第九十五話 雲ひとつない夜空
西京学園が勝利を収めた日の夜。
ここは西京学園の選手が滞在しているホテル。
劇的勝利を挙げ、取材の疲労まで加わった各選手は各自リフレッシュに時間を当てていた。
夕食は各自ノルマの量を平げ、腹が膨れると共に瞼が重くなる者や、テレビを見る者、道具の手入れをする者など、それぞれの時間を過ごしていた。
そんな中、一年生の灰原は今日の試合で甲子園の歴史に名を刻んだ男を探していた。
その彼はホテル内の公衆電話で、ひっそりと電話をしていた。
「ああ……兄ちゃん頑張ったぞ」
灰原は、それとなく自分の存在を紫電に示した。
灰原の気配に気づいたのか、紫電はチラリと彼を見つめた。普段の紫電からは想像できない、とても穏やかな顔つきをしていた。
「悪いな紫電、監督がお呼びだ」
灰原の言葉に対して紫電は静かに頷いた。
「ごめんな、兄ちゃんこれから練習だ。二人とも早く寝るんだぞ」
紫電はガチャリと電話を切った。
「二人とも喜んでたろ?」
「ああ、寮母さんの手伝いをしながらずっと試合を観てたってよ」
紫電は普段通りの引き締まった表情に戻り、灰原の問に答えた。
とある事情から、紫電の弟と妹は西京の寮で選手と一緒に暮らしている。複雑な家庭事情なのが伺えるが……。
そして紫電は足元に置いていたバットとバッティンググローブを拾い上げた。
もう見慣れてしまったが、彼の手のひらは全体血マメが広がっている。バッティンググラブも至るところビリビリに破けている。
「お、おい。本当にこの後も練習するのか?」
灰原は知っていた。彼が夕食後にも一人黙々とバットを振っていたことを。
「当たり前だ。俺にはバットを振ることしかできないからな」
「そ、そうか。わかった」
灰原は驚きながらも、監督のいる部屋まで紫電を案内した。
――トントントン。
「どうぞ」
「一年灰原入ります、失礼します」
灰原は軍隊のようにピシッと背丈を伸ばしながら、丁寧にドアを開けた。
「監督、紫電を連れて参りました」
「ああ、ありがとう灰原君。試合中の応援だけでなく雑用までしてくれて、疲れてるのに申し訳ないね」
「いえ、とんでもございません」
高校球児のお手本のようなハキハキとした受け答えだ。虹監督も笑顔で頷いていた。
「……食事の後も一応、バットは振っていたみたいだな、一閃」
灰原の時とは一変し、真剣な表情で虹監督は紫電に話しかけた。
「……その様子だと、精々三百くらいか」
紫電は無言で小さく頷く。
その場にいた灰原は驚きを隠せなかった。食事後の時間と、紫電の疲労度を見てどれくらい素振りをしたか、監督には手にとるように分かるということに。
「試合後の気分転換としては……まあ及第点でしょうか。まだまだ余裕ですね。さあ練習の準備しなさい」
虹監督の指示を聞くや否や、紫電は無言でバッティンググラブを手にはめた。
一試合フルで出て、活躍の中心にいた紫電に余分な体力が残っているわけがない。紫電が入学してから監督がつきっきりで指導をしていたのは知っていたが、ここまでハードとは思わなかった。
疲労困憊ながらもバットを構える紫電の姿を見て、灰原は咄嗟に声を上げた。
「監督、私もご一緒させて頂けないでしょうか」
紫電だけに苦労はさせたくなかったからか、思わず発言してしまった……、灰原は緊張しながら回答を待った。
「勿論構いませんよ。今年は三人も骨のある一年生が入って、とても嬉しいです」
虹監督は満足そうに答えた。
「三人……ですか」
「ええ」
虹監督は笑顔で答える。
「黒江君には、夕食後からずっと走ってもらってます」
次の瞬間、部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
「一年……黒江……入ります。失礼します」
黒江が息を切らしながら部屋に入ってきた。
「ランニング十キロ……走り終えました」
「そうですか。では次は体幹とチューブトレーニングをするので準備しなさい」
「……はいっ」
黒江は今日完投していた。当然、チームで一番疲労があるはずだ。だが彼は更なる高みを目指して練習を続けていたのだ。
「では灰原君は……とりあえずバットを持ってきなさい」
「はい!」
その後、旅館の庭で地獄のような自主練が行われたのは想像に難しくなかった。薄明るい庭園灯に照らされながら無我夢中で練習が行われた。
「一閃、もっと下半身を使いなさい! そんな弱いスイングでは次回こそ神崎君に抑えられますよ!!」
「黒江君、体の開きが早い、もっと左手のグラブを使いなさい! 太刀川君に打たれたツーベースを、もう忘れてしまったのですか!?」
虹監督が、プライドを突くように煽り立てる。言われた二人は眉間にシワを寄せながらも、より練習に迫力を増していった。
それにしてもキツい自主練だ。灰原は多少後悔しながらも、この一年生コンビが甲子園という舞台でベストパフォーマンスを発揮できる理由を痛感した。
西京は普段の練習も滅茶苦茶ハードだ。恐らく全高校でもトップクラスの練習量だろう。
ただ皆と同じ量だけでは、全国の野球エリートが集う西京では頭一つ抜けることはできない。
この二人に負けないようにと、灰原も全力でバットを振り続けた。
――自主練習を終えた時には全員、立つ気力は残っていなかった。三人は崩れるように地面に倒れ込んだ。夜空は雲ひとつなく、星が煌めいていた。
夜空を見て、一息ついてから宿へ戻った。すっかり日付が変わっていたのは、その時に気がついたのであった。
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