第二百四十二話 この夏しかない件

 雲空は、確かな手応えに心地よさを覚えながら、ゆっくりダイヤモンドを回っていた。球場全体から自分に惜しみなく拍手が送られている。

 そんな歓喜の中、彼はふと昔のことを思い出していた。


――「雲空、お前は天才だな!」


「雲空君は将来、プロ野球選手になりそうね」


 小学生の軟式野球界で、雲空は地元のスター選手だった。

 ポジションは決まっていつもエースで四番。特にバッティングセンスは別格で、大会記録に並ぶホームラン数を放っていた。当時を知る人は皆、雲空は強豪校に行き、プロ野球になる事を疑うことはなかった。


 ――しかし、雲空の大好きな野球は、彼の父にとっては邪魔でしかなかった。


「中学から野球は辞めろ。お前は俺の会社を継ぐ責任がある」


「貴方、この子にだってやりたい事くらいやらせてあげても……」


「俺に指図するのか!! 模試の順位が落ちているのはお前の管理不足だろうが!!」


 雲空の家庭環境は決して良くなかった。父親は有名IT企業の経営者。経済的には裕福であったが、父親の過剰な教育方針を強いられていて、雲空は野球を辞めるように言われ続けていた。彼の母親は雲空のことを必死に擁護しているのだが、日に日に元気がなくなっているのが、雲空は子供ながらに理解できていた。


「父さん、俺、絶対永愛に合格してみせる。そして大学は海外留学をして、将来父さんの会社を継ぐ。だからこれ以上母さんを責めないで」


「ほぉ……?」

 雲空の父親は、興味ありげに聞いていた。


「ただ、永愛でも野球をやらせて欲しい。必ず試験は上位の成績を収める。それが出来なかったら、即野球を辞めるよ」


「わかった。それなら野球は続けて良いが、男に二言は無いからな?」


「わかっているよ、父さん」


 それから雲空は、勉強にも一層力を入れた。中学の模試は常にTOP十入り。永愛には入試トップの成績で入学し、常に学年一位の成績を収めていた。


 ただ、猛勉強の代償として、彼は大好きな野球の練習時間を犠牲にした。小学生の時はバンバン三振を奪っていた豪速球は、今となっては並の高校生の球速といった程度になっている。


 それでも雲空は、野球が楽しくて仕方がなかった。限られた時間の限り、全力でプレーをしている。



――雲空はふと、マウンド上に目をやった。明来のエースナンバーを背負った千河が、膝をついていた。


 だが――。


『コイツ、なんで楽しそうな顔をしてんだ?』

 

 雲空は違和感を覚えていた。二打席連続で自分にホームランを打たれたピッチャーが、何故楽しそうにしているのか理解できなかった。


『俺の野球にはもう、この夏しかない。一試合でも多く試合がしたいんだ。ベスト八は譲ってもらうぜ明来高校』


 四回裏 ツーアウトランナーなし

 明来 ゼロ対ニ 永愛

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