第6話 新たな出会い
ふと、強い風が吹き抜ける。
未だ雪の香りを若干に含んだ風は容赦なく肌を凍てつけ、唇からは潤いが一気に奪われていく。
それでいて日差しは温かい。
真上にも近い位置から照りつける日の光が、逆立った肌を宥め癒してくれる。
加えて耳に鳴り響くのは雑音入り乱れた喧騒。
人やら鳩やら街頭テレビやらから発せられる響音に、嫌でも意識が持っていかれる。
深い眠りから覚めたようにおもむろに目を開くと、僕はそんなところに茫然と立ち竦んでいた。
目の前には小さな横断歩道と右手には館のカラオケ店。さらにその奥には表記の気持ち悪い『ふブきエき』。
僕はこの場所に見覚えがあった。明確に、確実に、もはや嫌と言うほどに、全身全霊に誓ってでも、見覚えがあったのだ。
ここは、あの朧月夜の日に見た、おかしな夢の世界。その中でも、美夜だけれど美夜じゃない、そんな美夜を見かけた場所。
そして、あの日現実の世界において、僕と美夜が交通事故にあった場所。美夜の意識が一瞬のうちに奪い去られてしまった場所。
だったのだ。
「くっ……。……」
途端あの日の光景がフラッシュバックし、僕は唇を噛み締める。
ここは夢の世界だ。表記を見ればそれは一目瞭然だ。ならば、正確にはここは美夜が深い傷を負った場所ではない。
なのに、そんなことは分かっているというのに、僕はどうしてもその辛く苦い記憶を思い出さずにはいられなかった。
拳に力が入っているのも分かる。視線が上げられないのも分かる。
自分の身体が今どうなっているかなど簡単に分かるのに、自分の身体が苦しみに支配されるのを僕はただ黙って見ていることしか出来ないのだ。
なぜだろうか。
今僕のとってこの世界は、4日前に見たような自由で気儘な夢の世界なんかじゃなく、この3日間逃げに逃げてきた辛くて苦しい現実世界の鏡写しでしかない。
こうも数日で世界って変わり果ててしまうんだな。
そう思った途端、全身から力が抜けていくのを感じた。
腕はぷらーんと放り出され、足もしっかりと地面を踏みしめているとは思えないほどに感覚がない。
きっと今の状態を放心状態って言うんだろうなーなんて思いながら、力なく空を見上げる。
あるのは空。真っ青な空。世界がどこまでも広がっていることの印。
あるのは雲。真っ白な雲。世界がいつまでも回っていることの印。
ただ、今はそんなものさえも、それこそ人の夢のように儚く見えてしまうのだ。
「僕、何でここにいるんだろう……」
そんな答えもない答えも帰ってこない疑問を抱え、僕はちらと視線を前に下ろした。
そのときである。
目の前。ここから30メートルほど前。
いつものように往来していく人影の中に、ある女性の姿を見つけたのだ。
長く艶やかな黒髪を春風にそよがせ、対照的に帽子とワンピースは穢れを知らない純白色。
多種多様な色が混ざり合い雑味さえ感じる繁華街の景色の中に、まるで一輪の百合の花が咲き誇っているかのような、まるでそこだけ別世界かのような、そんな印象を感じさせる美しい姿を。
「美、夜……」
その瞬間、脳が命令を出す前に、僕の身体は動き出していた。反射的に走り出していた。
美夜がいる。美夜が歩いている。美夜が生きていてくれる。
あの美夜が現実世界の美夜とは決定的に違うと分かっていてなお、僕は今眼前を歩く美夜を追いかけざるを得なかった。
美夜がいるのは道路を挟んだ反対側の歩道だ。
僕は急いで車道を渡り、同じ歩道に躍り出る。普段なら交通ルールを遵守する僕だが、今ばかりはルールも糞も守っている暇なんてなかった。
「美夜ーッ」
人混みを駆け抜け、懸命に美夜へと迫る。
大声で叫んでも誰も聞いちゃいないことが、今となっては幸運だ。
気恥ずかしいなんて思う必要もなく、僕は出せる限りの大声で美夜の名前を呼び続ける。
しかし美夜は僕の声に気付いてくれない。耳に届いていない。
美夜も他の人間達と同じように僕の存在を感じ取れないのだろうか。確かにその可能性は十二分にある。
ここが僕の見ている夢の世界であるのならば、僕はいわばプレイヤーキャラで他の人間はNPCな訳だ。この場合美夜も例外でなくNPCなのだろう。そうであるのなら、美夜だけ僕の声を聞き取れるはずもない。
けれど、美夜なら聞いてくれる。僕の存在を感じ取ってくれる。
そんな淡い期待を、僕はずっと抱いていた。いや、正確に言うならば、それは確信にも近い予感のようなものだった。
だから僕は惜し気もなく声を張り上げる。声を出し続ける。
大学でも運動部かせめともサークルにでも入っておけば良かったなーと今さら後悔する。でも高校まで野球を続けていて良かったなーと今なら誇りに思える。それだけ肺活量に全エネルギーを持っていかれそうになっている訳だから。
すると遠く前を歩く美夜が交差点を右に曲がるのが見えた。
僕も慌ててスピードを上げ、遅ればせながら交差点の前へ到達する。
ある程度近づいてきたし、この交差点を曲がった先なら人通りも少ないだろう。
なんて根拠もなく思い覚悟を決め、右に身体を捻る。その先にはいる美夜を目指して。
「……あ、れ……?」
しかし僕が目にしたのは美夜ではなく、代わり映えのない人混みだけ。
さっきまであれほど群を抜いて白く輝いていた帽子もワンピースも見えず、風に揺れる黒髪さえも見当たらない。
美夜の姿が、完全に忽然とあら不思議っと消えていたのである。
「み、美夜……? 美夜ッ!」
立ち止まり辺りを見回しても見当たらない。
どこを見ても、目に留まらない。
もはや見つけられる気もしない。
僕はまたあの地獄の日と同じようにして一瞬にして瞬く間に怨念渦巻く絶望の淵に叩き落とされた訳である。
違う! そんなはずはない! ここは僕の夢の中だ。ならば、僕が望めば絶対美夜に会えるはずだ。絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に、もう一回会えるはずだ!
僕は血眼になってもう一度周囲に目を向け、美夜が隠れそうな、もしくは僕が見失ってしまいそうな場所を探す。
すると、交差点を曲がってすぐの右側。そこに、小さな右折道があるのを見つけた。
車が一台と半分通れるか通れないか微妙なほどの細道で、ここからだと曲がり角から先が死角になっている。これならば、美夜がその先にいても見落とすはずである。
希望にも近い期待を抱いて、僕は曲がり角を右に曲がろうとする。
早く会いたい。早く見つけたい。早く見つけて、ごめんって、悪かったった、そしてあのとき言えなかった僕の本心を、心のままに正面切って、言いたい。
その思いが、僕の足を急き立てていた。
細道に右足が踏み込む。そのとき、
「いたッ……!」
「……ッ!」
僕に訪れたのは美夜発見の報ではなく、お腹辺りへの軽い衝撃とそこから聞こえる女の子の声だった。
僕の勢いに押され、女の子はドサッと音を立てて道路に尻餅をつく形で倒れ込む。
それがあの日の美夜と重なって見えて、僕は咄嗟にその子に手を伸ばして立ち上がらせていた。
「ご、ごめん。大丈夫だった?」
早口になりつつも声をかける。
今回はフラッシュバックとまではいかなかったけれど、それでも記憶の隅ではちらと影が見え、自ずと心臓の鼓動も早くなってしまう。
きっとそんな憔悴しきった気持ちが顔にも出ていたのであろう。少女はお尻についた砂を軽く手で払うと、心配そうな表情で僕の顔を覗き込んできた。
厳密には紺のフードを目深に被っているため顔は良く見えないが、雰囲気や声音から、僕を心配してくれているということが伝わってきたのだ。
「うん、私は大丈夫。それよりもお兄さんの方こそ大丈夫? 顔色があんまり良くないよ」
「え……。あ、ああ、僕も大丈夫だよ。こう見えても丈夫だからね。あと、顔色が悪いのは、ひ、日に当たりすぎちゃったのかもね、ハハハッ」
見るからに年下の女の子に心配させるのはばつが悪く、ついついバレバレな嘘をついて誤魔化してしまう。
いやでも、もしかしたら日に当たりすぎたってのは嘘じゃないかも知れないし、丈夫なのも確かだからね。うん、嘘ではないね。……こう見えてってどう見えて?
そんな冗談にも満たないしょうもないことを考えているとふといつもの気楽な感じがして、ずいぶんぶりに気持ちが和らいだ気がした。
そうすると今言ったばかりの誤魔化しが馬鹿みたいに思えてきて、小さく口の中だけで咳払いをする。
「……と言うのは嘘で、人を探してるんだ。長い黒髪で、真っ白い帽子とワンピースを着ている女の人。歳は僕と同じくらい。こっちで見なかった?」
恥も外聞も自己嫌悪も捨て、僕は少女の目を見て真剣に問いかける。
もちろん、本当に目が見える訳じゃあないですよ。この子のフード、目深すぎて文字通り目が隠れてるから。目隠れだから。どこかの海賊さんが喜びそうだ。あ、片目じゃないからダメなのか。
などとバレないように思っていると、少女は僕の目をじっと見返し少しも考える素振りを見せることなく返答してくる。
「ううん、見てないよ。私はこの道の奥から歩いてきたんだけど、誰ともすれ違わなかったよ」
それが何とも不気味で、嘘は言ってないとしても容易には信じられない答えだったため、知らず僕は訝しんで探るような視線を向けていた。
「……どうしたの?」
キョトンとした顔改め雰囲気で聞き返してくる少女。
そこで自分が失礼なことをしていることに気が付き、僕は慌てて目を逸らす。
「や、あ、いや、ごめん。何でもないよ、うん」
やーこういうときでもコミュ障チックを発揮しちゃう辺り、僕ってホントにコミュ障なのかもね。
「ううん、お兄さんはコミュ障じゃないと思うよ」
「え……」
あっけらかんと言い放たれる少女の言葉に、僕は思わず耳を疑う。この子、僕の心を読んだのか……?
「君、今なんでーー」
「それよりさ、お兄さん。女の人を探してるんだよね。だったら私も手伝ってあげるから、一緒に探さない?」
僕の問いかけを遮って、フードの少女がそんな提案をしてくる。
瞬間言葉に詰まり、僕は黙り込んだ。
少女の提案には一理も二理もあり、有り難いことこの上ない話であったからだ。
正直言って、僕はこの世界を知らない。この世界のルールを知らない。もちろん経験をして知っていることもある。けれど、それがこの世界の真実でどんなものであるかを僕は知らないのだ。
そんな僕だけで、もはや夢の世界かもどうかも怪しくなってきたこの世界で美夜を探そうなんて無謀にもほどがある。無駄にも歩度がある。無益にもほどがある。
ならば、おそらくこの世界の人間であろうこの少女の力を借りるのは必要不可欠に違いない。
ただ、不安もある。
第一に、この子の素性が知れない。
僅か2回ながらもその経験上、この世界の人間は僕を認識していない。認識できていない。この世界は、僕を除外するかのような機能を持っていると思われる。定かではないが、もしかしたら美夜でさえもこのルールに適用されているかも知れない。
しかし、にも関わらず、このフードの少女は僕とぶつかったことを認識し、さらには僕と普通に会話を交わしていた。僕をこの世界から除外しなかった。僕の存在をこの世界に受け入れたのだ。
この子は、全く以て異例の存在なのだ。
第二に、この子がさっき見せた力。読心能力。
本当に僕の心を読んだのかは分からない。もしかしたら勘とか当てずっぽうで言ったという可能性もなきにしもない。それだけ、あのときの僕の態度は客観的に見ても気色悪かった。
けれど、だからと言ってコミュ障という単語をピタリと言い当てるだろうか。あれだけ然もありなんと言い放てるだろうか。もし違っていたらどうするつもりだったのだろうか。失礼では済まない言い草だろう。
つまり、あの子は十中八九僕の心を読んだのだ。心を読む力を持っているのだ。
この子の得体が知れないということに、間違いはない訳だ。
そこまで思考を進めて、ヒートしそうな頭を休めるために僕は一旦浅く息を吐く。息と一緒に頭に籠った熱も逃げていき、幾分か心が落ち着いた。
そして、僕は再び大きく息を吐き、決心する。
けれど、そんなことはどうでも良い。目の前にいる少女の素性が知れないとか得体が知れないとか、そんなことは今となっても別に構わない。
僕は、美夜に会えれば良い。見つけられれば良い。また喋れるようになれば良い。それだけが、僕の望みなのだから。この望みが叶えば、例えこの子が人ではない何かなのだとしても、例えこの身が元に戻らないのだとしても、僕はそれで良いのだから。
だから、僕の返す言葉はこれ以外には存在しない。
「うん、お願いできるかな。いや、お願いします」
頭まで下げて、僕はそう拙だが切に頼み込む。
頼む。お願いだから、お願いします。
すると、フードの女の子はふふっと優しく微笑んでちょこんと可愛らしく頷いた。
「うん、良いよ。もしかしたら役に立たないかも知れないけど、よろしくね、お兄ちゃんっ」
「あ、ああっ、ありがとう! ……お兄ちゃん?」
「ん? ああ、気にしないで、お兄さん。私ったら、時々間違えちゃうの」
「そ、そう……」
ごめんねって言ってまた微笑む女の子。
何度でも言うが、微笑んだ顔が見えた訳ではない。僕の主観的に、微笑んでいるように見えた訳だ、雰囲気がね、うん。……違ってたらどうしよう。
「じゃあ、その女の人を探す前に、ちょっと私の家で休んでいかない? お兄さん疲れてるみたいだし、見た感じこの辺に慣れてるって訳じゃないでしょ。ちょっとだけでもお話ししようよ」
「うーん……。まあ、ちょっとだけなら良いかな」
「ホントッ!? ありがとう、お兄ちゃんっ!」
「……ッ!」
ズルい! この笑顔はズルい! 見えないけど! もう雰囲気が可愛らしすぎる!
などとときめきかけるが、ウォッフォンと大袈裟に咳払いをして誤魔化す。うーん、この笑顔、100点満点ですね!
「さ、着いてきて。ここからそんなに離れてないから」
そう後ろ手組んで、未だ名前も知らない少女はてとてとと歩いていく。
その姿はまさに妹って感じがして、良く分からない庇護欲が湧いてくる気がする。
なぜだろうか。初対面にも関わらず、この子に着いていくのに全く抵抗がない。おかしいなぁ。ロリコンじゃないはずなんだけどなぁ。
そう思いながら、僕は黙って着いていくだけ。
そうして少女の後ろ姿を見ていると、今更ながら素朴な疑問が湧いてきた。
僕は後ろに位置したまま、何の気なしに尋ねてみる。
「聞いて良いか分かんないけどさ、何でずっとフード被ってるの? 暑くない?」
すると少女は振り返ることなく、快く答えてくれる。
「私、素顔とか素肌とか見られるのが好きじゃないの。だって恥ずかしいでしょ、大して可愛いわけでもないのにさ」
「ふーん。そういうものかぁ」
なんて言いながら、僕は納得いかないと首を傾げる。
可愛いと思うんだけどなー、顔見えないけど。そんなに気にすることないと思うんだけどなー。
と、気付くと女の子がいつの間にか振り返って僕の方を見つめていた。
照れているのかあたふたして、フード越しにも顔が赤くなっているのが見て取れる。
「……どうしたの?」
「あ、あう……あ……」
ホントにどうした? と訝しんでいると、フードの隙間からボソボソと小さな声が聞こえてきた。
「こ、声……声に出てるよぅ……お兄ちゃん」
「え、声?」
「私がか、可愛い……とか」
「ヤバッ、口に出てた!?」
遅いも遅く今さら口を塞ぐ僕に、女の子はコクコクと頷く。
そりゃ面と向かって可愛いなんて言われたら恥ずかしいよな。それも心が読めるかも知れないと来たら。これは悪いことしちゃったよ、ホント。
「ごめん! それはごめんね、ホントに」
両手を合わせて謝ると、プイッとそっぽ向いて恥ずかしながら、女の子は照れ感が残ったふわふわした声で返してくる。
「ま、まあ良いよ。お兄さんが冗談言ってるようには見えないし、心から言ってくれてるって分かるから」
「そ、そう。ありがとう」
「うん……」
小さく頷いて、女の子は前を向き直すとまたスタスタと進んでいく。
何ともぎこちない雰囲気になってしまい、僕も頬をポリポリと掻きながらまた歩き始めた。
……やっぱり妹感が強いんだよなぁ。妙に親近感もあるし、何なんだろうか。
「着いたよ、お兄さん。ここが私の家だよ」
それからどれくらい歩いたか、もしくはそれほど歩いていないのか。気付けば、そう言って女の子は足を止めていた。
目を遣れば、その横には限りなく見覚えのある2階建アパルトメントが。名前を『ノうザんソう』。やはり平仮名片仮名混じりの謎表記である。
「ここ、僕が住んでる『濃三荘』に激似なんだけど……」
「そうなんだー。偶然だね」
偶然? いや、偶然にしては出来すぎている。偶然にしては似すぎている。これが、偶然のはずがない。
「君はここに一人で住んでるの?」
「そうだよー。偉いでしょ、お兄ちゃん」
そう言ってニコッと微笑む少女に、僕はとりあえず軽く頷きで返す。
そう、偶然のはずがない。でも、必然と断定するには決定的に証拠が足りないし、何よりも僕はこの子に助けを請うと決めたではないか。そしてこの子も快く引き受けてくれたではないか。
ならば、ここでまたこの子を疑うのは道理に外れている。道を踏み外している。まさに外道の所業だ。
だから、この子が偶然だと言うのならば、偶然ということにしておこう。
僕はもう迷うことなく、階段を上がっていく少女の後に続いた。
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