがして。


「……はい。いいですよ」


 ゆっくりと自分の中で意味を再確認してから、言葉を返す。


「……いいんだ」


 ほんの少しだけ、意外そうな声。

 先輩こんな声、出せたんだ。

 少しだけしたり顔の私。

 そんな私を見て少しだけ不機嫌そうな先輩。

 首に触れた指先から力を感じた。


「……ふっ……ぅ」


 手加減をしてくれているのか、はたまた先輩の全力がこれなのか、思ったよりも息苦しさは少ない。


「……かっ……は」


 それでも確実に少なくなった酸素量に、思考がクラクラし始めた。

 視界の端でチカチカと光が瞬き、足りなくなった酸素を補おうと口がぱくぱくと魚のように動き出す。

 先輩の力は緩まらない。

 私の意思に反して両手が先輩を邪魔しようと動こうとする。

 生存本能というやつだろうか。こんなものが私にもあったとは。

 朦朧としていく意識とは裏腹に思考はやけに冷静で、私は暴れだそうとする両手をシーツを掴むことで制する。


「ぅ……」


 ついには視界がぼやけ、先輩の姿も霞んできた。

 先輩の手の平から伝わる熱と自分の荒い呼吸音だけが意識を繋ぎ止めている。

 このまま先輩が手を緩めなければ、きっと私は。

 私、は。

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