第8話 この世界を知る

「それで、まず何から知りたい? お兄さん」

 路側帯に沿って歩きながら、前を歩くエムが顔だけ振り返ってそう聞いてくる。

 なぜ外にいるのかというと、あの一笑いの後に早速色々と聞こうとしたらエムがどうせこの世界について知るのなら実際に見ながらの方が良いと言い出したからだ。

 別に見なくてもとは思ったものの、この世界を知っているのはエムだって僕は全く以て知らない部外者な訳だ。ならば、謂わば現地人であるエムの言葉に従うに越したことはなかろう。

 という訳で、エムの家から出てぶらぶら散歩がてらに教えてもらうことになったのだ。散歩かどうかは知らないけど。

「そうだなー。んーじゃあさ、この世界って夢の世界なのか? それとも夢とは違う異世界とかなのか?」

 ちょっとばかし考えて、僕はまずこのことを聞いてみることにした。

 なにせ夢か夢じゃないかじゃあ大きな違いだからね。それに、それが分かれば僕の存在としての立ち位置もある程度は予想出来るかもしれないし。

「んー、どちらでもないし、どちらでもあるって感じかな」

 しかし返ってきたのは本当にどちらでもない答えで、僕はそれこそ足をくじかれたみたいに芸人みたくコケッとしてしまう。

「ど、どういうこと?」

「えーとね、簡単に言うと、この世界は夢の世界でもあるし、夢の世界じゃない世界でもあるんだよ。こう言えば何か気付くことがあるんじゃない、お兄ちゃん」

 そう言われて、僕は何かあったかなと考える。

 きっとヒントは夢の世界だけど夢の世界じゃないってところなんだろうが、そう言われて気付くことなんて……

「……ッ!」

 あった。あるではないか。そうと気付けることが。

 夢の世界だけど夢の世界じゃないという表現。僕はこの表現に近い現象を、人物を、この目で確と見ていたのだ。

「美夜、か……」

「お兄さんがそう言うんなら、そうなんじゃない」

 蠱惑的に微笑んでいる、ように聞こえる声音で囁くエムを横目に、僕はすぐさま考える。

 そう、4日前のあの夢で見かけた美夜も、今日今さっき見かけた美夜も、どちらも同一の美夜にせよ、どちらも美夜だけれど美夜ではない美夜だった。自分の言葉を借りるならば、完全完璧完封的に美夜だけれど明らかにこの前までの美夜じゃなかった訳だ。

 そしてそれは、エムが言ったこの世界の形と酷いくらいに酷似しているのだ。いや、酷似というレベルでなく、まんまその通りであったのだ。

「……もっと詳しく教えてくれないか、エム……」

「……うん、分かった」

 僕の顔を覗き込んだエムは、僕の真意を察したような表情で頷くと、静かに説明を始めた。

「この世界は一般的に『裏側の世界』と呼ばれる世界で、文字通りお兄さんのいた現実世界の裏返しとして存在する世界なの。『世界の裏側』じゃなくて、『裏側の世界』ね。ここ重要だよ。それで、だから自然の景色や建物は現実世界と丸っきり一緒で、この世界に生きる人間も基本的には現実の世界に則している。ここまでは大丈夫?」

 一般的にの一般が誰を指すかが分からなかったが、聞いても話の腰骨を折ることになるのは容易に想像がついたため、僕は大丈夫と一つ頷きで返す。

「でも、一見現実世界の鏡写しのように見えて、実は『裏側の世界』特有の性質もある。それが、例えば文字の表記であったり、一部の人間だったりする訳。お兄ちゃんも知ってる通り、この世界の文字表記は平仮名と片仮名混じりになっているでしょ。あれはこの世界が現実世界に抗った数少ない証。だからこの『裏側の世界』が現実世界の鏡写しとは一概には言えないの」

 僕はなるほどと頷く。だから違和感丸出しだった訳ね、あの表記。

「ならば、この世界の本質は何なのか。何でこの『裏側の世界』は存在するのか。それは一重に、現実世界では果たされ得ない願いや欲望、望みなんかを代わりに果たさせるため、なの」

「願いや望みを、果たす……?」

「そう」

 そう言ってエムはくるりと右へターンする。

 見遣ればエムの家があった小路を抜け、保健所なんかが建ち並ぶ風吹市の中枢通りに入っていた。

 エムは縁石の上をバランス取って歩きながら、話を続ける。

「例えばお兄さんの望みがスーパーマンになることだとしよう。まあそんな子ども染みた望みなんて持ってないと思うけど、例えばだからね、例えば。そうすると、お兄さんは現実世界でスーパーマンになろうと本気で頑張る訳だよ。筋トレしたり、筋トレしたり、筋トレしたりして。だけど、その望みが叶うことはない。果たさせることはない。だって、現実的にスーパーマンになんてなれないから。いくら頑張ってもお兄ちゃんはスーパーマンになれない。じゃあその望みはどうなるか。もちろん、捨てられるよね。叶わないんだから。だけど、捨てたとしても心には残る訳だ。心残りにはなる訳だ。スーパーマンになりたかった。そんな気持ちを抱えたまま、日々を生きていくんだ。さぞ辛かろうねぇ、お兄ちゃん」

「……例えばだろ、例えば」

「そうそう」

 突っ込みどころ満載だが突っ込む訳にもいかない僕は、今や実に渋い顔をしてることだろう。

 ……早く突っ込みたいッ!

「じゃあその抱え込んだ気持ちをどうするのか。それ以上抱え込んだままだと精神に支障をきたしかねない。そんなときに、この『裏側の世界』が望みを果たす役目を担うんだよ。現実世界の人間と『裏側の世界』の人間とは、性格や趣向、考え方などを共有している場合が多い。そしてこの『裏側の世界』では、往々にして現実世界とは違った物理法則が作用することがある。さっきも言ったでしょ、ただの鏡写しじゃないって。だから、現実世界では叶えられなかった望みが叶えられるんだよ、この世界では」

 そう言ってエムは右手を向く。目で追うと、その先には鉄骨入り乱れクレーン車跋扈する工事現場が。

 そう言えば現実世界でもここで工事されてたなー。風吹市新合同庁舎建設中とかなんとか書いてあったっけ。もう結構やってるけど、後何年ぐらい続くんだろうなー、工事。

 なんて僕が現実世界を思い出していると、エムは工事現場の真ん中付近で纏めて置かれている鉄骨を指差す。

「現実世界では無理でも、この世界では本人がやろうと思えばあの鉄骨だって持ち上げて振り回すことが出来る。あの鉄骨で、例えば好きな人に言い寄って連れ去ろうとしてる悪漢を打ち倒すことだって出来るんだよ。とすれば、それはもう立派なスーパーマンだよね。正真正銘スーパーマンになれた訳だよ。つまり、この世界は現実世界で果たされずに塞ぎ込んでしまった願望を叶えるためにあって、そのように役目を果たしているの。言い換えるなら、この世界は現実世界で蓄えられた負債を返済するために存在するって感じかな。結局のところ、『裏側の世界』は現実世界の服属的な世界でしかないの。だからほら、この世界の人間ってどこか単調的で機械的でしょ。現実世界の人間が主導権を握っているから、服属世界の人間は服属的に生きるしかないのよ。ホント、何だかなーだよね」

 そう言うエムの雰囲気はなんとももの悲しそうで、僕もその雰囲気に呑まれて下を俯きかけそうになる。

 でもエムは同情なんて求めていないだろうとも思い、顔を下げることはなかった。

 それに、僕にはこの世界の事情に介入してあげられるほどの時間的余裕などないことも思い出す。

 美夜と再会して思いの丈を話すこと。それが目的なのだから、他のことに構っている暇などない。例えそれが、エムにまつわることだとしても。

 僕は段々と苦くなっていった唾をぐっと飲み込んで、さらに疑問をぶつける。

「……この世界がどんな世界かってのはだいたい分かったよ。でも、最初に言ってた夢の世界だけど夢の世界じゃないってのとどんな関係があるの? そもそも、そうなってくると夢の世界って一体何なの?」

 するとエムはそっと溜め息をつき、恨めしそうな視線を向けてくる。

「ーーハァ。……お兄さん、そんなに捲し立てないでよ。ちょっとは休憩させて欲しいんだけどなー、そこそこは話したんだしさ」

「うッ……。そ、それはまあ確かに……」

「……フッ。まあ良いんだけどね。私の役目はお兄さんを助けること。それが例え火の中水の中夢の中だとしても、お兄ちゃんに力を貸すって決めたからね。……全く、しょうがないなぁお兄さんは。しょうがないので、まだまだ質問には答えるよ。答えてあげるよ。お兄ちゃんのためだからね」

 そう言ってエムは、後ろ手組んでニコッと微笑んで見せる。

「……ありがとう。悪いな、何回も何回も聞いーー」

「でもその前にー」

「……?」

 突然ふいっと前を向き直すエム。そして顔だけこちらに見えるように振り返ると、テヘッと舌を出してこう言った。

「どこかお店にでも入ろう。やっぱりその、疲れちゃったみたいだからさ」

「……まあ、それもそうだね」

 言いながら、僕は自分の太腿を擦る。

 僕の場合、特に疲れている訳ではない。なにせ歩きながらとは言えたかだか1キロメートルそこらだから。エムの家で少しばかりか休ませてもらったことも功を奏しているだろう。

 けれど、エムは違う。きっと家でもずっと僕に気を遣い続けていたのだろうし、さっきからも一方的に喋らせてばかりだから。僕には分からないけれど、確かに疲れは溜まっているのかも知れない訳だ。

 ならば、エムの言い分を聞いてあげるのが助力を請った者として、何より年長の者として正しい選択だろう。

 僕は周囲に手頃なカフェでもないかと首を回す。すると右斜め前方に『FRONT:HANG』の看板が見える。現実世界でもよくお世話になった、僕の行きつけ店である。……まあ、僕の行きつけは南口の方なんだけど。それに英語表記はそのままなんだね……。

「あそこでも良い?」

「うん。私は正直休憩できるならどこでも良いから」

 指差しで確認すると、エムからはそう返事が来る。なら、決まりで良いだろう。

「じゃあ、行こっか」

 そう言って僕らは一時の休憩タイムに入る訳だ。もちろん美夜を探すのに無駄にして良い時間はないが、少なからずこの休憩は無駄ではない。そう、無駄ではないんだよッ!

 唐突に流れ出す街頭のメロディーに心和らげられながら、エムに先行して僕はお店の扉を開くのだった。




「無駄なお金を使ってしまった……」

 残り僅か、正確には残り千円を切ってしまった財布の中身を見て、僕はがっくりと肩を落とす。

 元は二千円、いや、二千五百円はあったはずだ。それがなぜ、こんなにも減ってしまったのか……。

「美味しい! このホットドッグ、すっごく美味しいね、お兄ちゃん!」

「……。……お気に召してくれたなら何よりです」

 そう、まさかエムのために千三百円近く払うことになるとはね! 思っても見なかったよ、全く!

 なんて気落ちしながらアイスミルクティーに口をつける僕を横目に、エムは遠慮もなさそうにホットドッグを頬張っていく。

 エムが頼んだのは宇治抹茶ラテと今右手に持ってかぶりついているホットドッグ。……だけならまだ良かったのだが、許容範囲だったのだが、テーブルにはあと一品、スモークベーコンBLTの姿がある。あるでないか。いっそないと言ってくれ!

 そうして合計額は千三百九十七円。もはや千三百円越え。僕の一食分の食費を悠に越えてますです、はい。

「どうしたのお兄さん? 浮かない顔して」

「……誰のせいだと」

「ふぇ? 何ふぁ言っふぁ?」

「……いや、気にしないで。……ってか口一杯にして喋らないの」

 早くもホットドッグを食べ終わりBLTをもモシャモシャと口にするエム。

 頬を満帆ににして首を傾げる様は実に愛らしいが、うん、……やっぱり食べ過ぎじゃあないですか?

「まあ、良いや。それよりも話の続き、教えてくれないか」

 半分ほど飲み終わったアイスミルクティーをテーブルに置き、場を仕切り直すように話を切り出す。

 対してエムもBLTの最後の一片を口に放り込むと、宇治抹茶ラテを一口二口と飲んで一息つく。

「うん、この世界と夢との関係だよね。分かってる分かってる」

 そしてケチャップの着いた口元を軽く拭うと、スッと目を細める仕草を見せ満を持して口を開いた。

「……お兄さんはさ、夢って何って聞かれたら答えられる?」

「答えられるも何も、夢ってのは人間が寝ているときに見るものでしょ? レム睡眠とかノンレム睡眠とか詳しくは分からないけど、眠りが浅いときにこれまでに見聞きしたり体験したりしたことの記憶を元にして見るとか何とかって」

「へー、現実世界ではそういう認識が持たれてるんだ。まあ、お兄さんがそう言うなら間違いないよね」

「……?」

 面白そうに相槌を打つエムに、何か変なこと言ったかなと僕は首を傾げる。

 するとエムはフフッと微笑んだかと思うと、

「でもね」

 と前置きをして半身を乗り出した。

「その認識自体が間違ってるの」

「え……」

「現実の世界でどんな研究が行われてどんな結果が出てるか知らないけど、夢っていうのはそんなに単純なものじゃない。それにそもそも、夢自体が独立した作用みたいに存在している訳じゃないの。なぜなら、夢っていうのは『裏側の世界』のあり方の極一例としてあるだけだから」

 そこまで言って、エムは一度宇治抹茶ラテをズズッと口に含む。抹茶の泡が口の周りに着き、緑色の髭が出来上がった。

「現実世界の人間と『裏側の世界』の人間とが多くの場合人格や思考を共有してるってのはさっきも言った通りだけど、記憶も例外じゃないの。現実世界の人間の記憶がこの世界の人間にも備わっているように、この世界での記憶も100%じゃないにせよ現実世界の方に引き継がれる。これがどういうことか、お兄さんなら分かるでしょ?」

「……。……ッ! ……つまりスーパーマンになれたって記憶を、朧気ながらにも脳が認識する訳か」

「そう。現実世界での物理法則では到底出来ないことをしたっていう記憶を持つ訳だから、誰も本当に自分がやったなんて思わない。それに加えて大抵の人間は半日にも満たない時間で望みを果たしてしまうから、現実世界の人間は『裏側の世界』で得た記憶を寝ている間に見た一種の幻だと思い込んでしまうの。それが、夢の正体。……本当はこの世界で実際に実現したのにそれを幻覚だと思い込んでしまうだなんて、きっと現実世界の学者さんが聞いたら腰を抜かすでしょうね」

「な、なるほど……。確かに理には適ってるな」

 そう言う僕の手は微かに震えていて、グラスの中では溶け残った氷同士がぶつかり合い冷たい音を発する。加えて今の話についてある種の実感を抱き、頭の中はそのことで一杯になっていた。

「ってことは、4日前に見たこの世界と同じ世界で美夜を見かけたっていう夢ってのは……」

「そういうことだね。お兄さんはもうそのときから、『裏側の世界』にアクセスしてたんだよ」

「なんてことだ……」

 あまりの驚きに息を呑む。呑まずにはいられない。呑まない訳がない。こんなことが、夢の真相だなんて。

 きっとあのときの僕なら、いや、昨日の僕でさえも、今の話を聞いたら冗談だと笑い飛ばしていただろう。それだけ、世の中の一般常識とはかけ離れていたのだから。

 けれど、今のこの世界を見てきた僕なら、確信を持ってこの話が真実だと断言できる。それだけ、真実は世の中の一般常識とはかけ離れているのだと。

 見遣れば、エムは宇治抹茶ラテを飲み終えてもう一つのコーヒーカップを手にしている。香りからしてブラックコーヒーで、立ち上る湯気から見てホットである。ホットブラックコーヒーである。

 いや飲める幅広いなぁ、僕なんてミルクティーかコーヒー牛乳が限界だよ。

 なんて感心する余裕もなく、僕は最後の質問を聞くことにした。正直言ってすでに情報過多だけれども、それでも聞かなければならないと僕の心が叫んでいるように感じたのだ。

 それに、戦いにおいて情報は至上最高の武器だ。孫子も言っているではないか。彼を知り己を知れば百戦殆からず、と。美夜を見つけ出すのは、僕からしてみれば一種の戦いだ。闘いだ。使命(たたかい)だ。

 ならば、情報ほど今貴重なものはない。例え頭がパンクしようとも、僕の心は決まっていた。

「最後に一つ、聞いても良い?」

「良いよ。何?」

「……この世界の人間には、僕を見えてる人と見えてない人がいるのか?」

 その問いに、エムは怪訝そうな表情を浮かべてカップを置く。

「……ごめんお兄ちゃん、どういうこと?」

「僕が4日前に初めてこの世界に来たとき、街行く人達は通り過ぎる僕に見向きもしなかった。そして今日もう一回この世界に来たときも、大声で美夜を呼んでいた僕に誰も気付いていなかった。なのにさっきカウンターで会計する時には店員さんに普通に認識されていた。それは君も見てたはずだよね。これってどういうことなの?」

 そう、誰からも認識されていないと思っていた矢先に店員さんから註文を聞かれたときには戸惑ったものだ。まさか話しかけられるとは思っていなかったために吃驚して声が上ずってしまったことを思い出して僕は一人赤面する。

「あー、そういうことか」

「……?」

 するとエムは分かったとばかりに手を打った。

「それは簡単だよ」

「……と言うと?」

 僕は姿勢を正して聞く体勢になる。

「さっき『裏側の世界』の人間は単調的で機械的って言ったでしょ? 現実世界の人間が主導権を握っているからって」

「そうだね」

「つまりはそういうことで、現実世界の人間が主導権を握っているときってのは現実世界の人間に意識があるときを指すの。それで、現実世界の人間に意識がないときはこの世界の人間に主導権が移る。だから主導権を握られてる人は謂わば自動歩行装置で、握ってる人は普通の人間になる。お兄さんを認識する人としない人がいたのはそういう訳なの」

 言いながらエムはカップを持ち上げると、ね? と言わんばかりに会釈をしてカップを掲げる。その目線を目で追うと、例の店員さんがニコッと微笑みかけていた。

「ごめんちょっと待って。意識がないっていうのは、意識を失ってることを言うの? ってことはあの店員さんは現実世界では意識不明になってるってことなの?」

 視線をエムに戻して僕は頭を捻る。もしそうだとしたらこんな呑気にカフェなんてしてられないからだ。

 けれどそんな僕の焦燥感とは裏腹に、エムは軽く首を横に振った。

「違うよ。まあその場合もなきにしもあらずだけど、それは例外中の例外。基本的には寝ている人を意識がない人って言うの。だからあの店員さんも現実世界では寝てるのよ。今はお昼の時間だと思うから、きっと居眠りしてるのね」

 そう言ってクスクスと笑うエムを見ながら、僕は安堵の溜め息をつく。そして同時に、納得とも悲観とも取れる吐息も漏れ出ていた。

「確かに。それなら美夜がこの世界で動き回ってるのも納得が出来る。確定は出来ないけど、美夜も主導権を握って自由に動き回ってることだよ、たぶん」

「……もしかして美夜お姉さんって意識が不明なの?」

 知らず僕の表情が暗くなっていたのだろう。気が付いたエムが案ずるように顔を覗き込んでくる。

「……そうだよ。3日前からね。だから僕は、美夜とまた会うために美夜を探してるんだ」

「そうだったんだね。それは……知らなかった……」

 悪いことを聞いたと思ったのかエムの表情も暗くなっていく。

 僕はそれがなんとも申し訳なくまた寂しかったため、努めて明るく笑顔を作った。

「ま、まあ、その辺は気にしなくて良いよ。美夜にさえ会えれば僕は大丈夫だからさ。だからそんな顔しないで」

「そ、そう……? ……分かったよ、お兄ちゃん」

 そうしてエムが顔を上げ笑みを浮かべたのだと判断した僕は、テーブルに両手をついて勢い良く席を立つ。

「じゃあ休憩も済んだ訳だし、早く探しに行こう、美夜を」

「うん」

 美夜も返事をして席を立つ。

 そのとき、僕はふとテーブルの上に目が行った。あるのは食事類が盛られていたお皿に大きめのグラス一つとコーヒーカップが二つ。……二つ?

「そういえばエム、2杯目のホットコーヒーはどうしたんだ? 最初には頼んでなかっただろ?」

 カランコロンカランとお店を出てすぐに、僕は先に進むエムにそう問いかける。

 するとエムはくるっと小さく振り返り、真顔中の真顔で然もありなんとこう答えるではないか。

「え? 普通に自分で買ったよ」

「そうかー自分で買ったのかー。……って、財布持ってたのかよそれ先言えよ僕の千三百円返せよぉぉぉぉ」

 良く晴れた裏側の青空に、ここは真っ昼間の街中だと言うのに僕の怒声が響き渡る。ここが現実の世界だったならかなりの迷惑になっていたことだろう。

 けれども、ここは『裏側の世界』。『世界の裏側』じゃないよ、『裏側の世界』。だからどうせ今回もここの人間は主導権を握られていて、僕のことは認識しないに違いない。だって平日のお昼だからね。これで恥ずかしい思いをしなくても済む訳だ。ホントラッキーだよね。

 ……しかしそうは問屋が卸してくれませんでした。問屋が卸すどころか、誰も生産してくれなかったようです、はい。

 僕の視界に入るのは、僕の怒声に肩をビクッと揺らし反応する人達。

 僕の周りを囲むのは、突然大声を発した狂人つまり僕に怪訝の目を向ける人達。

 そうです。今回に限って、街行く人達に主導権が合ったのです。僕を完全完璧に認識していたのです。……え、ちょっと待って。この世界で主導権を握ってるってことは現実世界では意識がないって訳で……。

「皆お昼寝し過ぎでしょ仕事中勉強中休み時間中に居眠りし過ぎでしょぉぉぉぉ」

 お昼過ぎの街が一番人々で賑わう時間帯に、皮肉にも世界のルール様に嵌められた僕の悲痛の叫びがこだまするのだった。

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