第11話 懐かしき日常

時刻は16時10分。

 4時限目終了の鐘の音が空間一杯に鳴り響く。

 外を見遣れば日が陰り初め、道端に写し出される影も段々と薄くなっていっている。

 それでも太陽が出ていることに変わりはなく、そのお陰か散り行く桜の花びらを舞い踊らせる風は幾分か暖かそうに見えた。

 ふと視線を戻せば目に入るのは本、本、本、それに極希に人。

 僕らは都立風吹大学図書館の一角で、美夜に付き合う形で本を読んでいる。……ん? 僕らが勝手に一緒してるだけか? まあ、どちらにせよ、ここ1時間くらいは適温行き届いた館内で適当に本を読み漁っていた訳だ。

「お兄さん今何読んでるの?」

 ひょいっとフードを覗かせてエムが顔を出した。その腕には2冊ほどの本が抱えられており、これから読むのだろうと容易に予想がついた。

「えーっとね、『スウェーデン絶対王政研究:財政・軍事・バルト帝国』だな」

 僕は読んでいたページに指を挟み、表紙を見せながら答える。

 するとエムは一瞬目を見開いたかと思うとなんとも不快そうな表情になる。

「うぇー、つまんなそうなの読んでるんだね」

「そう? 普通に面白いけど」

「それはお兄さんが読書するの好きだからだよ。あと歴史好きだからだよ。変態だからだよ」

「いや変態は関係ないからね!?」

 そうツッコミを入れると、僕はやれやれと溜め息をついた。

 まあ、確かに難しい本ではあるからね。だいぶ優しく初心者用には書いてるようだけど、歴史を特に好きではない人からしたらそりゃ面白くはないわな。僕も歴史好きじゃなかったら読んでなかったもん、絶対。

 でも歴史好きからしたら堪らないからなー、これ。17世紀のスウェーデン史を知るならこれ読んでおけば大丈夫ってくらい。グスタフ2世アドルフとかカール10世とか格好いいからなー。

 などと一人で堪能しながら、気持ち悪いものを見るような顔をしているエムに逆に聞いてみた。

「それでエムは何読もうとしてるの? その手に持ってるのでしょ?」

 言われエムも表紙を見せるようにして教えてくれる。

「えっとね、ドストエフスキーの『罪と罰』とヘミングウェイの『武器よさらば』だね」

「それまた難しそうな小説だな」

「そう? 読み慣れれば面白いけど」

「それはお前が小説読むのが好きだからだよ!」

 そうツッコミにも満たないツッコミを入れたところで、僕はふと目を瞬かせ首を捻る。

「……この会話今したばっかじゃない?」

「……言われてみれば」

 エムも同じように瞬きをして首肯する。

 不意に、僕とエムの間に微妙な空気が流れる。

 気まずくもなく、心地よくもない。これはもはや無空と呼べるレベルなのでは、と思えるほどのへらーっとした空気だ。

「ま、まあ、人それぞれ好みがあるってことだよ、な!」

「そ、そうだよね、お兄ちゃん!」

 最後にはお互い早くこの空気を終わらせたいと焦りに焦って口を開いた。そしてエムはそのままそそくさと自分の席に戻っていってしまう。

 うーん、やっぱり好みが違うと話が合わないということですね。そりゃ小説読むのが好きな人が文庫本読んでもつまらない訳だし逆もまた然りな訳だよ。ホント、好き嫌いって大事! 嫌いなものは嫌いと言おう!

「大翔くんさっきからうるさいよ。図書館なんだから静かにしなきゃ」

「えっ、ああ、ごめん」

 なんてこと思ってると一つ離れたテーブルからのご指摘を受けてしまう。

 もちろん、指摘主は我らが神薙美夜様。優雅にページを捲るお姿はまさしく絵画のそれであり、手元にはコーヒーカップさえ浮かぶ、この図書館のマドンナである。……ちなみにこのうちの8割は嘘と冗談と誇張である。

「うん。分かればよろしい!」

 ぷんすかと怒った顔からニッコリとした笑顔に戻り美夜はそう頷く。

 今更ながらに思うのだけれど、この人天然大間産であざとすぎない? どこかの養殖産とは大違いですね。さすがです。

「ところで美夜は何読んでるの?」

 ページを捲って文章に目を通しながら僕はそう尋ねる。

 特に他意はなく、あるとしたら願望のヒント来いという意図だけである。鯛と鯉だけにね。……他意がないとは。

「私? 私はね、『賊軍の英雄たち』って本だよ」

 例の如く表紙を見せながら答えてくる美夜に、僕は呆れの溜め息で返す。

「……また幕臣の話か。それもまた小栗忠順目当てで読んでるんでしょ」

「そう、当たり。さすが大翔くんだね」

「そりゃ美夜の好みぐらい分かるよ」

 それもしっかりとね。なんてったって美夜の好みは変わってるから。

 まあ幕末が好きというのは許そう。幕末と言ったら戦国時代と人気を二分する歴史好きなら必見の時代だからね。斯く言う僕も好きだよ、幕末。新撰組とか良いよね。あと会津藩とか。

 あと幕臣が好きなのもまだまあ許そう。勝海舟とか榎本武揚とかは重要人物だし後の時代でも活躍したからね。あと榎本武揚は五稜郭でも頑張ったしね、土方歳三と一緒に。

 でもさ、小栗忠順を選ぶ辺りは許せないでしょ。いや、別に小栗忠順を侮辱してる訳じゃないよ。幕府軍の近代化とか海軍工廠の建設とかアメリカ渡航とかは当時最先端のことですごいと思うしその最期は実に悲劇的だ。素直にこの人が国民に知られてないのは勿体ない大人物だと思うよ。

 けれど、そこじゃないでしょ。好きになるとこ、そこじゃないでしょ。渋いところ好きすぎるよもはや地味線だよ。それでこそ美夜と言いたいけれど美夜らし過ぎてむしろ疑うレベルだね。もしかしてもしかしなくてもキャラ作ってない?

 などとついつい熱くなってしまった頭を冷やそうと、僕はおもむろに深呼吸をする。

 あれだね。小栗忠順にも美夜にも失礼過ぎましたね。反省してます。小栗さんマジパネェっす。

「……じゃあさ、今どうしても読みたい本とかないの? 読みたいけど読めてない、みたいな本」

 またまたページを捲りながらそう聞いた。

 他意はある。完全に。もう完全に願望聞きに行ってるからね。隠す気とかゼロ。もはやページを捲っても文章を読んでるか分からないレベルである。でも行間は読んでるよ。

「そうね。あったよ」

「ホント!? なんて本!?」

 美夜の答えに僕は断然自ずとテンションが上がる。

 何せそれが美夜の願望かもしれないのだから。可能性は低いとは言えゼロではない。ならば試してみるに越したことはないのだ。

 僕は両手を強く握って待つ。ふと口内が渇き、ゴクリと息を呑んだ。

 美夜がゆっくりと口を開く。

「え? これだけど」

「……はい?」

 間抜けた返事が出てしまう。

 それに美夜は不思議そうに首を傾げ、手元の本を持ち上げる。

「いやだから、この本だよ、読みたかったの。ネットで見つけたときからずっと読みたかったから、今日まさか見つけられるとは思わなかったよ」

 そう、美夜が読みたかった本とは例の小栗忠順が書かれた本。つまりすでに読んでいる訳だ。というか、よく見たらもう読み終わってる訳だ。

「……他にはないの?」

「うーん。特にはないかな。図書館の本はだいたい読んじゃったし、欲しいのはとっくに買ってあるから。だからこの本が残りの1冊だったんだ」

 目を輝かせて言う美夜。声音もどこか楽しそうである。それだけ読めて嬉しかったのだと伝わってくるものだ。

 そして、ということは今も目の前の美夜に確固たる意識もしくは自我があるということは現実世界の美夜の意識が戻っていないということであり、つまりはこのことが美夜の望みではなかったということを示している訳である。

 ……まあ期待はしてなかったけど、第一作戦失敗ということですかね、ハイ。

「……そうか。それは良かったな」

「うん、良かったよ!」

 溜め息混じりに言う僕に美夜は笑顔で返してくれる。

 自分で言うのもなんだけど、気持ちが込もってない言葉に感謝をされると罪悪感がとてつもないね。もはなとても拙いまであるね。

 そう申し訳なさで一杯になりながら離れたところに座っているエムに視線を送る。

 そうしているとすぐに気が付いて、どうだった? と聞いてくる。もちろん口に出している訳ではない。ギリギリ見える口の動きや傾けられる首の動きから推察出来たのだ。

 僕はこちらも口の動きでダメだったと伝え、加えて両手で小さくバツマークを作った。まあ、これで伝わらなかったらエムを疑うよね、100パー。

 見遣ればエムはがっくりと項垂れると明らかに溜め息をついている。つまりは伝わったということだ。

 そしてパタンと本を閉じると、エムはこちらに歩いてくる。

「……残念だけど、初手だったし仕方ないよね」

「だな。まあ、一つ候補を潰せたと考えればまだ良い方だよ。次ので分かればそれで良い」

 エムは頷きで返すと、僕の横を通り抜けて一つ離れたテーブルに向かった。

「ねえ美夜お姉さん。これからどうするの?」

 何をするのだろうと見ていると、どうやら今後の予定を聞いているようだ。小さいながらも確かに声は聞こえてくる。

 『賊軍の英雄たち』とはまた違うーーと言っても同系列なのだけれどーー読みかけの本に栞を挟むと、美夜は小首を捻る。

「これから? そうねぇ。特に用事はなくて後は家に帰ってごはん食べてお風呂に入って寝るくらいかな。それがどうかしたの?」

 するとエムは一度こちらを顔を向けてコクンと頷くと、すぐさま美夜に向き直って可愛らしく身体を捩ってみせた。

「私も着いていって良いですか?」

「え……」

「えッ!?」

 エムの思わぬ提案につい驚きの声を漏らしてしまい、僕は慌てて口を塞いだ。

 まさか提案された美夜当人よりも大きな声が出てしまうとは、自分でも気恥ずかしい限りである。

「管理人さんが家に来るってこと?」

 戸惑う仕草を見せつつもそう聞き返す美夜。

 エムは元気良く返事をすると、一転自信無さげに俯いてみせる。

「そうです! 是非一回お邪魔させていただきたいな、と。……その、ダメでしょうか……?」

 そのしおらしい様は実に儚げで、端から見てる僕でさえついオーケーと言いたくなってしまう。

 ……って言うかエム演技上手いな!?

 それで美夜はどんな反応をするのかと見ると、一瞬の迷いもなく嬉しそうな笑顔になり首を横に振った。

「ダメじゃないよ! むしろ大歓迎だよ! 管理人さんが家に来てくれるなんて夢にも思わなかったから!」

「ホントですか!? ありがとうございます!」

 その顔を見てエムも笑顔を浮かべる。例えそれが演技なのだとしても、本当に嬉しそうな表情である。ってか演技じゃないでしょ、さすがに。

 僕はそんな光景を見ながら眼福の気持ちになる。いやはややはり綺麗な女の子同士が笑顔を向け合ってるのは絵になりますなー。エムの素顔は未だに分からないけど。

「それでですねぇ」

 などと何度も頷いていると、エムがそう切り出したのが耳に入った。

 まだ何か注文するのかと意識を向け、その口の動きに目を注ぐ。

「お兄さんも一緒にお邪魔したいって言ってたんですけど大丈夫ですか?」

「……は? ハアッ!?」

「ちょっと大翔くんうるさいよ。何回言ったら良いの!?」

「はい、すみません」

 再び思わず大声を上げ席をガタンッと勢い良く立ち上がると、今度はまた美夜のお叱りを受けてしまう。

 2回目はさすがに2回目だからすぐさま誤り席にすぐお尻を戻す。

 正直1回目より怖かったです、今回の方が、彼女。……でも何回も何も2回しかなんだよなぁ。

 僕はアハハッと苦笑いを浮かべて誤魔化しながら、隙を見てキッとエムを睨み付ける。

 するとまぁまぁというジェスチャーと共に、ちょっと待っててと口が動かされたように見えた。

 お前のせいで怒られたじゃないか! とガキみたく怒鳴りたくなったが、何かあるだろうとの思いで今は不問にすることにした。

 まあ、エムのことは信用も信頼もしてるからな。きっと後で事情説明してくれるだろうし。

 僕は浅く溜め息をつくと、了解と手を上げて合図した。

 それにエムがありがとうと口パクしたのを確認すると、僕は美夜に目を向ける。

 ふぅと軽く吐息をついている様子からして僕に呆れているらしい。なんか申し訳ないです、はい。

「それで、大翔くんが私の家に来たいって言ってたってホントなの?」

「はい、本当です。ねぇ、お兄さん?」

 そう振られて瞬間戸惑いつつも、僕は努めてそれとなく答える。

「ま、まあ。確かに言ったかな……」

 言いながら、そっと美夜の表情を見る。

「そう……」

 そう呟く美夜の頬は徐々に色付いていき、口角は優しく上げられる。

 ……微笑んでるのか……?

「良いよ、別に。大翔くん一人増えたところで変わらないから。それにーー実を言うと大翔くんにも来て欲しかったからさ」

「美夜……」

「美夜お姉さん……」

 いや僕は良いとしてなんでお前までそんな感動したみたいな顔してるのエム!?

「じゃあ二人が家に来るなら今日のお夕飯は豪華にしなくちゃね。これから帰って買い物して、準備しちゃおうか?」

「はい、そうですね美夜お姉さん!」

 エムの快い返事を受け、美夜はニコッと微笑んで席を立った。次いで荷物をまとめると、僕のところまでやって来る。

「ほら、大翔くん何してるの。大翔くんも来るんでしょ、家。なら一緒に行くよ」

「あ、ああ……。分かったよ……」

 そう言って僕も渋々と席を立つ。

 昔からこうだ。美夜は決断が早く、そして決断から行動までも早い。一度そうと決めたらすぐに実行する。良く言えば即断即決で行動力に優れているのだが、悪く言えば直情的で後先考えない。とにもかくにも、行動しなきゃ分からないという質なのだ。だから、こうなった美夜には何を言っても無駄なのだ。例えそれが、あの日の如く、望まぬ結果を迎えるものだとしても……。

「どうしたの大翔くん? 早く行くよ」

「……ああ。分かってるよ」

 不意に思い出したあの日の光景に胸が痛む。口の中は苦く不味く、喉まで嫌な臭いで一杯だ。

 結局のところ、あの日の美夜はいつも通りの美夜で、あの日の僕もいつも通りの僕だった。いや、一つ違うと言うなら、僕だけが覚悟を持っていなかった。僕だけが、つまらぬ停滞を望んでいたのだ。このままで良い。何も起こらぬ今のままで良いのだ、と。

 だから今でもこうも後味悪く、なまじしつこい後悔だけが残っているのだ。

「本当にどうかしたの、お兄ちゃん? さっきから溜め息ばっかだよ、辛気臭い」

 横からひょいっと顔を出してエムが気遣ってくれる。

 辛気臭いという言葉は少し違う気もするが、それもエムなりの心配りなのだろう。今はそんな言葉もありがたかった。

「ごめん、ちょっと思い出しちゃってさ……」

「美夜お姉さんのこと?」

「そう……」

「そう、なんだ……」

 僕の返事にエムは口ごもる。

 案の定表情は見えないけれど暗い顔をしてくれているのだろうか。

 そう思って声をかけようとすると、しかしてエムはガバッとこちらを向き破顔してみせた。まるで僕のことを励ますかのように。

「ーー元気出してよお兄ちゃん! お兄ちゃんがしんみりしてると、私までしんみりしちゃうでしょ! ほら、しゃんとして!」

 その笑顔を見て、僕も自然と笑みが込み上げてくる。

「……ハハッ。ーーそうだな。そうだよね」

 うんっと力強く頷き返してくれるエムにもう大丈夫とグーサインを送り、僕は前を向く。

 そこには美夜の後ろ姿があり、今もいつもと同じように歩き同じように呼吸をしている。きっとこの世界ではそうなのだろう。この世界では今日も美夜はいつも通りの毎日を送っているのだ。

 けれど、それと引き換えに失われてしまったもの。現実世界の美夜の意識。日常。いつも通りの毎日。それを取り戻すために、それを取り戻してあの日の過ちを償うために、僕はいる。そのことに変わりはない。例えそれが、この世界の美夜から自我を奪うことになるのだとしても。僕の目的は、ずっと変わらない。

 ふと美夜がこちらを振り向いて、早くと呼び掛けてくる。そこに浮かぶのはあのときと同じようで違う、あの笑顔。

 気付けば日も落ち外も暗がりになりつつある。それは今日という日が終わることを意味し、また今日という日が何事もなく過ぎ去っていくことを意味していた。

 今日の僕の行動は無駄だったのか? 意味がなかったのか? 否。そんなことはない。無為のように見えて確かな収穫はあった。そして、残りの7時間ほどにも収穫はあるだろう。決して無駄な1日ではないと断言できる。

 まだ夜もあるというのになんでこんなに意気込んでるのか自分でも分からないけれど、今このとき、確かに僕は勢い良く意気込んでいた。イキって、意気がって、粋がって、息巻いていた。

 僕なら出来る。僕だって出来る。僕にしか出来ない。そう言い聞かせることで怯えを押し止めていたのかもしれない。

 だって、今という時間、今日という日も、美夜はまだ光の届かぬ意識の底なのだから。

 そうしてやるぞっ! と頬を軽く叩いた自分の手が震えていることに気付くと、僕は小さく吐息をついて、情けなくと情けない微笑を溢した。

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