第2話 現実はまた斯くも

「ーーっていう夢をさ」

「あ、ごめん途中から聞いてなかったわ」

「うそでしょ」

 隣から聞こえる興味無さげな言葉に僕は驚歎の声をあげる。

 呆然のあまり口を中途半端に開け、目線に先にいる男を信じられないと言わんばかりの目付きで見つめる。

 するとその視線を感じたのか男はおもむろに目線を僕の方に向け、どんな顔をされているかに気付いて慌てて見ていたスマホを机の上に置く。

「や、いや、あれだから。聞いてなかったけど、耳は傾けてたから」

「どっちだよ!?」

 それでも口から出るのはそんな言い訳染みた言葉で、僕は呆れにも呆れてしまう。

 いや、その言い訳は聞いてない人が言うやつだからね。これでお前が本当に僕の話を聞いてなかったのがバレちゃった訳だからね。

 などとは思いつつも僕にその心の内を言い表すつもりなどなく、ついでに言えば目の前のこいつがそんなしょうもない言葉を吐くようなしょうもない人間じゃないと分かってる訳だから、結局僕の口から出るのは、確かに呆れも含まれるけれど呆れた訳じゃあない笑い声で。

「いやー、悪い悪い。あんまりに長い話だったからちょっとくらい良いかなって」

「だから最初に『長い話になりますがご了承ください』って言ったでしょ」

「まさかこんなに長いなんて思わないだろうが」

「……そんなに長かった?」

「5分くらいはずっと喋ってた」

「マジか……」

 それに結局悪いのがこいつだけじゃないと判明する訳で。

 ならば僕だけが悪態を付くのはフェアじゃあない訳だ。

「まあ、それだけ濃い夢だったって話だろ? まとめれば」

「それをまとめると言うのかは正直分からないけれど、まあ、そんなところかな」

 だから、こうやってお互い譲り合うことが大切な訳ですよ。

 自分で言うのも何だけど、この妥協案譲歩術は大したものだと思います。是非とも国会議員の皆さんにも真似してもらいたいものですね、はい。

「それで大翔、最後の辺だけちゃんと聞いてたんだけど、神薙が夢に出てきたってのはホントなのか?」

 すると冬耶がまたぞろスマホをポチポチしながら、今度は幾分か興味を示す口振りで問いかけてくる。

 あ、そう言えば自己紹介と他己紹介が遅れましたね。僕の名前は巫女神大翔で、隣にいる明るい茶髪をした一見チャラ男そうなこいつの名前は九鬼冬耶。僕たちは共に都立風吹大学の学生で、冬耶は僕の親友だったりする。

「……誰と話してんの?」

「え? ああ、気にしないで。メタになっちゃうから」

 僕の挙動が不審だったのか冬耶は怪訝そうな顔で見てくる。

 それを僕は華麗な嘘で可憐にかわす。……まあ、メタではあるんだけどね。

 でもそんなことは冬耶は知らない訳なので、僕は下手に取り繕うこともせず、一呼吸置いて冬耶の質問に真面目に答えることにした。

「それで美夜のことだけど、ホントに出てきたんだよ、美夜が、僕の夢の中に」

 フスーと鼻息を荒げながら、僕は心底底抜けに心の根底奥底から真面目に語る。一語一語丁寧に、一期一会にならぬようにと念を押すように。

 しかし冬耶の方は生憎と信じられないようで、ふむと顎に手を遣り推し量るように尋ねてくる。

「絶対?」

「絶対」

「ホントに?」

「ホント」

「根拠は?」

「もちろん」

 そうして3回すべての質問に真顔で答え終わると、今度は僕のターンである。

 続きを促すように目線を送ってくる冬耶に一つ頷きで返すと、僕は大きく深く息を吸い、しかして声小さく秘め事を伝えるかのようにひっそりと口を開く。

「……右目の下に泣きぼくろがあったんだよ」

 途端空気が静かになるのを感じる。この場だけでなく、大教室全体が。

 パッと正面に目を遣ると冬耶がポカンと口を開けそうなほどに呆けた表情をしている。

 そして一拍置いて教室全体に学生の話し声笑い声教授の怒鳴り声がこだまするようになると、冬耶は呆然とした顔のまま声を発する。

「……それだけ?」

「それだけ」

 短い返事だけれども僕は胸を張るように堂々と返す。

 一つだけとは言え充分すぎる証拠だし、泣きぼくろは立派なチャームポイントだからね。

 すると冬耶はフッと笑みを溢したかと思うと、クククッと吹き出すのを堪えるようにして笑い始める。

 周りに迷惑をかけないようにと下を向いて袖口で隠しているのは如何にも根が真面目な冬耶らしいが、それでも僕には笑ってるのが分かってしまう訳で。

 僕はそれに若干不機嫌になりながらジトーとした目を冬耶に向ける。

「……何で笑う」

「な、何でって、普通泣きぼくろだけじゃ分かんないでしょ。それになに然もありなんって顔してんの。そっちの方が何ででしょ」

 顔を伏せたままクスクスし続ける冬耶。

 あのー冬耶さん。何回も言うけど、抑えようとしてるのは分かるけど隠しきれてないからね。なんなら正面切って笑われるよりそっちの方が傷付くまであるからね。

 僕は心なしか腹が立って、気付くと拗ねるような口調で口を尖らせていた。

「それはそうかも知れないけど、笑うことはないじゃん。分かったものは分かったんだし、正直証拠ってほどの証拠じゃなかったけど、美夜の顔を僕が見間違える訳ないんだしさ」

「フフッ、そうかそうか。付き合い長いんだもんなぁ、お前らは。それにしてもーー」

 おもむろに顔を上げ目尻に滲んだ涙を拭う仕草をする冬耶。

 自分を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸すると、ニヤッとからかうような笑みを口端に讃えて言葉を続ける。

「お前、神薙のこと好きすぎるだろ」

「……なッ」

 一瞬、冬耶の言ったことを理解するのに時間がかかる。

 しかし次の瞬間には冬耶の言葉の意味が分かりなおかつ脳内で何度もリピートされるではないか。

 反射的に第一声が漏れ、体温が急激に上がっていくのを感じる。

「ハ、ハアッ!? そんな訳ないじゃん。意味分かんないこと言うなよな!」

 気付けば袖口には汗が滲み、襟元にも何となくベタつく感覚が出始める。おでこを手の甲で撫でると、やはり汗をかいていた。

「お前顔真っ赤だぞ」

「言われなくても分かってるよ!」

 相変わらずニヤニヤ顔で見てくる冬耶に少々語気荒めで返し、僕は襟元を引っ張ってその前で手を扇ぐ。

 そうすると程よく冷えた空気が胸元に注ぎ込まれて、徐々に体温が下がっていく。

 シャツにまとわりつく汗が気持ち悪くて鬱陶しいが、この際は仕方ない。手の動きに合わせてブラウスをパタパタとさせ幾分か肌触りが戻ってきたのを感じる。

 さすがはレノアの柔軟剤。買っておいて良かったー!

 そして落ち着きを取り戻した最後の確認として一息つくと、レノア出動の元凶たる冬耶にキッと目を向ける。

「意味分かんないこと言うなよな、ホントに」

「でも神薙のことは好きなんだろ?」

「……ッ! そ、それはまあ、その……」

 冬耶の完璧なリターンに、僕は完全に言葉が詰まり王手を取られてしまう。

 いや、リターンを決められたのだからマッチポイントを取られたとでも言った方が良いだろうか。

 どちらにせよ、そうやって言われたら僕は否定出来ない。だからと言って肯定もしづらいけれど、それでも否定だけはどうしても出来ないのだ。

 だって、だって僕は美夜のことが……

「あんた達さっきからなに話してんの?」

「……ッ!?」

 後ろから届く声に僕は瞬間肩を震わせ慌てて首を後ろへ捻る。

 聞き覚えのある声聞き覚えのある言い方聞き覚えのある息遣い。むしろ聞き覚えのないことがないくらいに聞き覚えのあるそれらが示す人物。表す人間。導き出す答え。

 それは何を隠そう、

「み、美夜……!? 何でここに!?」

 噂をすればなんとやら。

 僕の幼馴染みにして学友である神薙美夜様のご登場である。

 まさか夢の中だけでなく現実世界の教室の中にまで現れるとは。

 まさに神出鬼没神薙出るとはこの事である。

 などと思うや早く、美夜は毎日恒例のムスッと不機嫌そうな顔でご機嫌斜めに口を開く。

「何でって、同じ学科で同じ授業取ってるんだから当然でしょ。……何よ、あたしはここにいちゃダメって言うの?」

「や、いや。ダメ……とは言ってないけど」

 そんな返答をしながら、僕はヤベェと冷や汗をかく。

 もちろん美夜の機嫌が頗る悪いというのもあるが、それはいつものことだから別に良い。逆に大学に入ってこの方機嫌の良い美夜など見たことがないのだから、そういう意味では機嫌が悪いのは通常運転過ぎる訳だ。

 じゃあ何がヤベェのかって言うと、それは僕が美夜を苦手にしているということだ。

 いや、正確に言うならば、大学に入ってからのこの機嫌の悪い美夜が苦手だということだ。その性格が苦手だということだ。

 だからこの陰キャコミュ障チックな受け答えもしょうがない訳で、うん。不可抗力不可抗力。

 などと自分への言い訳を考え巡らせながら目を泳がせていると、美夜が気持ち悪いものを見るかのような目付きで僕を見てくるのに気付く。

 なに? 僕はナマコか何かですか?

「え、なにその反応……。キモッ。マジでキモいんですけど」

 おっとどうやら僕はナマコだったみたいです。申し訳ありませんナマコの捕獲流通販売に携わる皆様方。僕とナマコは彼女の中では同一の存在だったみたいです。彼女、神薙美夜に代わり深く御詫び申し上げます。

「ってキモいって何だよキモいって。もう少し違った言い方もあるだろ」

「いや、キモいから。キモい上に超キモいから。(超キモい×2)の2乗でハイパーキモいから」

「キモいキモい言うな! ってかさすがにキモすぎるだろ!」

「実際キモいんだからしょうがないでしょ。なに、自覚なかったの?」

「なくはないけどさ」

「じゃあやっぱしキモいんじゃん」

「それはまあ、そうだけどっ!」

「お前らホントに仲良いなぁ」

「「全然良くない!」」

 ぐぬぬと互いに睨み合っては言葉の往復をしていた僕と美夜は、横から放り込まれた爆弾発言に一致団結して一蓮托生して否定という名の処理を施す。

 ホント、こういうときには息が揃うんだから仕方がない。

 そうしてシンクロナイズドフリカエリをした僕らの先には、ニヤニヤと嫌らしい微笑みを湛えた冬耶がいる訳で。

 そんな顔して見られると嫌でも感じちゃうでしょう、憤りをさ!

「お前なあ、冗談でもそういうこと言うのやめろよな!」

 僕らにとっては結構デリケートな問題であったため、少しばかりか語気荒くトゲのある言い方になってしまう。

 でもそれこそしょうがないことで、決して冗談でも言って良いことではない。

 そしてその思いは美夜も同じだった様で、これまたフンスと鼻息荒く腕組みまでして冬耶に食いかかる。

「ホント、いくら九鬼くんでも言って良いことと悪いことがあるからね。次言ったら絶対許さないかんね」

 その目付きたるや天敵を見つけた獰猛な狼の様、もしくは点滴を見つけた童蒙の患者の様で、殺気殺菌険悪嫌悪が凄まじい。

 前からその顔を覗き込んでいた僕の方が背筋が凍りそうなほどだ。

 美夜さん、せっかく綺麗なお顔をしてるんだからお止めなさい。ホント人殺しみたいな顔をしてるわよ。

 しかしそんな顔をされているにも関わらず冬耶はどこ吹く風と全く気にしていない。もはや視界にさえ入っていないまである。

 アハハッと軽快な笑い声をあげると、本当に冗談を言うノリとテンションでいつも通りの微笑みを浮かべる。

「またまたー。端から見たら夫婦喧嘩に痴話喧嘩だぜ? 2人とも」

「なッ!」

「お、おまッ」

 お前それはいくらなんでも地雷や機雷の域を越えてるぞ。

 そんでもって美夜に恥じらいのあまり大嫌いとか言われちゃうぞ、いや言われちまえ。それくらいがお前にとって丁度良い罰だこの強心臓況んや狂心臓め!

 なんて祈りながら美夜の口が開かれるのを待つ。

 さあ美夜さん、言ってしまいなさい。叶姉妹の如く優雅に華麗に言ってしまいなさい。

 と思っていても、いつまで経っても美夜の口から罵倒はおろか言葉が発せられることはない。1秒、5秒、10秒と囲碁の試合のように緩やかに時間が過ぎていく。

 そしてどうしたものかと不審に思って振り返ったらば、僕の目に飛び込んだのは空前絶後の光景であった。

「そ、そんな……夫婦だなんて……バ、バッカじゃないの……」

 なに本気で照れてんですかァァァ。

 確かに恥じらえとは思ったけど、それ恋する乙女の恥じらいだからね、地雷も恥もない恥じらいだからねっ!

 頬をほんのりと朱色に染め横から垂れた明るい色の髪の毛をもじもじと弄くる様は実に乙女。それ以外の何者でもない。

 仕舞いには僕と目が合いかけると咄嗟に背けて俯いちゃう始末。

 これはあれですね。完全にゾーンに入っちゃってますね。Sexy Zoneにね!

「いや美夜、あれだぞ。ここで否定しとかないと後々面倒なことになるんだぞ」

「そうだよ神薙。それじゃあ大翔と仲良しだってことになるんだぞ」

「お前はちょっと黙っててくれる!?」

 頬杖ついてニマニマしながらからかい半分冗談半分面白がるように横槍を入れてくる冬耶にキツめの釘を差す。

 この男、火に油を注いでるって絶対分かってる上で灯油を撒き散らしてる確信犯な訳で、ホントのホントに達が悪い。

 こういう犯罪予備軍的な男を公安警察には取り締まって欲しい訳ですよ、ホントに。安室さん、本当お願いしますね。

 そうやってキッと一睨みして念を押すと、冬耶は分かってるよとばかりに右手を軽くひらと上げてくる。

 けれどもその顔には変わらぬ笑みが浮かんでおり、説得力信用性共に皆無である。

 今の冬耶なら詐欺師の方が信頼できるまである。いや、それはないわ。

 兎も角僕からしたら美夜には変な気を起こしてほしくない訳で、今の妙に照れ照れしている美夜はとてもじゃないが見ていられない。

 僕はどうにか美夜を正気に戻そうと出来る限りの穏当に穏やか和やかに声をかける。

「み、美夜さん。そろそろ正気に戻りましょうよ。もう一回冷静になって考えてみましょうよ」

 しかし下手に下手に出たのが間違い場違い読み違いだったらしく、美夜は急に不機嫌丸出しな表情に逆戻りすると僕を睨み付けてくる。

 えーっと元の不機嫌美夜さんに戻ってくれたのは嬉しいんですけど怒る相手は僕のはずじゃないんだけどなー!?

「何よ、あたしと夫婦に思われるのがそんなに嫌な訳?」

「いや、嫌とは思ってないけどさ……」

 咄嗟にはぐらかすような台詞を口にする。

 確かに嫌とは思ってないし、むしろ嫌な訳がない。だから僕としては決して嘘は言ってない訳だ。

 でも美夜にはそれが伝わらなかったと見え、みるみる内に肩はわなわなと震えその顔は拗ねとも怒りとも憤りとも見える憤慨に満ちたものになっていく。

「じゃあ何であんたは否定しようとすんの!? そんなのは嘘で冗談だみたいな言い方すんの!? あんたはあたしのことがそんなに嫌いなの!?」

「そこまでは言ってないだろ! っていうかお前自分がなに口に出してるか分かって言ってんのか!? 結構とんでもないこと言ってるんだぞ今」

 だから僕の口調も語調も語気も荒く荒んだものになっていき、知らず美夜にも負けないくらいに腹が立っていた。

「そんなの分かってるよ。自分が日頃からなに考えてて今なに考えてて何を言いたいかなんて全部分かってるよ。自分の本心がどれで見栄がどれでどれが見えてどれが見えないかなんてのも分かってるよ。なのに何であんたは真っ向からあたしを見てくれないの? 何で見栄はって後ろに隠れてあたしから見えないようにするの? あんたのそういう逃げてて卑怯なところホントに嫌い! キモい! 超キモい! 超超超超超キモいッ!」

 顔を真っ赤にして怒鳴るように言い募る美夜。

 ここが授業中の教室だということも忘れ、ただただ己の内に秘めた思いをさらけ出している。

 そうだよ。僕だって分かってるよ、それが美夜の本心でそれが本当の美夜だなんてことはよーく分かってる。美夜が逃げずに真っ向からぶつかってきてくれてるってことも充分に理解してる。

 でも、いや、だからこそ僕には美夜を真っ向から受け止めてあげることは出来ない。正面から向き合ってあげることは出来ない。

 だって、僕には美夜に応えてあげられる資格なんてないんだから。僕には、美夜を突き放すことしか出来ないんだから。

 だから、これは決して逃げでも卑怯でもないんだ。

「うるさいなぁ! あーそうかよ。そんなに僕の本心を聞きたいなら言ってやるよ。僕はお前なんか好きじゃないよ。好きな訳ないだろう、そんな茶髪で派手な格好したお前なんて。到底僕には似合わないし似つかわしくない。そうだよ。僕はお前は冬耶とお似合いだとずっと思ってたんだよ。地味で取り柄のない僕なんかより、イケメンで頭も良くてスポーツも万能な冬耶とさ。そもそも僕とお前はただの幼馴染みなだけであってそれ以上でもそれ以下でもない。そんなことも分からずにいるからそんなまやかしが口から出てくるんだよ!」

 って分かっている覚悟もしているはずなのに、口から出るのはそれとは裏腹な皮肉で嫌味で自分で聞いても胸糞の悪い馬鹿みたいな暴言妄言罵詈雑言ばかり。

 加えてその言葉も結局は美夜のためじゃなく自分を守るためだけの言葉でしかなく、仕舞いには何の関係もない冬耶まで巻き込んでしまう始末。

 優しい冬耶のことだからこのことに対して何も言わないでくれるだろうけど、傷付くのは自分だけで良いと思いながら美夜も冬耶までも傷付ける羽目になってしまった訳だ。

 ホント、最低最悪の最高に良い性格してるよ、僕って。

 鼻息も吐息も荒く捲し立てた僕は言い終わってからそのことに気付き、慌てて口を塞いだ。

 だけれどもう遅くもう間に合わない。

 僕の目をじっとキッと見て僕の言葉を聞いていた美夜は、ショックを受けたように目を見開いて一瞬身体を硬直させる。

 そして次の瞬間には震える口を右手で抑え、潤んだ瞳から水滴が静かに流れ落ちると共に席を立って教室から出ていってしまった。

 扉が勢い良く閉じられ重苦しい音が教室中に鳴り響く。

 何十人といる学生も黙々と板書していた教授も誰もがその音に目を遣り耳を遣る。

 その中を、本当に手に入れたかった何かを掴もうとして掴めず望まぬ結果だけを見事掴んでしまった僕の右手だけが、虚しく虚空に突き出されている。

「……今回ばかりは、何でも分かってるつもりで何も分かってなかったんだな、僕は……」

「……」

 ふと口から出ていた僕の呟きに、冬耶は沈黙で返してくれる。

 そんな彼の気遣いが僕の罪悪感を少しばかりでも溶かし、緩めてくれる。

 キンと張り詰めた空気の中、僕の頼りない吐息だけが弱々しくつかれる。

 次第にいつもの騒がしい教室に戻っていったかと思うと、その終わりを告げるチャイムがなり一時の喧騒を残して教室は文字通り空になっていく。その中を、行き場を失ったちっぽけな吐息だけが、いつまでも虚しく漂い続けていた。

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