第10話 踏み出された第一歩

「はいお水」

「……ありがとう」

 美夜から笑顔で差し出されたペットボトル天然水を、僕は申し訳なさそうに受け取る。

 そして一口ぐいっと口に含むと、喉の渇きと一緒に苦いなにかが流れ去っていく感じがした。

「……ごめん美夜。余計な気、遣わせちゃって」

「なに言ってるのよ。私と大翔くんの仲でしょ。私がしたくてしてるんだから、大翔くんは謝らなくて良いの」

 言って、ねっ! と柔らかく微笑んでいる見せる美夜。

 僕は嬉しさと共に一種の懐かしかを感じ、胸がジーンとなる。

「お兄ちゃん甘々のイチャイチャだね」

「……みたいだな」

 横から小声で話しかけてくるエムにうんうんと頷きながら返すと、その様子を見ていた美夜がエムに気付いた。

「あれ、管理人さんじゃない。すごく久しぶりね」

「お久しぶりです美夜お姉さん」

 微笑みを送る美夜に、エムもまた笑顔と共に返事をする。言葉の通り、久しぶりの再会といった雰囲気だ。

「……なに、二人とも知り合いだったの?」

 そんな様子を見ていた僕は、美夜とエム、二人の顔を交互に見て首を傾げる。

 すると美夜がキョトンとした顔で然もありなんと答える。

「知り合いもなにも、管理人さんはこの界隈じゃ有名な人だから知ってるのが当たり前でしょ」

「……そうだったの?」

「……ッ! ……そうだったみたいだね」

 目を細め訝しんで横を向くと、エムがビクッと肩を震わせて顔を背けながらそう答えた。

 ……あ、これ知ってて言わなかったやつだ。絶対そうだ。そうに違いない!

「……助力をもらってる身でこういうこと言いたくはないけどさ、お前そういうことは先に言っておけよな!」

「だってお兄さんから聞いてこなかったじゃない! だったら自分から言う訳ないでしょ」

「ま、まあそうか。……ってなる訳ないだろ!? 聞いてこなくても教えてくれたって良かったじゃないか! そうすればもう少し早くは見つけられたのに!」

「そんなことない! 私が言っててもそんな早くは見つけられなかった!」

「言ってみなきゃ分かんなかっただろ!」

「何よ!」

「なんだよ!」

「ちょ、ちょっとなに喧嘩してるの。二人とも止めなよ!」

 そうやって美夜が間に入ってきて、僕は言うのを止めて前を向く。一息つくと、幾分か冷静になった。あと急に恥ずかしくなった。

 僕はエムを横目にし、努めて穏やかに口を開く。

「まあ良いよ。今さらグチグチ言ったってしょうがない。……言い始めたのは自分なんだけど。そ、それでももう過ぎたことだから、もう良いよ」

 と、エムも美夜に言われて反省したのか申し訳ないような顔でしずしずとこちらを向いた。

「……私もごめんなさい。どうでも良いことでついカッとなっちゃって」

 その顔からは本当に謝っているのが窺え、僕はこっちこそと手礼で返す。……まあ、どうでも良いことじゃあないんですけどね。

「うんうん。まるで兄妹みたいだね」

 そう満足そうに微笑む美夜に、僕はそうか? と首を捻る。

「ホントだよ。大翔くんと管理人さん、見るからに仲良さそうだもん」

 今度はエムに向かって、そうか? と首を捻る。するとエムが咄嗟に顔を赤くして逸らした。

 ちょっと違うみたいですよ美夜さん。エムは嫌みたいですよ。それで兄妹はさすがに冗談でもエムが可哀想ですよ。まあ僕は良いんだけど。

 なんて複雑な気持ちを抱きながら、僕は美夜に一つ聞くことにした。

「まあ、僕とエムが兄妹みたいかどうかは置いておくとして、ずっと気になってたんだけど何でエムのことを管理人って呼んでるの? アパートの管理人かなにかだったのか?」

 その、初めから気になっていた単語について。

 まあ管理人と言えば今言ったみたいに大家さん的な立ち位置の人を想像する訳だが、エムはそうなのだろうか。少なくとも僕の前ではそんな素振りや言動は見せなかったことから、少しばかり違う気もするのだけれど。

「そんな訳ないでしょ、管理人さんはまだ高校生なんだから。アパート経営なんて出来ないよ」

「じゃあなんでーー」

「ーーそれは私から説明するよ」

 途端エムが横から割り込んできた。まあエムの話をしてる訳だからエムは全くの部外者という訳でもないんだけどね。

 ともかく、自らそう乗り出してきたエムに、僕は興味と共に視線を向ける。

 エムはひょいひょいっと招くように手を動かすと、顔を寄せた後にひそひそ話をするようにして口を耳元に近付けた。

「まず言っておきたいのは、私は自分で自分のことを管理人って言ったことはないということ。それと、私は結局私のことを知らないということ。だから、私からしても美夜お姉さんや他の人が私を管理人と呼ぶ理由は分からないの。けど、私が思うに私ってこの世界の管理人なんじゃないかって思うの。そうするとほら、私のこの世界の知識にも納得が行くでしょ?」

「まあ確かに」

「だからそういうことにしておこう。このことは美夜お姉さんには内緒ね」

「分かった」

 言い終わって、僕とエムは美夜に向き直る。

 すると美夜が笑顔で頷いていた。

「ね、分かったでしょ。管理人さんは管理人さんなの。どれだけ私がお世話になってきたか」

「そうなの?」

「うんまあ、それは」

 またぞろ首を傾げると、エムは今度ばかりは素直に首を縦に振る。

「でも不思議ね」

「「……?」」

「今思ったんだけど、どうして大翔くんと管理人さんが一緒にいるの? 二人ともそんなに仲が良かったかしら?」

「今更!?」

 何を言い出すかと思えばキョトンと首を傾けてそう不思議そうな顔をする美夜に、僕は思わずツッコミを入れてしまう。

「その、あんまりに違和感がなかったから気付かなくって」

 まあ確かに違和感はなかったかもしれない。なんてってたって当の僕も違和感を感じてないんだから。うん、そうだよな。最初からすんなりと仲良くなれたんだよなー、エムとは。……確かに何でだろう?

 言われてみればとそんなことを思いながら、僕は特に躊躇も躊躇いも躊躇うこともなく答える。

「まああれだ。エムにはお前を探すのを手伝ってもらってたんだよ」

 けれど返ってきたのは思いもよらない初歩的でそもそも論過ぎる言葉だった。

「……? どうして私を探してたの? 何か借りたままだったっけ?」

「……え? ど、どうしてもなにも、美夜の意識がずっと戻らないままだから美夜に会いたいと思って……」

「意識が戻らないってどういうこと? 私昨日も今日もピンピンしてるよ。もはや絶好調って感じ」

 ハ? と顔をしかめる僕に、美夜はただただ純粋な瞳で少しも変に思うことなく首を傾げるだけだ。

「いやだからそれがーー」

「それが?」

「……ッ!」

 そこから僕はすぐさま理解した。理解せざるを得なかった。理解しなければいけなかった。

 美夜は美夜に何が起きているのかを知らないんだ。いや違う。知る由もないんだということを。

 すぐにエムに顔を向ける。

 するとエムは全てを察し、そうだとばかりに静かに頷いた。そしてそっと近くに寄ってくると、僕を見上げて口を開く。

「美夜お姉さんだけじゃない。この世界の人間も現実世界の人間も、記憶は引き継げてもリアルタイムで共有してる訳じゃない。美夜お姉さんが現実世界の自分の状態を知らなくてもしょうがないの」

「そんな……。じゃあ、教えなきゃーー」

「教えても無駄かもしれなくても?」

「……ッ!」

 焦る僕にエムは厳しい顔でそう言う。僕はその言葉に固まってしまう。

「冷静になってお兄ちゃん。いずれ教えなきゃいけないときは来るよ。だけど、きっと今じゃない。今は自然に振る舞いながら、少しずつやっていこう」

 諭すような言い方には、エムなりの優しさや気遣いが感じられた。

「……そう、だな」

 僕は力なくそう答える。

 それが最善なのだと思う自分がいて、それが最善なのだと思わなきゃいけない自分もいたのだ。

「どうしたの、二人でこそこそ話して? 何かあったの?」

 気付けば、一人残された美夜が相も変わらずキョトンとした顔で首を傾げている。

 状況を知る由もなく、また状況を知らないということも知らない。一見すると虚しいだけのようにも思えるが、逆にそれが美夜らしくて微笑ましく、僕とエムは顔を見合わせて微かに微笑む。

「いや、なんでもない」

「そう? なら良いんだけど」

 そう言って安心したように吐息をつく美夜を横目に、僕はエムに小声で話しかける。

「少しずつなのは良いとして、具体的には何をしてけば良いんだ?」

「前も説明したみたいに、この世界は願望を果たさせるためにあるでしょ。だから美夜お姉さんが何を望んでるのかを知って、それを叶えてあげることだね」

「じゃあまずは願望を知ることだな」

「そういうこと」

 終わると直ちに姿勢を直して、注意を引くために咳払いをする。あと気分を切り換えるためにもね。

「美夜、今からどこかに行くとこじゃなかったのか?」

 そう言うと隣からなるほどと声が聞こえてこり、僕はそれにグッと親指を上げる。

「あ、そうだった。図書館に行くとこだったの。忘れてたわ」

「何か用事があるんですか?」

 思い出したとばかりに手を叩く美夜に、エムが横から問いかける。

 すると美夜はふるふると首を振り、嬉しそうに微笑んだ。

「ただただ読みたい本があるの。私、読書するのが好きだからさ」

 その答えに、僕とエムは顔を合わせてヨシッとガッツポーズを作る。

 ヒントもなにもない今、美夜の願望を知るには美夜が何をしたいか何をして欲しいかを知ることが一番。故に美夜に着いていって行動を観察するのがこれまた一番という訳だ。ホント、ナイス僕! ナイスエム!

「僕も一緒に行って良いか?」

「私もご一緒します!」

「ええ、良いわよ。皆で行こうか」

 こうして美夜取り戻し作戦の第一段階が始まった訳である。

 美夜の意識を無事取り戻させるため、頑張れ僕。頑張れエム。そして頑張れ美夜。

 そう祈って、僕らは大切な一歩を踏み出した。

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