(4) (了)






    04



 氷の怪物が、文字通り吹き飛んだ。


 ――バゴン! と。


 凍った地面を雪を舞い上げながら何度かバウンドして飛んでいった怪物の体は、十数メートル先の樹氷にぶつかって轟音を立て、そこでようやく停止した。

 拳を受けたその顔面は、大きくえぐれていて――ぴくりとも動かない。


「……、は?」


 一方で怪物を殴り飛ばした張本人である灯夜はというと、空へ向かって腕を突き出した格好で雪原に仰向けに倒れ、変わらない曇り空を眺めながら茫然としていた。


 何が起こっているのか。

 ……全て分からないが、気付けば頭痛は消え失せていた。



     ※



「――――、いやいや」


 茫然自失からふと正気に戻り、ばっと跳ねるように立ち上がる。

 それから遠くに倒れてぴくりとも動かない怪物を見た。


 ……頭に手を当て、混乱しながらも状況を把握するのに努める。

 とはいえ答えは非常にシンプルだった。灯夜が怪物を殴り飛ばした・・・・・・――その反動でその場に後ろから倒れ込んだ、それだけだった。

 ……もっともそれが意味不明なのだが。


「なん、だ……? 何が、俺は、何を……?」


 意味が分からない、と灯夜は眉間に皺を寄せる。


 ――放ったのはたった一発、素人のパンチだ。

 空手やボクシングのような構えも何もあったものではない、腕を振り回しただけのテレフォンパンチ。


 その結果が目の前の光景だなんて、とても信じられなかった。

 バキバキと音を立て、沈黙した怪物が叩きつけられた樹氷がゆっくりと倒れて凍った地面に沈み、積もっていた雪が舞い上がる。


 ……殴った衝撃で、じりじりと拳の表面がひりついていた。

 じわじわと、ようやく目の前の光景が自分がやった事なのだという実感が込み上げてくる。


「傷も治ってる……しかも、寒くない。……何でだ?」


 しばらくその場に棒立ちになっていた灯夜は、ふと自分が怪物の鉤爪で袈裟に切り裂かれたはずだということを思い出して全身をぺたぺたと触った。


 ――怪物に切り裂かれた体も、噛みつかれた首も、ついでに捻った足までも、まるで何もなかったかのように元通りになっていて傷痕さえも残っていなかった。

 それこそ、傷を負ったことを思い出さなければ忘れていたくらいには。


 そしてあれだけ強烈だった寒さでさえも、切り裂かれた防寒着の隙間から素肌が露出して外気に触れているというのに全く感じなくなっていた。


「――どうなってるんだ」


 ――何もかも、異常。

 ただその原因には見当がついていた。


“でも、これは……”


 怪物を吹き飛ばす腕力と、一瞬にして怪我が完治する再生力。

 全て、灯夜の内側にある何か・・が原因だった。


「……こいつのおかげ、なのか」


 胸元に手を当てる。


 ――怪物の爪が目の前に迫ったあの瞬間、ソレにふと灯夜は気付いた。


 ソレが何であるか、今もまだ灯夜は具体的には分かっていない。

 しかしソレはまるで当然であるかのように灯夜の内側にあった。

 怪物を吹き飛ばし、肉体を平常へと巻き戻した力の大元とでも言い表すべきモノ。

 体の芯へ意識を向けるようにすれば、ソレの鼓動が微かに伝わって来る。


 ……不思議と、悪い感じはしなかった。

 むしろ、たった今平常に戻った・・・・・・・・・・ようでさえあった。

 ともかく土壇場でそれに目覚めたからこそ命を拾ったということは、疑いようのない事実だ。


「魔法、というか超能力……? そんな非現実的な――っ」


 冗談めかしてその力を魔法や超能力オカルトと表現し、それが今のところ最も適切な表現だという事に気付いてげんなりする。


 そしてこの意味不明な状況なら人が超能力に目覚めるなんて事が起こっても不思議ではないと、一瞬でも思ってしまった事を恐ろしく感じた。

 ますますこれが夢ではないかと疑うが――。


「……」


 切り裂かれたはずの胸元に触れる。

 たとえ傷が残っていなくても――体を切り裂かれたあの痛みは、紛れもない本物だった。

 だとすれば、これはやはり現実なのだ。


 そう思いながら、灯夜はその場にぺたんと座り込む。


「もうしばらくは何が起こっても驚かない自信があるぞ……」


 凍り付いた世界。一斉にいなくなった人々。氷の怪物。

 そして、自身が目覚めた得体のしれないこの力――。

 一生分の驚きを一日で味わったような感覚と、窮地を脱した高揚でそんな軽口が口をついて出る。

 しかし、その発言はすぐに撤回する羽目になった。


「おいおい――」


 ギシリ、という不穏な、何かが軋むような音にばっとそちらを振り返り、目を剥く。


「ふざけるなよ嘘だろ……!?」


 ――頭部の半分欠けた隻眼の怪物が、ゆっくりと倒れた樹木の傍で立ち上がっていた。


 全くの予想外だった。そもそもが氷で出来ていてどういうメカニズムで動いているのかも不明な生物だとはいえ、まさか頭部が半分欠けても死なないとは思ってもみなかった。


 完全に怪物を倒した気でいた灯夜は、その光景を目を丸くして茫然と眺める。

 そして――驚愕は連続した。


「な、」


 ビキビキと音を立てて、怪物の欠けた頭部の断面から水のように流動する氷が溢れ出し、怪物の欠けた頭部をゆっくりと修復していった。そうして欠けた部分を取り戻した怪物が、その透明な眼で灯夜を睨みつける。


 縦に割れた瞳孔。

 その鋭い眼光に気圧されながら呟く。


「はは……本当に化け物、」


 悪態を吐く間もなく、怪物が凄まじい勢いで突進して来る。

 開けた場所だということが原因だろう。突進の速度は、最初に森の中で灯夜を追いかけていた時のそれとは段違いだった。

 さながら――交通事故。

 

「っ、」


 振り下ろされるぎらつく鉤爪を回避するため、反射的に後ろへ跳ぶ。


「……え」


 思わずそんな声を口から零していた。


 ――体は気付けば空中にあった。

 真下には振り下ろした爪で地面を抉った怪物の姿と、斜面に囲われた広い雪原が見える。

 それからやっと、灯夜は自分が地上から数メートル上にいるのだと理解した。

 恐らく、二階建ての建物くらいの高さまで跳躍している。


“……!”


 ――腕力や脚力といった、身体能力の大幅な上昇。

 怪物、つまり巨大な氷の塊を全力を出せば十数メートル先まで吹き飛ばすほどの膂力は、体には妙に馴染んでしまっている一方で、頭ではまだ理解の追いついていないものだ。

 だから加減が利かないというか、加減する方法が分からない。

 そして。


“こんな高いところから落ちたら……!”


 およそ一秒。

 その間に浮遊感は消えて、すぐに落下が始まった。


「う、お――!?」


 叫ぶ。背筋がぞっとする落下の感覚に襲われながら空中でどうにか体勢を整えようとするが――無駄だった。

 背中から地面に着地する。

 ……雪がクッションになるとはいえ、これは落ち方と高度が悪過ぎる。

 相応の痛みを覚悟し――、


「……、あ?」


 何時まで経ってもやって来ない痛みに、ぐっと閉じていた瞳を開けて体を起こす。

 あれだけの高さから背中を下にして落ちたにもかかわらず、怪我をするどころか、痛いとすら感じていない。


“……そうか、体も頑丈になってるのか。そうじゃなきゃ俺の体が力に耐えられないし”


 調子を確かめるように指を開閉しながらそう判断する。

 考えてみれば当たり前だった――大質量を遠くへ殴り飛ばす腕力と、数メートル上に軽々と跳べる脚力に常人の体が耐えられる訳がない。もしも力だけが強くなっているのだとすれば、怪物を殴った時に灯夜の拳は潰れているだろう。


「……」


 起き上がる。

 後ろに大きく跳んで下がったおかげで、怪物との距離は大分離れている。

 じりじりと距離を詰めて来る怪物に対して、灯夜も向き合ったまま一歩一歩後ろへ下がって距離を取る。

 最中に、思考する。


“また殴っても、傷が治ったら堂々巡りだ。それなら逃げるのが正解……というか、あんな怪物と戦うなんて無理だ……!”


 足に力を込める。

 ……意識すれば、自分の力の程度も何となく理解出来る。

 加えて現実に、目前まで迫った怪物の攻撃を灯夜は躱せている。

 もちろん力にはまだ慣れていないし、簡単に……とはいかないだろうが、逃げ切ること自体は不可能ではないと思う。


“逃げよう。このまま隣町まで行って、あのビルに行って、そして……”


 ――その先を想像した瞬間、灯夜はぴしゃりと自分の両頬を挟むように叩く。


「……うん、それは、駄目なんじゃないか」


 ……逃げ切ったとしても、目の前の怪物はどうあっても自分を追い続けるだろう。

 灯夜はそう確信していた。


 根拠はあった。一度取り逃がし、そして殴られて頭部を半分失い吹き飛ばされたとしてもこの怪物は灯夜を諦めなかった。

 だとすれば、このままあのビルへ逃げることは――そこにいるあの少女の下へ、そして人がいるかどうかもまだ確認していない隣町へこの怪物を連れていくことに等しい。


“……いやぁ、”


 気付くんじゃなかった、と少し後悔する。

 けれど気付いてしまった以上、それが可能性の話であったとしても。

 実際に殺されかけることで怪物の恐ろしさを身を以て知っている灯夜に、逃走は選べなかった。


 ……そもそも隣町へ行かないという選択肢もあるが、そうしようとは思えなかった。

 ならば。

 その先は、既に知っていた。


「あ゛ー! ままならない!」


 叫びながら一歩前に踏み出す。

 強く地面を踏みしめ、不格好に構えた。


 怖くない、と言えば嘘吐きだ。

 体は震えているし、怪物を直視するのも恐ろしい。

 けれど、目の前の化け物は灯夜が隣町へ行く上で無視することの出来ない障害だった。

 倒せるかどうかも分からないが――。


“どうせこの力がなきゃ死んでるんだ、ボーナスタイムを貰った気持ちでやってやるさ……!”


 意地を張る。

 拳を握る。

 ……無限に再生し続けるのだとすれば、打つ手なんてないかもしれない。


 ――再度飛び込んで来る怪物を迎え撃つ。

 拙い戦闘が、始まった。






     ※






「ぐっ……!?」


 肩口を爪で切り裂かれる。


「っ――!」


 カウンターで顔面を殴り飛ばす。

 しかし吹き飛んでいった怪物はくるん、と空中で一回転し、吹き飛ばされた先にあった樹氷の幹に着地した。そして灯夜が驚く暇もなく、頭部の上半分を失ったはずの怪物が幹を蹴って灯夜目がけて一直線に飛来する。


「な――」


 予想外の攻撃で回避が間に合わない。

 狙いは首。がばりと大きく開いた顎が迫る。

 ――咄嗟に腕を上げて防御した。首への噛みつきを、腕を犠牲にして受け止める。

 乱杭歯がぐちゅぐちゅと腕の肉を噛む気持ちの悪い音が耳元で騒ぐ。


「いっづ、!? あ、ぁああああ――ッ!」


 激痛から逃れるように腕を振り回し、皮と肉ごと怪物を引きはがした。

 ――そして、再生。

 切り裂かれた肩と、食いちぎられた右腕が瞬く間に元通りになる。


「ふーっ、ふーっ……!」


 尋常ならざる身体能力と再生力。それが灯夜が目覚めた二つの力。

 その二つに、激痛を和らげる、あるいは遮断するような機能は無い――つまり、痛みはどうにもならない。

 脂汗が、滴る。


 そして灯夜の後方数メートル先に着地した怪物の頭部もまた、ビキビキと音を立てながら元に戻っていった。

 目尻にたまった涙をぬぐうこともせず、息を荒げて怪物を振り返る。


 ――脳内を埋め尽くすのは、後悔と不満。

 どうして自分がこんな目に。何故。何故。何故。

 けれど。


“――旗を振ってるのは、誰かに見つけて欲しいってことだ……あの子も、俺と同じで一人ぼっちなんじゃないか”


 他にも人がいるならそれでいい。

 しかし唐突に自分以外がいなくなった氷漬けの町の中に一人で放り出される気持ちを、灯夜は痛いほどに良く知っている。

 だから感情移入してしまう。

 ――まさしくあの旗を振っていたあの少女は、その誰かを見つけられなかった場合の未来の自分自身なのではないか、と。


“……混乱して変な事考えてるな、俺。でも――”


 妄想の類だろうと。

 自分を重ね合わせてしまうと、どうしてもその少女の下へ行くべきだと思った。

 自分のためにも、相手の為にも。

 そのために、目の前の怪物はどうしても邪魔なのだ。


 ――とはいえ、勝ち目は見えない。

 攻撃を幾度も受け、手足を裂かれ、皮と肉を食いちぎられる。

 痛い、痛い、痛い。

 諦めて逃げ出しそうになるのを、ぐっと堪えながら戦い続ける。

 次第に痛覚が麻痺していき、傷を負うことを厭わなくなる。


 そしてなりふり構わない戦いを通して――灯夜は自身が目覚めた力の本質を理解していった。


“……この力には底がある”


 車に例えるならばガソリンのようなものが必要なのだ、と灯夜は理解する。つまり、力の大元。この異常な身体能力と再生能力は、灯夜の内側にあるその不可解なエネルギーを消費して実現しているのだ。


 故に力は無尽蔵ではなく、限度がある。

 そして灯夜には先ほど力に目覚めた直後、怪物に切り裂かれた体を治した時にエネルギーの大半を消費したという感覚があった。


“さっきレベルの大怪我を負わなきゃ保ってあと二分くらいか……!?”


 焦る。

 しかし――鉤爪が脇腹を裂く。

 再生。

 ――怪物の頭を叩き壊す。

 再生。


“埒が、明かない……っ!”


 殴る。切り裂く。蹴る。噛みつく。

 お互いに攻撃し、傷を治すことを延々繰り返す。

 しかし力を持続させるためにエネルギーを消費し続ける灯夜と違って、怪物にそういうエネルギーの限度があるのかは全く分からない。


“何か無いのか、人間で言う心臓みたいな分かりやすい弱点は――!”


 とはいえ攻撃を何とかさばくので手一杯で、あるかどうかも分からない弱点を探る事もロクに出来ない状態だった。


 ――だからこそ、それは単なる偶然だった。


 たまたま舞い上がった雪で視界が狭まり、怪物の鉤爪を弾こうとした腕の狙いが逸れた。

 振るった腕が怪物の腹を捉えた――途端、怪物は灯夜の首元を切り裂かんとした鉤爪をぴたりと止めると、初めて灯夜の攻撃を躱すように後ろへ跳んだのだ。


「なっ――」


 ――今のは、明らかに様子がおかしかった。

 ずっと攻撃一辺倒だった怪物が、初めて退いたのだから。

 だとすれば、その意図は――。


「……何を、隠してる」


 光明を。

 掴み取る。

 ――ここで初めて、灯夜は自分から怪物へと突っ込んでいった。


「こ、の――ッ!」


 振り上げられた両の鉤爪を、振り下ろされる前に掴んで受け止める。


「ぐ……っ!」


 刃のように鋭利な鉤爪がそれを握りしめる掌と指に食い込み、雪原に血がしたたり落ちる。

 だが。


「これで、身動き、取れない、だろ――ッ!」


 完全に、動きは封じた。

 そして、腕がなければ――!


「――ッ!」


 その鋭い牙を首に突き立てられる寸前に、灯夜は怪物の前腕を思いっきり自分の側へ引っ張りながら怪物の腹部を蹴り上げた。

 ――破砕音。

 鼓膜が割れるほどの金切り声を上げながら、その場で怪物がもんどりうつ。


「大人しく、しろ――!」


 その四足を、靴底で蹴り砕く。


「はぁ……はぁっ……!」


 ――賭けに、勝った。

 明確に再生速度の下がったダルマ状態の怪物は、しかしそれでもその場で魚のようにのたうち回っていた。そしてなぜか明らかに再生していない怪物の腹の亀裂の奥底に、きらりと光るものを見つける。


「……ただの願望だったけど、ホントにあからさま、弱点っぽいトコあるんだな。お前……」


 亀裂の奥に見えたそれは、拳ほどの大きさの歪な青い結晶だった。透明な体の中にあったのに見えなかったということも、何だかそれが怪物にとって大切なものなのではないかという予想を裏付ける。


 蹴飛ばした拍子にひび割れたそれ目がけて――、


「これ、で――!」


 拳を振り下ろす。

 ――ガキィン! と。

 甲高い金属音と共に、水晶が割れる。

 そして――割れた水晶を中心にして、怪物の全身にヒビが走った。


「……」


 ……弱々しい断末魔と共に、怪物が氷の破片となってぱらぱらとその場に崩れていく。

 どれだけ待っても、その体が再生することは無かった。


 ――その場に、倒れ込む。

 ごろりと雪上で仰向けになった灯夜の体は震えていた。

 当然、力の影響で寒さを感じない灯夜が寒さに震えることは無い。

 であればもちろん、震えの原因は――。


「――。しんどい」


 弱々しく突き上げた握りこぶしは、すぐにぱたんと凍った地面に下ちた。






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