第16話 崩れ落ちる音

「ーーで、どうしてそんなに不機嫌になってんだよ、美夜?」

 現在時刻は11時半過ぎ。場所は日野上公園内の一角にあるカフェ&レストラン『いエろー・スいセん』内、日当たりの良い窓際の4人机。もう時分お昼時を迎えるということで、多からずも少なくない人々がコーヒーやらアイスティーやらスイーツやらを楽しんでいる。

 斯く言う僕も例の如くミルクティーにガムシロ二つとミルク一つを混ぜ込みかき混ぜ、心地よい甘さを舌の上に感じつつ一口二口と口に含む。そうして視線を向けるのは、目の前で氷透き通るストレートアイスティーにストローを刺し不満げに頬を膨らませてはかき回している我らが美夜様。

 国立歴史博物館内の全展示を巡り終わり館から出てきてからこの方、ずっとこの調子なのである。あれだけ意気揚々と息高らかに楽しみにしていたにも関わらず、である。いや、不肖この僕が察するに、それ故に、であるのかもしれない。

「……だって、せっかくの『明治維新の礎を築いた開明派幕臣たち』展だったのに、全っ然ゆっくり観られなかったんだもん!」

「やっぱりか……」

 少しばかりか幼げな口調になって口を尖らせる美夜に僕は溜め息をつく。

 やはり、期待し過ぎたが故の失望と言うか落胆と言うか胆を落とすと言うかそんな感じであった。でもまあ、美夜の言いたいことも確かに事実ではあったのだけれど。

 バスの乗員数の感じから博物館のお客さんもそんなに多くはないと踏んでスキップしながら国立歴史博物館に入った僕達だったのだが、いざ最初の展示室に足を踏み入れたならばそこにいるのは人、人、人、人。見渡す限り人の波人の多さ人の山。展示一つにつき6、7人は明らかに張り付くように凝視していて、見ているこっちが彼らを凝視してしまうほどの一大行事かと見紛う一大凝視であった。

 だいたい一部屋当たり10個くらいのガラスケース展示があるとしても、それぞれに6、7人がつくと考えれば70人弱。加えてその待機要員達もいるとくれば、その数実に100人ばかりではくだらないのは自明の理。つまりそれほどの人間が一つの部屋にキツキツのツメツメで屯していたのだ。まずこの時点でゆっくりと館内を回るには息苦しいというのが見なくても分かる。

 またそれ以上に、彼らはせっかくの人波であるのに全く流動的でなくむしろ一種の停滞的であった。彼らはまるで一つの塊のように動き、要は一つの展示を見終わったら隣の展示に、元いた展示にはその隣の展示から人が、といった具合に、人波を形成する70人が独占的に展示を観ていたのだ。確かに波のようではあるけれどそれは流れるプールのそれで、河川や大洋のそれではない。非常に卑小で卑屈で卑劣で下劣な波であった。それでは待機要員の彼らはおろか僕や美夜が充分に観られるはずもない。はずもない。ないはずだ。

 だからそれ故に、約1時間という時間を費やして全展示室を観て回ったものの表面上当面遠目から観たに過ぎず、美夜の納得のいくところにいかなかったのも仕方がないのだ。美夜が不機嫌ここに極まれりとなってもそれはやる方ないことなのだ。うん、正直言って僕も消化不良不完全燃焼だよ、ホントに。

「……まあ、それは僕も同じだよ。納得いかないのも分かる。だからさ、また個別で来れば良いじゃないか。そうすれば今回よりはスムーズに細部まで観られるかもよ?」

 マドラーをくるくると回して氷のぶつかり合う様を取り留めもなく見つめながら、僕は何気なくそう言葉にする。少なくとも、また個人的にでも来たいという思いは僕の中には確かにあったのだから。

「……意味がないよ」

「え?」

 不意に呟かれる美夜の小さな一言に、僕はふっと頭を上げる。

 そこにあるのは納得いかないと不満げに膨らむ顔ではなく、納得したくないと一途に訴える切実な顔と、切実に訴える一途な瞳。その双眸にはうっすらと光るものが滲んでいる。

「それじゃあ、意味がないんだよ……。だって、大翔くんと一緒じゃなきゃ……」

「美夜……」

 振り絞るように出される声にはいつも以上に真実味があって、それでいて現実味が感じられる。

 つまるところ、美夜の言葉はその言葉単体以上に物を言っていて、美夜の表情や声や息遣いや何やらなにまでは、それらの言葉以上に美夜の言わんとしていることを否応なしに伝えてきたのだ。

 僕の心も脳も意識の底までも、今一瞬のうちにして、それら美夜の全てで埋め尽くされ、僕もまた愛しさと切なさと心強さとで一杯になっていた。

「……また来れるさ」

「え……?」

 だから意識せずとも指示をせずとも、僕の口からは自然とかけるべき言葉が漏れ出ていた。

「また、一緒に来れるさ。明日でも、明後日でも、もっと先でも……さ」

「……うん、そうだね。そうだよね、大翔くん!」

「ああ、きっとな」

 次第に表情が明るくなり、薄ら浮かんだ涙を拭って何度も頷く美夜。僕もそれに力強く頷き返した。

 そう、きっと、きっと。きっと、もう一度、この世界で、目の前の美夜と一緒に、この場所に来ることが出来る。そう、確かな自信と覚悟とを、僕は間違いようもなく抱いていた。少なくとも、今この瞬間(とき)においては。

「お兄さん、美夜お姉さん、ビーフシチューとオムライスを持ってきましたよーって……何かありました?」

 と、軽やかな声に反応してそちらを見遣ると、エムがキョトンとした顔をして首を傾げている。その手にはプレートが持たれ、良い匂いを漂わせたお皿が3つ程見て取れた。

「んーまあ、何でもないよっ、な?」

「うん! うん! 何でもないよ、エムちゃん!」

 誤魔化すまでもなく笑顔を向ける僕に、美夜もうんうんと満面の笑みで返してくれる。

 状況を理解できていないであろうエムは、若干引き気味な顔で戸惑いを見せた。

「そ、そうですか。……何でそんなにテンション高いの?」

「さー。何でかな」

「むぅー。……まあ良いです。冷めないうちに食べちゃいましょう」

 自分でも気持ち悪いようなノリをして見せる僕に、エムは不満そうに口を尖らせるがすぐに呆れにも似た溜め息をつくと、ふっと微笑んでプレートをテーブルの上に置いた。

「そうだね、早く次のところにも行きたいしね」

 そう言って美夜はオムライスを取り、おしぼりで手を拭く。僕も続いてビーフシチューとセットのライスを取り、エムもボロネーゼの大盛りを手前に置いて準備オッケーと頷いて見せる。

 そして美夜の合図に合わせるようにして3人揃って合掌をし、昼食タイムに突入した。

「そう言えば昨日の夜もそうでしたけど、美夜さんって皆で揃っていただきます言うの好きですよね?」

 パスタをフォークでくるくる巻いてもぐもぐと美味しそうに噛み締めながら、エムはふと思ったように口を開く。

 言われたみれば確かにそうで、僕もシチューに舌鼓を打ちつつもゴクリと口の中を空にしてから相槌を入れる。

 口の中には物を入れたまま喋るなって小さい頃口酸っぱく言われたからね。さすがマナーを弁えている僕である。

「確かにな。うちは別にそうでもないけど、確かに美夜は昔からそこは拘ってたな」

 すると、当の美夜はオムライスにスプーンをすっと入れながら、んーと首を捻ってみせた。

「好きかどうかは分からないけど、確かに小さい頃からそこだけは徹底してやってたなぁ。もしかしたらママやパパの影響かもね」

「教育熱心な親御さんだったんですね」

 ほーんと頷くエムに、美夜は優しく首を振る。

「いや、そーじゃないの。うちね、ママもパパも仕事熱心で帰りが遅くて、いつも一人でご飯食べてたの。だからかな、いつからか誰かと一緒にいただきますって言うのに憧れてて、今でも癖で誰かと一緒にご飯を食べるときには言っちゃうんだよね」

 アハハ……と照れ笑いのような微笑を溢しながら頬を掻く美夜。

 けれどその姿はどことなく寂しそうで、どことなく懐かしそうで、どことなく全てを割り切っている風に映ってしまう。

 エムは聞き終わるとすぐに自分の言ってしまったことに気付き、やってしまったとばかりの顔をして謝った。

「そーだったんですか。何か悲しいこと聞いちゃってすみませんでした」

「良いの良いの、気にしないで。今では一人でゆっくりと食べるのも良いものだなって思い始めてるくらいだから。……それに、一緒に懐かしい思い出も思い出せたしね」

 カチャンという金属音とともにオムライスが掬い取られ美夜の口に運ばれる。そうして咀嚼し小さくゴクンと飲み込むと、氷の溶けかけたアイスティーに遠く目を遣りながら、再び口を開いた。

「……私が家族以外に初めて一緒にご飯を食べた相手、それは大翔くん、あなただったの」

「え……」

「知らなくて当然だよ。今初めて言ったんだから。まあそれは良いとして、私達は家が近いこともあって小学校に入学したばかりの頃から仲良しでよく近所の公園で遊んでた。来日も来日も日が暮れるまで。それは覚えてるよね?」

 ふふっと微笑みながら問うてくる美夜に、僕はうんと頷く。

 小学校1年生のときにクラスが同じになり、そこで初めてお互いの家が近いと知り、それから放課後に頻繁に遊ぶようになったのだ。それこそ美夜の言うように、毎日、毎日、日没まで。

「あの放課後は楽しかった。大翔くんと遊べて、大翔くんと一緒に過ごせて。あの頃の私にとってあの瞬間は人生の全てと言っても過言じゃなかった。だって、日が沈んで放課後が終われば、また一人寂しい時間がやってくるから。一人でご飯を食べて、一人でお風呂に入って、一人で眠りについて。当時の私には、家での時間は寂しく惨めな時間でしかなかったの。……まあ、それは今でも変わらないんだけどね」

 そう言って美夜は力なく笑う。

 僕はその姿と言葉から、衝撃とともに得心を得ていた。

 美夜が家にいるのを好まない理由。嫌いっぽいとかたぶん自由が好きなんだろうとか、今まではそんな中途半端な理解しかしてこなかったけれど、今は確かに理解したのだ。

 美夜は家にいるのが嫌いなんじゃない。自由に暮らすのが好きなんじゃない。両親から放任という名の放置をされた、ある種自由な家での暮らしが嫌いだったんだ。

「じゃあ、お兄さんとのご飯っていうのは……」

 エムが神妙な面持ちで尋ねる。いや、尋ねるというのは適当ではないたろう。なぜなら、エムは僕と同じように美夜の事情を理解し、なおかつ僕以上にその先の答えをも察しているであろうから。

 美夜を見遣ると、エムの視線に答えるように大きく頷いた。

「そう。そんな家での時間が初めて楽しいものになったのが、大翔くんが家に遊びに来てくれたあの日だったの。あるとき大翔くんが急に私の家に来たいって言い出して、学校からの帰り道そのまま私の家で一緒に遊んだ。本を読んだり、テレビゲームをしたりして。そして5時の鐘がなって、いつもなら解散する時間になった。私はまたいつものように一人暗い夜を送るのかと寂しくなった。でも、大翔くんは違った。大翔くんは私と一緒にご飯を食べたいって言い出したの。私は最初吃驚して聞き返した。大翔くんのお家は大丈夫なの? って。すると大翔くんはお母さんの許可はもらったからって。だから一緒にご飯を食べられるねって。そう言ってくれたの。私は嬉しかった。家の事情を敢えて聞かずにただ手を差しのべてくれた大翔くんの優しさが。ううん、今の反応を見るに、大翔くんは家の事情なんて本当に知らなくて、純粋に私とご飯を食べたかっただけなんだろうね。でも、その純粋な気持ちが、純粋な大翔くんが、私には救いのようだったんだよ。それこそ、毒リンゴを食べて生死を彷徨っていたお姫様を助けてくれる、お伽噺の世界の白馬の王子様みたいな」

 そこで美夜は口を閉じると、僕の方へ目を向けてきた。

 そんなこともあったなぁとか白馬の王子様は言い過ぎだろとか思っていた僕はそれに気付き、はてと首を傾げる。

 すると、美夜はなぜか面白がるようにクスッと笑うと目を細めて話を続けた。楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。

「だから二人で食べた夜ご飯もすごく美味しかったの。大翔くんからしたらそうでもなかったかもしれないけど、私からしたら、いつもと同じレトルト料理のはずなのに、今まで感じたことがないくらいにすごく美味しくて。そのとき思ったのよ。あぁ、これが本当のご飯なんだって。誰かと一緒に食べられるのは幸せなことなんだって。それに、大翔くんのことも。普段は素っ気なく振る舞ってるけど、本当は優しくて他人思いで純粋な人なんだって。この人とずっと仲良くしていたいって、ね」

「美夜……お前……」

 僕は言葉を失う。絶句する。ただただ、美夜を見つめるのみ。

「私ね。ずっと前から。初めて出会った日、そしてあなたの優しさを知ったあの日から……」

 美夜はゆっくりと、けれども正確に、一言一句を紡いでいく。その言葉が、その声が、その表情が。彼女の全てを物語っている。何を思い、誰を想い、何を伝え、誰に伝えようとしているのかを。

 僕は天井を見上げる。

 ーーそうだ。そうだよ。分かってた。分かっていたさ、美夜の気持ちなんて。あれだけ見せられて、あれだけ示されて、あれだけ伝えられたら分からないはずがない。分からなかったら、それは正真正銘の馬鹿だ。阿呆だ。ラノベ主人公だ。僕はそんな輩に落ちた覚えなどないと自信を持って言える。

 けれど、その代わりに、僕は正真正銘の腰抜けだ。腑抜けだ。鈍感系を演じることで美夜の気持ちから逃げ続けてきた最低野郎なんだ。そこに、間違いはない。間違えようもない。間違えたらそれこそ阿呆の馬鹿野郎である。

「……私は、あなたのことを……」

 だから僕は、もう知らない振りなんてしない。聞こえてない振りもしない。美夜の言葉は全て受け入れる。けれど、だけれども……。

「……巫女神大翔くんのことをーー」

「ーー待って!」

 僕は気付けば、そう必死の叫びで美夜の言葉を制しもとい遮っていた。遮断していた。邪魔していた。いや、違う。これは詭弁だ。誤魔化しだ。責任逃れだ。そうでしかない。

 結局のところ、僕は美夜の言葉が続けられるのを恐れ、怯え、堪えきれず、焦りのあまりに声を上げただけなのだ。知らない振りも、聞こえない振りもしない。けれどその代わりに、知ることも聞くことにさえも恐怖し、拒絶し、現実から目を背け、逃げたのだ。

 何が阿呆でも馬鹿でもないだ。何が鈍感系を演じる最低野郎だ。それ以上じゃないか。それとは比べ物にならないほどのクズじゃないか。覚悟も何も出来ず、誰の得にもならない言い訳ばかりを用意して自分を擁護し、美夜の気持ちを無下にも切り捨てたゴミ野郎なのだ、この僕は。

「……え。待ってって言うのは……どういう……?」

 目の前では、美夜が目を白黒させ声を震わせて戸惑いを見せている。それもそうだろう。自分で言う辺り本当にクズいが、何せ一世一代の告白を僕に邪魔されたのだから。あたふたしない方がおかしかろう。ホント、自分のクズさ加減にいい加減にも吐き気がする。

 とにもかくにも、僕は美夜を裏切り、正直たろうとした自分をも裏切ったのだ。表の美夜どころか、裏の美夜さえも無惨にも切ったのだ。これ以上、僕に言うことがあろうか。はたまた、僕に言う資格があろうか。あろうはずがない。美夜の口を止めたくせに自分だけのうのうと口を開ける訳がなかろう。

 けれど、ここで答えないのは僕の心が、奇しくも僕の心に残っていた善良な部分が、決して許さない。断固として許さないと叫んでいた。……違う。これも詭弁だ。言い訳でしかない。僕はただ自分がこれ以上傷付くのが嫌で、自分にこれ以上責任がのし掛かってくるのを受け入れられないだけなのだ。善良な部分なんかじゃなく、僕の、人間の一番醜い部分から突いて出た妄言なのだ。

「……ごめん、その……それは……」

 だから言葉は出てこない。苦し紛れに苦しいのを誤魔化し紛れさせようとした程度の言葉に、何が続こうか。元が醜悪な妄言であるならばそこに醜怪な妄言を重ねたところでそれは醜々怪悪な妄言でしかない。初めから続く言葉などなかったのだ。

 なにも言えない僕に、美夜とエムの視線が向けられる。

 奇異を見るような、奇怪を見るような、怪異を見るような視線。

 酷く冷たく、痛く寒く、酷く虚しく、痛く空しく、酷く痛く、それでいて痛く可哀想に思うような視線。

 例え本当はそうじゃなくても、本当は真剣に心配しての視線であったとしても、今の僕にはそう感じざるを得なかった。

 それだけ、僕の心は自分への絶望や失望、忌避や怨嗟、吐き気や寒気によってとことんまで弱り果てていたのだ。それだけ、美夜の覚悟に答えられなかった覚悟のない自分を追い詰めていたのだ。それだけ、覚悟を持ちきれなかった弱い自分を許せなかったのだ。

「……ごめん……。ちょっと一人にさせて欲しい……」

 終にはそんな力なく情けない言葉だけしか出せず、僕はおもむろに席を立った。

 ただ、これ以上情けない姿を見せたくない。クズ中のクズのような醜い自分を見られたくない。

 結局、僕を動かしたのはそんなちっぽけな自己防衛本能だった。いや、そんな格好の良いものではない。自分の体裁さえ守られれば良いという、手前勝手で身勝手で自分勝手な逃げの口実でしかなかったのだ。

 僕はおぼつかない足取りでトイレへと向かった。向かっているかさえ分からない。一人になれるところを探して、結果トイレに向かったのかもしれない。

 名残惜しむようにふと振り返れば、まだあのテーブルにいる美夜とエムの姿が見えた。

 美夜は呆然と僕が座っていた席だけを見つめ、エムはそんな美夜を心配しつつ僕の方にも懸念の視線を送ってきている。

 美夜には本当に悪いことをしてしまったという思いで一杯だ。僕は美夜の人生を、選択を、ぶち壊してしまったと言っても過言ではないのだ。今更悔いたところで後戻りは出来ないし、僕の最低最悪の行いをなかったことにも出来ない。

 だから余計に美夜を裏切ってしまった自分の心の弱さを許せずに、僕はまた気持ちの悪い吐き気に襲われるのだ。

 あと一歩。あと一歩。もうあと一歩と思う距離が縮まらない。

 気付けば視界が歪み、世界が歪み、意識が歪んでいく。

 足元がぐらつき、深い意識の底から目線が揺れに揺れ動く。

 不意に映った視界には、慌てた様子で席を立ち駆けつけてくるエムとその隣で遅ればせながら事態に気付き顔面蒼白になる美夜の姿がいた。

 あれだけのことをしたにも関わらず二人は僕を心配してくれている。見捨てないでくれている。そのことが嬉しいとともに、それ故に自分の愚かさを嫌でも再確認してしまう。

 次第に下半身の感覚がなくなっていき、背中には重たい衝撃が与えられる。

 視界もものすごいスピードで薄らいでいき、どんどんどんどん狭まっていく。

 遠退いていく意識の中、辛うじて開かれた瞼の間からは、泣きそうな顔を向けてくれる美夜が見えた。僕の右腕を必死に掴み、何か叫んでいる。それが何か分からない。それが今、少しばかりか悔しかった。

「……美夜……ホントに……ごめん……」

 声になるかならないか。声にしたかしていないか。それすらも分からない中で、僕は意識も朦朧とした中で、そう言ったのだろう。

 ただそんな形にもならない空虚な感覚を残して、僕は意識を失っていた。

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