第22話 これが僕の素直な気持ち
――ああ。今にして、僕は気付いた。
いや、そのままという言葉を耳にし今眼前にて懸命にも純然なまでの健気さを見せる美夜を目にしてでしか、僕は気が付けなかったのだ。
僕がこの世界を初めて訪れたあの日以来、この世界の美夜を目の当たりにする度に抱いていた違和感の正体を。自分の前にいる、この美夜の存在が一体何なのかを。
そしてその全てを悟り、理解した上で、納得したのだ。
この2日間が。ひいては今までの僕と美夜の歩みが、何を意味していたのかを。
「そういう、ことだったのか……」
吐息をつくように軽く肩を落とした僕に、それまであくまでも第三者として俯瞰的に僕らを見ていたエムが、不思議そうな面持ちを向けてきた。
「……どうしたのお兄さん? 何か気付いたの?」
その問いかけに合わせるように、美夜も僕の顔を覗き込んでくる。
僕はそれを確認するまでもなく、重く厳かに口を開いた。
「……エム。……確か、この世界の人間の性格とかって現実世界の人間に則してるんだよな……?」
エムは何のことだとばかりに小首を傾げる。
「……? そうだけど、それがどうしかした?」
「……違うんだ……」
「え?」
「……たぶん違うんだ。それが。僕はそれを前提にして美夜について考えてた。だけど、違ったんだ。だから、僕の違和感はずっと拭えなかったんだ」
「どういうこと……?」
本当に疑問を抱いているという風に大きく首を捻るエムと、おもむろと意味ありげに視線を落とす美夜。
そこから最後の確信を得て、僕は考え得る限りの真実を確実に言葉にする。
「確かに、この世界のすべてのものは現実世界に則している。それは人間だけじゃなくて、建物や土地なんかも。だけど、ただ則しているだけじゃないんだ。……ヒントはこの世界が『裏側の世界』だってこと。さっきまでは僕もこれが前にエムが説明してくれたみたいに単に現実世界の裏側に存在するからってだけの理由だと思ってたけど、本当はそうじゃなかった。『裏側の世界』の裏側ってのは世界の存在位置だけじゃない。人間の存在に関しても裏側に位置するものを意味してるんだ。おそらくこの場合の人間の裏側とはペルソナ、人格としての裏側を指している訳で、つまりこの世界の人間は現実世界の単なる鏡写しのような存在じゃなく、人間誰しもが密かに隠し持っている裏の性格が宿った存在なんだよ」
「「……ッ!」」
エムと美夜が同時にはっとし肩を震わせる。
それもそうだろう。エムに関して言えば自分が意気揚々と教えた情報が近からずも遠からず間違っていたのだから。
その衝撃たるやどれくらいなのか。
ただ右手で口を塞ぎ目を白黒させているところを見るに、やはりその困惑と動揺はそれなりに大きいに違いはない。
「ま、まさかそんな……。でも、確かに不自然な点はどこにもないし理にも適ってる……。私が間違った情報を正しいって認識してたってこと……?」
「まあそういうことになんだろう。だけど、別段エムのミスという訳でもないと思う。だってエムはそもそも自分の存在について何も分からないんだろう? だったらエムがこの世界の知識をどこでどうやって得たかも不明な訳で、もしかしたら誰かから勝手に入力されたのかもしれない。結局憶測の域は出ないけれど、きっと何かしらのそれこそ裏側があるんだろう」
「……」
言葉を失うエム。
そして僕も、自分のした説明に何かしらの悪い予感を感じてはいた。
便宜上憶測の域を出ないとは言ったけれども、それはほとんど確信に迫った憶測であり、あながち外れていないとの強い自信も確かに抱いていたのだ。
だからこそ、僕はこの問題も野放しには出来ないしエムの心配もこそすれ気にかけなければいけないとは思う。
けれども、僕が今すべきことはそれではなく、気にかけるべき相手も今はエムではない。
「……ただ、エムには悪いけれど今はそれどころじゃない。この際だからはっきり言おう。つまるところ、僕がこの世界の人間が現実世界の人間の裏側の性格を宿した人間なんだと勘づき、そして確信した理由。ーーそれが、君なんだよ、美夜」
そう言って僕は美夜をスッと見据える。つられ茫然としていたエムも驚いたようにすぐさま美夜に視線を向けた。
その先では美夜がバツが悪そうに視線を逸らし、唇を噛み締めるように口を固く閉ざしている。スカートの裾は強く握られ、くしゃっと潰れている。
そんな手が微かに震えているのを目で捉え、僕は正面から美夜に身体を向けた。
「僕はずっと、5日前に君を見かけたときからずっと、君の存在が気にかかってた。それはもちろん再会を願ってた人だからということもあったけれど、それ以上に引っ掛かることがあったんだ。君の髪色や髪の長さ、服装、言葉遣い……。その全てが、今の美夜とは違っていた。でも、君は美夜に違いなくて、美夜じゃないなんてことはあり得ない。じゃあ、君は何なのか。僕が感じていた違和感は何だったのか。それに、僕はたったさっき気付いた。いや、思い出した。長い時間がかかったけれど、やっとのことで思い出せたんだ……」
美夜の握る手の力が強くなるのが見える。肩が強張っているのが見える。そして、コクンと唾を飲み込んでいるのも見える。
ちらと見遣れば、エムも緊張した面持ちで固唾を呑んで見つめている。
僕はその全てを確認して軽く息を吐いた。
「……美夜。君は、君の正体は、現実世界の美夜の裏側の容姿と性格を宿した美夜だ。いや、もっと言うと、君は大学に入る前の美夜だ。そうだろう?」
「……」
美夜からの返事はない。けれども、僕が言い切った瞬間、確かに美夜の肩はピクッと揺れていた。
「……ごめん。お兄ちゃんどういうこと?」
エムが心底分からないというような顔で首を傾げてくる。
まあそれもそうだろう。エムが現実世界の昔の美夜を知っているはずがない。仮にもし知っていたとしても、それだけじゃあ分からないのはごもっともだ。
僕は待ってましたとばかりに一つコクリと頷くと、エムに答えるようにその実美夜に僕の思い出した全てを語りかけるようにして、出来得る限り懇切丁寧に言葉を続けた。
「現実世界の美夜は、明るい短めの茶髪に派手めな服装をした今時の女子という感じで、性格もツンツンしててギャルって感じだ。少なくとも今は。だけど昔は違ったんだ。僕らが大学に入る前、高校生の頃の美夜は、今とは全く違った。長い黒髪を背中まで伸ばし、服装も落ち着いていて淑やか。そして性格もお嬢様然とした穏やかなものだったんだ。そう……この世界の美夜、つまり君と丸っきり同じような」
「……ッ!」
「……えっ!?」
「だから僕は理解したんだ。きっと君には高校生の頃までの美夜の性格が宿っていて、この世界の人間には現実世界の人間の裏側の性格が宿っているのなら、君が美夜の裏側の部分なんだって。……そして、さっき君が言った、嘘偽りのない本来の自分やそのままの自分って言葉の本当の意味も……」
僕はそっと目を伏せる。僕にはこれ以上話を続けることが出来ない。美夜の言葉を思い返すだけで、胸が締め付けられるくらいの切なさに取り付かれるのだ。
エムの驚きを隠せないような吐息が聞こえる。ただそれだけで、エムが驚愕の視線で美夜を見つめていることが察せられた。
そうして僕が胸元を掴んで唇を噛み締めていると、美夜が視線を落としたまま、おもむろに口を開いた。
僕ははっとなり、慌てて美夜を向いた。
「……そうだよ。私は私。表か裏かなんて分からないけど、確かに私は本当の私なの。私はずっと、それこそ大翔くんと出会って好きになったときからずっと、この私を認めて欲しかった。好きって言って欲しかった。だけど、大翔くんはいつまで経っても好きって言ってくれなかった。私の気持ちに応えてくれなかった」
「美夜……」
「それでね、そのうち好きになってくれなくても私を認めてくれれさえすれば良いと思うようになってきたの。仲が良ければ友達みたいな関係でも良いのかなって。けど違ったの。違ったんだよ。やっぱり私は大翔くんに好きって言って欲しくて、大翔くんのずっと近くに居たかったの。でも、そう想えば想うほど大翔くんに応えてもらえないのが辛くて、苦しくて、悲しかった。大翔くんと一緒に過ごせば過ごすほど好きになって、その度に応えて欲しくて、その度に現実にうちひしがれて泣きたくなった。……だから私は、大学に入るときにそんな私を捨てることにしたの。いつまでも大翔くんを想い続けて苦しむだけ。そんな私が嫌になって、私は私という過去を葬り去ったの。それが、現実世界の私。現実世界の私は、大翔くんを好きでいる苦しみから逃れたかった私自身なんだよ。だけど、大翔くんの話を聞いて分かった。やっぱり私は大翔くんを嫌いになることが出来なかった。大翔くんへの想いまで捨て去ることは出来なかった。昔の自分を捨てても心のどこかではやっぱりずっと大翔くんのことが好きで、だけどその気持ちを捨てた手前その気持ちに正直になれなくて。それを繰り返す度にまた大翔くんを好きになって……。だからこそ私はこの世界にいて、この姿でいるんだってことが。私の存在こそが、神薙美夜が巫女神大翔くんのことを好きで応えて欲しいと願い望み続けている証なんだって」
そう言う美夜の声はどこか悲しげで、辛そうで、苦しそうで。
それが僕には美夜の本当の心の叫びのように感じられて。
美夜が顔を上げる。やっぱりその目には涙が滲んでいて、うるうると潤んだ瞳が僕に一途に見つめている。涙を纏った声が、救いを求めるように振り絞られる。
「でも、そんな私の存在が、大翔くんを想っている気持ちが、現実世界の私を蝕んでいるんでしょう? だったら、私はどうすれば良いの? このどさくさに紛れて大翔くんに返事を迫れば良いの? 私の命を救うっている名目で好きって言ってもらえば良いの? そんなの、私は嫌なの。私は大翔くんの本当の気持ちを聞きたい。本当の想いを聞きたい。そんな表面上の返事なんていらない。大翔くんの素直な気持ちを正々堂々ちゃんとした場で聞きたいの。それが例え望まぬ答えだとしても。だけど、それじゃあ私の命は救えない。それに、大翔くんを悲しませることにもなる。私の願いが大翔くんを苦しめてる。私は、一体どうすれば良いの、大翔くん……?」
そんな美夜の姿が見るに堪えず、僕は思わず顔を逸らした。いや、違う。この期に及んでも僕は、現実から目を背けようとしたのだ。咄嗟に、反射的に、自然的に。きっともうこの逃げ癖は直ることがないのだ。
だけれど、どうしても逃げてしまうなら、その後に振り返ってまた向かい直せば良い。また、正面からぶつかっていけば良い。
そうだ。僕はずっと逃げちゃいけないと思っていた。逃げるのは臆病なことで、弱いことなのだと。だけれど違うのだ。逃げることは決して臆病でも弱いことでもない。恥でさえない。それは単なる道筋で、ゴールまでの道程でしかない。何度逃げたっていずれゴールに辿り着けばそれは成功だ。勝利なんだ。僕は逃げることを肯定もしないし否定することもしない。だって、逃げることを本当の逃避にするか勝利までの価値ある道程にするのかは、自分の行動次第なのだから。
だから僕は、もう逃げない。逃げてしまうかもしれないけれど、もう目を背けない。僕が掴むのは敗北ではなく勝利なのだ。
そう自分に言い聞かせ自分を奮い立たせ、僕は美夜に向き直す。
美夜が望んでいるのは僕の正直な気持ちだ。嘘も偽りもない、僕の心からの答えを、美夜は願い続けていたのだ。ならば、僕が答えるべき答えはただ一つ。決して表面的なものではなく、本心の本心からの本心のもの。端から見たら格好悪いかもしれない。ダサいかもしれない。本当にくさいかもしれない。けれど、それで良いんだ。だって、それが僕もずっと想い続けてきた、美夜への素直な想いなのだから。
僕は最後の覚悟と大きく大きく深く深く深呼吸をして、一途に美夜を見つめる。美夜の瞳に映る僕の瞳に映る美夜の瞳まで。
ふと美夜の瞳に浮かぶ涙が、ふっと煌めいたように見えた。
「ーー美夜はそのままで良いんだよ。だって、僕は昔から今までずっと、神薙美夜のことが好きなんだから……」
「え……」
美夜の表情がふわっと和らぐ。柔風がそっと吹き抜け、長く黒い髪が枝垂れ桜のようにたなびいた。
「君のことがずっと好きだった。それが、僕の素直な想い。君と出会ってから始まり、きっと死ぬまで変わることのない、永久の気持ち。……ちょっとくさいかな……?」
なんて僕は茶化したように舌を出す。照れ隠しもここまで来ると滑稽で、そのダサさ格好悪さに我ながら苦笑が溢れてしまいそうなほどだ。
けれど美夜は違う。美夜の瞳に浮かぶのは今までよりも大分多い涙で、美夜の顔は可愛らしくもくしゃっと歪められる。
でも、僕には分かっていた。この涙は悲しいから出るものではなく、もっと違う特別な感情から来るものなのだと。
「……そんなことないよ。大翔くんはいつも優しくて、格好良くて、頼もしくて……。だから、今だってダサくなんてないしくさくもない……。だけど、本当に……? 本当に……私のことを好きだって言ってくれるの……? この私を……?」
だから僕は不安げに滲み出る涙を拭う美夜の目を見て、優しくそっと微笑みかける。
「……ああ、そうだ。僕は、美夜のことが好きだ。これまで恥ずかしくて、美夜の気持ちと正面から向き合う覚悟も勇気も持てなくて、ずっと自分を騙し君をも騙し続けてきた隠し続けてきた僕の本心。君の願いを叶えるためとかじゃない。君と同じように、僕もずっとこの想いを抱き続けてきた。やっぱり僕は……巫女神大翔は……君のことが本当に好きなんだ。それも、今の君がとか昔の君がとかじゃない。僕は今も昔も表も裏も、君の全てが好きなんだ。これは嘘でも偽りでもない。僕が全身の全霊で伝える、正真正銘の僕から君への答えだ」
「……ッ!」
美夜の目からは、涙がポロポロと溢れ出す。けれど瞳は輝いて、涙もキラキラと光を放つ。
「……本当の、本当に……?」
「ああ、本当の本当だ」
「……ドッキリとかじゃなくて……?」
「ああ、ドッキリなんかじゃない」
「……無理して言ってない……?」
「ああ、無理なんてするもんか。僕の素直な気持ちだぞ。むしろ自然と出てきた言葉まである」
「……じゃあ、大翔くんが私のことを好きって言うのは……」
「ああ、現実だ。真実だ。……ってそこまで聞いてくるってことはさては信じてないのか?」
そう言うと、美夜はより一層潤んだ瞳をぐっと堪え、涙が飛び散るほどに激しく頭を左右に振った。
「ううん、信じる! 信じてる! 大翔くんの気持ちが本当だって信じてる! だって、私は大翔くんをずっと隣で見てきたんだもん!」
その仕草や口調が妙に子供っぽくて、僕は思わず微笑を浮かべる。
「ああ、僕もだよ。ずっと美夜を近くで見てきたから、美夜の表も裏も全部知ってる。ちょっと説得力ないかもしれないけれど、知らないことがあっても全部受け入れる。だって、それが誰かを好きになるってことで誰かを愛するってことだと思うから。だから美夜……これからも僕の隣に居続けてくれますか?」
「……ッ! ……うん、うん! 居続ける。ずっと隣に居続ける。私も大翔くんをずっと好きでいるー!」
そう叫んで、美夜が僕に飛び付いてくる。その様はやっぱりどこか子供っぽくて、それがどこか現実世界の美夜のような感じもした。
だからきっと、表の美夜も裏の美夜も、やっぱり根底は同じなのだと思うのだ。人間表裏があるけれど、根っこの部分では同じ思いを共有してて、同じ願いを抱いているのだと。
嬉し涙を流しながら抱き付いてくる美夜を微笑ましく優しくそっと抱き返しながら、僕はそんなことを考えていた。
ふと視線を前に向ければ、そこには相変わらずフードを目深に被ったエムがいて、相も変わらず顔はよく見えない。けれども、僕にはエムも嬉しそうに柔和な笑みを浮かべているように見えた。
本当に、エムにはこの世界に来た直後からお世話になって、本当感謝の気持ちしかない。こんな状況だから仕方がないけれど、僕はエムにありがとうと言葉を伝える。
するとコクリと頷き返してくれて、僕は本当に心が温かくなるのを感じた。……本当語彙力が壊滅的で恥ずかしい……。
と、気付けば美夜がいつの間にか僕の腕の中で眠りについてしまっていた。目尻にはうっすらと涙が滲み涙の跡も残っているとは言え、スースーと寝息を立てて静かに気持ち良さそうに眠っている。
また見遣れば口許はふっと微笑みを湛え、如何にも嬉しそうなのが見て取れる。
まさかと思っておもむろにエムに視線を送ると、エムは少し幼いながらも暖かな笑みを浮かべたまま、コクンと一つ頷いた。
「うん、きっと、美夜お姉さんの意識が現実世界に戻ったんだね」
「……ってことは……?」
「……おめでとう、お兄ちゃん! これで現実世界の美夜お姉さんは命の危機から逃れて意識を取り戻したはずだよ! きっと今頃現実世界では美夜お姉さんが目を覚ましてるはずだよ!」
「……ほ、ホントに……?」
「うん、ホントに。本当にお疲れ様、お兄さん。そして良かったね、お兄ちゃん!」
「マ、ジか……。ホントにやったのか……僕……。ハハ……ハハハハハッーー」
満面の笑みでピースサインを向けてくるエムを見て、そこでようやく僕は自分のなに遂げたことを理解した。
僕は、美夜を救えたのだ。美夜の叶えられなかった願いを叶えて、果たせなかった望みを果たさせた。そして、美夜の命を助けたのだ。
それは言い換えるなら、5日前に絶望の淵に瀕してから抱き掲げ続けたきた誓いを、僕は果たしたのだ。
そう改めて認識すると、どこからか笑い声が込み上げていた。
やっと遂げられたという達成感と共に、確かに僕は得も言えぬ爽快感を感じており、だから僕は笑いを溢していたのだ。
今までの人生、誰かのために命を張ってまで足掻くことも、自分のために命懸けでもがくこともなかった。そんな僕にとって、これほどまでに誰かのためになれまた自分の志を貫けたのは初めてで、それに加えてここまで自分の存在を確かなものだと感じられることはなかったのだ。
そんな朧気だと思っていたけれど実は確かな実感が、僕の中の喜びや笑いを呼び起こしていた。もちろん、それ以上にやっと美夜と現実世界で再会できることの喜びや嬉しさの方が勝っているのだけれど。勝ると言うか何百何千倍も上を行ってるんだけれども。
一頻り喜び終えて、僕は一つ息を吐いた。
それでも、そうは言ってもやっぱり過程の中で僕は僕の弱いところに直面した。人間の醜さ、愚かさをまじまじとこの身で知った。その事実は、どんなに望ましく素晴らしい結果を得られたとて変わらない。
そのことを、深く自らの胸にこの先も忘れまいと刻み付けるように。
「ホント、ありがとな、エム」
美夜の身体をその身に抱えながら、僕はそう口を開く。
何回お礼を言っても足りないくらいに、エムには感謝しきれない。
けれどエムはそんな僕の考えを見透かしているかのように首を横に振ると、ノーノーと人差し指を立てた。
「違うよ。確かに私は力を貸したしその貢献度は計り知れない。私なくしてこの成功はなかったとも言える。だけど、そう行動しようって決めたのはお兄さんだし、その心に従って実際に美夜お姉さんを助けたのもお兄さんだよ。私はそこには何も力を貸してないし貢献もしていない。お兄さんの断固とした意志とたゆまぬ行動力がこの成功を導いたんだ。だからもう、私にありがとうなんて言わなくて良い。それよりもお兄さんはもっと自分を誇って、自分に自信を持って良いんだよ。それだけのことを、お兄さんはやり遂げたんだから。だからもう一度笑って、前に進んでって。ねっ、私のお兄ちゃんっ!」
「……ふっ。……そうかな。……ああ、そうだな!」
エムの思わぬ言葉に呆気に取られたけれど、まあ、僕の可愛い妹分に言われたのなら仕方がない。それ以外の選択肢などない。
だって、可愛らしくウインクなんて向けられたらそうするしかないでしょ。いくら顔が見えなくたって雰囲気で分かる。動きで分かる。仕草で分かる。だからしょうがない。結局、可愛いは正義なのだ。
なんて久しぶりに適当ぶっこいていると、不意に後ろから風が吹き抜けてきた。
風吹市のものとは全く違う、穏やかで落ち着いた風。風吹市の風が現実世界の美夜ならここ日野上市の風はまさにこの世界の美夜そのもの。温度も強さも風向きも180度異なる。だけれど僕はどっちの風も好きで、どちらの風も、やっぱり好きなのだ。
柔らかな風の向かう先は西。その方角の先には僕らが風吹市があり、そこには現実世界になら美夜が入院している風吹中央病院がある。
エムの言葉通りなら、今頃美夜は5日ぶりに目を覚まし、そしてご両親と再会しているはずだ。そして、きっと僕も……。
そんなことを思いながら、僕は風の吹き行く先を見つめた。眺めた。僕の想いが現実世界の美夜にも届くようにとそっと。
そうして、風が止んで僕は目線を手元に移す。そこにはすやすやと安らかに眠る美夜がいる。言葉尻本当に安らかに眠りすぎていて怖いくらいだけれど、まあ、呼吸はしているから大丈夫だ。……大丈夫でしょ?
とにもかくにもこれで全てが終わった訳で、全てが万々歳な訳である。ならば、いつまでもここに留まっているのも、それはただ時間を浪費するだけである。
「……じゃあ、帰ろっか」
「うん、そうだね」
美夜を優しく背中に抱えると、エムと一緒に僕はその場を後にする。
向かうは風吹市美夜の家。今は眠っている美夜も、現実世界が夜になれば必然的に意識を取り戻すだろう。それまでに、美夜を家に送っておくのが男たる僕の役目であるのだから。
ふと、前を颯爽とスキップしていくエムが目に留まる。結局彼女が何者なのかなんてことは分からなかったけれど、今はそれで良いのだと、僕は確信にも近い変な予感を持っていた。
そのとき、僕の肩を掴む美夜の両手がきゅっと握られ小さな小さな、だけれど確かな声が耳元で聞こえた。
「ありがとう」
その言葉にああと小さく呟くと、僕は小走りでエムの後を追った。
僕らの上に浮かぶ太陽はなお一層傾き、空にはうっすらと青白い月が幻のように浮かんでいる。
それを見て、僕はふと考えるのだ。
さて、今日は満月だろうか、それとも……。
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