第1話 とあるある日の物語

ふと、強い風が吹き抜ける。

 未だ雪の香りを若干に含んだ風は容赦なく肌を凍てつけ、唇からは潤いが一気に奪われていく。

 それでいて日差しは温かい。

 真上にも近い位置から照りつける日の光が、逆立った肌を宥め癒してくれる。

 加えて耳に鳴り響くのは雑音入り乱れた喧騒。

 人やら鳩やら街頭テレビやらから発せられる響音に、嫌でも意識が持っていかれる。

 気が付くと、そんなところに僕は立っていた。

 立ち尽くしていた。直立していた。

 辺りを見回す。

 初め目に入るのは僕の前後左右を縫うように歩く往来の人々。そして、頭上にて掲げられたJRの駅名。

 『ふブきエき』

 聞き慣れた駅名にも関わらず、その綴りは全くもって見慣れない。

 もはや初見である。

 なぜ漢字表記でなく平仮名片仮名混じりなのかが不思議で仕方がない。仕方がないのだが、何となく可愛い感じだから取り敢えずは放置で良いだろう。あ、さいたま市が可愛いって言ってるわけじゃないよ。さいたま市が平仮名なのは意味が分からないよ、本当に。

 なんて宣いながら、僕は浅い吐息をつく。

 ここまでの流れならば後ろも向いて確かめるべきなのだろうけど、そんな必要もなく、僕は一つの確信を抱いたのだ。いや、確信とまでは言えなくとも、確信に近い一種の信用性を持った解答を得ていたのだ。

 そう、それは、ここが夢の中だということ。

 『ふブきエき』改め『風吹駅』は、確かに僕達が住んでいる街にある駅で間違いない。

 僕が知ってる限り、風吹という地名はここにしかないのだから。

 だから、ここが駅前だというのもまず間違いがない。

 けれど、20年この街で暮らしていて駅名が平仮名片仮名混じりになったのなんて見たことがないし、今後とも見ることがないと断言出来る。それだけに今眼前に存在する駅名は、壊滅的なセンスをしているのだ。※あくまで個人の感想です。

 そしてそれは、たった一つのヒントだけれど、それは解を導くには充分すぎるヒントで、もはやカンニングと疑われるまであるレベルのヒントだった訳だ。

 だから、僕は心の中で夢の世界にこんなに早く気づいてごめんなさい謝りながら、後ろに控える残りのヒントの数々に振り返った。

 案の定、視界に飛び込むのは一見見慣れたようでよく見ると知らない世界の景色。

 青地に赤文字で店名が書かれたカラオケ店も、驚安大量買いが出来るセルバンテスも、大きな反響があるカラオケ店も、猫が手招いているカラオケ店も。

 毎日のように見る看板には、やっぱり漢字が消えて平仮名片仮名混じり。

 ここから言えること、それは風吹市はカラオケの宝庫だといくこと。これ真理。

 故に信用が確信に変わるのである。

 そんな適当法螺吹きながら、僕は再び吐息況んや溜め息をついた。

 しかしてそれは決して浅くなく、むしろ深く重たい溜め息だ。

 吐かれる息は白く色付かず目には決して見えないのに、風に乗って吹かれていくのを知らず目で追ってしまう。

 目で追っていくと、その風に乗って街行く人の話し声が否が応でも聞こえてくる。

 それが、僕が溜め息をついた理由だった。

 結論から言うと、何を言っているのか聞き取れないのだ。

 もちろん言語が違うという訳ではない。

 確かによく聞けば、日本語が話されているというのはすぐに分かった。

 けれど、何がどんな単語がどんな文法でどんな方言で話されているのか。それが全く聞き取れないのだ。

 まるで、青森弁と鹿児島弁と沖縄弁と関西弁と標準語とをごちゃ混ぜにしたような、聞き取れそうで聞き取れない気持ちの悪い聞き取りにくさなのだ。

 つまるところ、これは彼らとは会話が出来ないということを意味していた。

 少なくとも、出来そうな気配は全くしない。英語で喋った方が伝わるんじゃないかとも思ってしまうほどだ。

 だから僕は、通行人に話しかけることをせずにぶらぶら街歩くことを決めた。ぶらタモることを決めた。

 言い換えるなら、単純に散策することにした。純散策することにしたのだ。

 僕は横断歩道橋マルベリーブリッジを館のカラオケで右に曲がり、東王風吹駅方面への階段を下っていく。

 そっちに向かう理由は特になく、強いて言うなら東王風吹駅の目の前にある猫カラはどうなっているかしらと気になったからだ。

 ちなみに風吹市のカラオケを全店制覇しているというのはここだけの話、ちょっとした自慢である。

 階段を降りきり一歩二歩と歩いていく。

 大した目的もないのになぜか僕の足取りは軽やかで、まるで止まることを知らないようだった。

 このまま何処へまでとも歩いて行ける。そんな錯覚とも言い切れない感覚が確かにあった。むしろ今までそう感じなかったのが不思議なくらいに。

 それだけ僕は謎の解放感に浸っていたんだ。

 そうこうしていると、僕はまたあることに気が付いた。

 しかもそれは、前二つと比べて明らかに謎めいていて不可思議なことだ。

 誰も僕の存在に気を向けない。

 もっと言うなら、誰も僕の存在に気付かないのだ。

 さも僕が見えないかのように通り過ぎ、僕が存在しないかのように息をする。ぶつかっても目もくれず、物音をたてても振り向こうともしない。これがいじめじゃなくて何と言う、ってレベルだ。

 でも、だからと言って別に悲しいとか腹が立つとかそんな話でもなく、逆に僕はこれは好機だと思った。

 だって、これなら僕が何をしてもバレないってことで、何でもし放題ってことだから。

 今思えば、あのとき僕は完全に有頂天になっていた。なんなら僕が夢の世界の王様だなんて勘違いしてたまであった。

 僕は陽気に惟神の鼻唄まで歌いながらながら歩きをし、人波に流れて他にも何か不思議なことがないかと遠くを眺めた。

 すると、ふと一人の女の人が目に入るではないか。

 ビュッと春風が吹くと彼女の長く艶やかな黒髪が艶やかに靡き、翻る白色のワンピースと飛ばされそうになる帽子を恥ずかしそうに押さえる様はまさに美人である。

 顔を見なくても分かる。

 後ろ姿と振る舞いだけで、完全に美人の要素を満たしている。

 彼女が美人じゃない訳がない。

 語彙力も少なく、それでいて僕は彼女に見惚れてしまったのだ。

 そんな僕のほんのり熱い視線に気付いてか気付かずか、彼女がおもむろに振り返る。

 その動作に連動して黒髪が爽やかに揺れ、仄かにふんわりとした香りが漂って来そうだ。

 そしてはためく髪に隠れていた彼女の尊顔が御開帳されたとき、僕はまさしく悟りを得たかのように驚愕を受けた。危うく受けすぎて涅槃に至りそうまであった。

 なぜなら、目一杯に見開かれた僕の目の茶色いに映った少女の顔が、神薙美夜のものであったのだから。

 こうやって言うと語弊がありそうだが、決してコラ画像みたくなっていた訳ではない。

 むしろコラ画像人間かと疑った僕が100%コラじゃないと断言出来るくらいにコラってなかった。完全完璧完封的に、その女の人は美夜であったのだ。三完達成していたのだ。

 ここで一つ、またもや大きな栗の木の下問題が浮上した。

 美夜は美夜でも美夜ではない問題だ。

 美夜が美夜でも美夜じゃなければ問題にはならないのに、美夜が美夜でも美夜じゃなくてそれでもやっぱり美夜だから問題になってしまう。

 だって目の前にいる美夜は三完王・美夜なのに、明らかに美夜ではないのだから。

 分かりやすく言うなら、同じ美夜という個体から派生したタイプの違う派生体みたいな感じ。つまり美夜ファイブ。あれ? もう4体いるのかな、等と考えてしまう。

 もとい、美夜だけど美夜じゃなかった訳だ。

 それがまたまた不思議でしょうがなく、僕は目を閉じて首を捻って頭を傾げる。

 そうして結局何も分からず一旦諦めて瞼を開けたとき、


 そこは僕のよく知る自室のベッドの上だった。

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