第12話 揺らめく世界

 今僕はどこにいるのか。

 現実世界? 『裏側の世界』? 夢の中?

 もしや、ここは僕の潜在的無意識の中だとか、今の積み重ねの上に成り立つ今という時間上だとか、はたまた確かに在るある種の実存上だとか、そんな哲学的思想に立脚する場だろうか。いや、そんな訳はない。

 では、僕は一体どこにいるのだろうか。僕は一体、どこに存在するのだろうか。

 そんな難しく核心的ながらも普通の人間は考えないであろうような命題を目一杯頭一杯気を少しでも逸らそうと考えながら、僕は今、いる。

 ーーお風呂の中に。お湯の張られた、浴槽の中に。

 まあこれが温泉とかだったらまだ良かったんだけど、まだ安心して入られるんだけれど、これがまた、誰の家のお風呂かって……。

「大翔くんお湯加減どう? 替えの服、お父さんのだけどここに置いておくね」

「あ、ああ。ありがとう……」

 そう、ここは美夜の家。美夜の家のお風呂の中なのだ。しかもうちのお風呂と違ってほんのりと良い匂いがするものときた。これで緊張しない男児は果たしているだろうか、いやいない。これ反語。世界共通の真理。

 なんてドキドキどぎまぎしながら、美夜が洗面所から出ていくのを確認すると僕は大きく深く息を吐いた。

 そうして、エムの言葉を思い出す。図書館を出た後に聞いた、エムの考え。その意図。なぜ美夜の家に行くのか聞いた僕に、エムはこう答えたのだ。

『美夜お姉さんの願望を知るには、普段美夜お姉さんが何を思い何をしていて、何を願い望んでいるのかをすぐ近くで見るのが一番。なら、美夜お姉さんのお家にお邪魔するのが最適でしょ? それに私だけ行っても意味ないから。私は所詮お兄さんのお手伝い。助けることはあっても、私単独で行動する謂れはない。分かるよね。だから、お兄さんも一緒にって言ったの。まあそんなに赤くならないの。照れるのは分かるよ、だって男の子なんだもん。だけど、今はそんなことを言ってる余裕がないのも分かるはず。だからお兄ちゃん、ーーハッスルしちゃうのはダメだぞっ!』

「誰だお前ッ!?」

 湯船に浸かりながらついつい記憶の中にもツッコミを入れてしまう。

 これはあれですね。僕に芸人になれという神様の啓示でしょうか。いいえ、誰でも。

「どうしたのお兄さん?」

 すると洗面所からまた違った女の子の声が聞こえてくる。

 呆れ半分ドン引き半分。引くのがドンなだけ結論引く方が勝ってますね、圧倒的に。

「いや、なんでもない。ちょっと嫌な記憶を思い起こしただけだ」

「……もしかしてハッスルしちゃった?」

「するか馬鹿! ってかそれだそれ! それ誰のパクリ!? 普段のお前とは違いすぎない!?」

 ふむと考えるように間を開けた後からかうように言ってきたエムに、僕の口は自然と開く。そう、開いちゃうんだよ、反射的に。……決してハッスルしてる訳じゃないよ。

「別にパクリじゃないよ純国産だよ。でも会って1日も経ってないお兄さんから普段とか言われてもなー」

「まあ、それは確かに……」

 だからそんな誰に言うでもない言い訳を思い浮かべる間もなく、僕の口は自ずと閉じられる。その微妙な空気感を感じ取ってすれば。

 でもこうして考えてみれば、エムとは本当に出会って半日くらいな訳で、前までの自分の感覚からしても、そんな人と友人はおろか仲良くなれたことすら経験にはなかった。

 だから最初の方は段々と深まっていく仲に戸惑いを少しは感じたものだけれど、今となってはこの距離感に違和感はなく、むしろ快適感さえ感じているまである。

 それがエムの性格や特性故なのかもしくは僕の考え方の変化故なのかは分からない。けれど確かに僕とエムは、互いに家族にも近い感覚を、全くの他人と知りながら、淡くも抱いているのだと実感していた。

 ふと、浴室の扉にもたれ掛かっていた背中が軽く音を立てて離れる。

 何事も言わず、されど離れず。

 それを体現するかのようにエムがいたのだ。

「何回目になるか分からないけどさ、ありがとな。手伝ってくれて」

 水面を見つめながら、僕はそう呟く。聞こえているか分からないけれど、聞こえているだろうと確信して。

「うん。本当に何回目は分からないね。だけど、何回目でも、私は嬉しいよ。お兄さんが素直にそう言ってくれて」

 扉越しに聞こえる声はいつもより小さく響き、水面に落ちる水滴がさらに僕の気を散らせる。

 けれどエムの言葉は、エムの言わんとしていることは、例え聞こえなくとも聞こえていた。

「だからさ。次は私じゃなくてあの人に。あの人に、お兄さんの素直な気持ちを言う番だよ」

「そう、だな……」

 そう僕が答える前に、洗面所の扉が開けられる音がする。そしてこの言葉を残して、エムは洗面所から出ていった。

「ーーだから、期待してるぞっ、お兄ちゃんっ!」

「……フッ。だから誰なんだって、それ……」

 呆れた溜め息をついて、僕は浴槽を立つ。

 水飛沫が上がり、張られたお湯がどれだけか流れ落ちた。

 だけれどそんなことは関係ない。関係ないと言うと語弊があるけれど、まあ、良い。

 だって、やるっきゃないんだから、さ。

 そう気合いを入れて浴室を出る。

「……にしても、僕が一番風呂で良かったのか? まあ、良いのか……?」

 ただそんな疑問を、蜃気楼の如く揺らめく湯気の中に残して。

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