(3)

 





    03



「……う、ぁ」


 目覚める。

 ゆっくりと、瞳を開く。


“――生きて、るのか……?”


 朦朧とする意識が、次第にはっきりとしていく。

 指先に力が戻る。ゆっくり体を起こして辺りを見回せば、そこは樹氷の森の中だった。

 平らな地面は短い雑草ごと凍っていて、その上に雪と霜がまばらに積もっている。

 空は、変わり映えしない灰色。


 ……記憶が混濁している。

 しかし、思い出せないわけじゃない。


「そうだ、確か……」


 思い出す。

 氷の怪物との邂逅を。


 ――ズキン、と一際強く頭が痛んだ。



     ※



「――」


 気圧された。

 眼前に迫った怪物の顎。ずらりと並んだ乱杭歯を前にして、恐怖で一瞬、腰が抜けた。

 そのおかげで、助かった。


「あ、」


 その場で尻餅をつき、背中から倒れ込もうとする体を支えようと後ろへ突き出した手が滑った。

 体制が崩れる。

 ごん、とガードレールに後頭部を打ち付け、


 ――真上を、掠めるように何かが通過した。


「……、な」


 頭上でがちりと音を立てて閉まった顎の主が、透明な氷の瞳で灯夜を見下ろしている。

 ぞっ、と背中一杯に怖気が走る。

 その顎が、また開いて。


「う、あ、わああああ――!?」


 咄嗟に開いた大きな嘴のような顎の中にリュックを押し付け、必死でその場から駆け出した。

 凍った道路上を外れ、樹氷の森の中へと飛び込む。


「はぁ、はぁ……! なん、何、何なんだアレ……!?」


 舗装も何もあったものではない山の斜面を必死で駆け下りながら振り返り、絶句する。


“あいつ、リュックを紙きれみたいに……!?”


 怪物はさっそくこちらを追いかけて来ていた。早い。追いつかれる。

 そしてそれ以上に――まるでリュックサックを簡単に噛みちぎる光景に、心底ぞっとさせられる。

 怪物の口の端から、折れた懐中電灯が零れ落ちた。


 彼我の距離はぐんぐんと詰まっていく。

 体格が大きい分、灯夜と違って怪物は木々を大きく避けながら進まなければいけないようだったが――それでも、あと十秒もしないうちに追いつかれることは容易に想像できた。


「ぐ、……!」


 ――あれが一体何であるのか。


 全くもって不明だが、灯夜にも確実に分かることが一つあった。


“アレは、俺を喰い殺すつもりだ――!”


 ……背後を何度も振り返りながら、考え事をしていたのがいけなかったのだろう。

 前方への注意が散漫だった。

 だから、踏み出した右足が空を切った。

 追いつかれるまで、あと一秒程度の時だった。


「――は、」


 木立を抜けた先に、唐突に切り立った崖が広がっていた。

 空中に突き出した足は当然、何も踏むことなく――バランスが崩れる。

 急に立ち止まることも出来ず、そのままほとんど地面と垂直に近い斜面を転がり落ちていく。


「――!?」


 上下と、前後左右が一気にごちゃ混ぜになる。

 三半規管がイカれる。

 全身を衝撃が襲う。


 そんな中、ぐるぐると回る視界に一瞬――遥か遠く、切り立った影際で立ち止まる怪物の姿が見えた。

 ――意識が、暗転する。



     ※



「……俺、良く生きてるな」


 ぼそっと呟く。


 雪と霜、そしてその下にある凍り付いた草木。

 地面を覆うそれらがクッションの役割を果たしたおかげで助かったのだろうが、それにしたって死んでいてもおかしくないような状況だったというのに、本当に運が良かった。

 ただ、決して五体満足という訳ではなく――。


「づぅ……ッ」


 動かそうとした左足の足首にズキン、と鈍い痛みが走る。


 靴下を引っ張って中を覗いてみれば、くるぶしの辺りが大きく腫れ上がっていた。転がり落ちた時に捻ってしまったらしい。

 ……普通ならこの程度で済んだことに感謝こそすれ、ましてや恨むことなどないだろう。

 だが、状況が状況だった。


“こんな時に捻挫……いや、骨折するよりいい。歩けなくなるよりマシだ”


 ずきずきと痛む足首を意識し、出来るだけ体重をかけないようにしながら立ち上がって周囲を警戒する。


 見上げた先、自分が飛び降りた崖際はかなり遠く、意識を失う寸前に見た怪物の姿はそこにない。

 あの怪物も、流石にこの崖を飛び降りてまで灯夜を追いかけて来ることはしなかったらしい。

 どれくらいの間気絶していたのかは不明だが――。


“諦めた、のか……? しかし何だあれ、UMAか? というか全身氷で出来てたよな。生き物じゃないだろ。どうやって動いてるんだ……!”


 考えはまとまらないが、ひとまずあんな怪物のいる場所に長居はしていられない。

 アクシデントのおかげでなんとか逃げおおせられたが、足の怪我を考慮すれば、次に見つかった時には――それを想像して灯夜は身震いした。


「あの崖の位置を考えると、隣町はあっちの方だよな……」


 雪原に不揃いな足跡を残しながら、歩き出す。


「……」


 倒れていた時に服や靴の隙間に入り込んだ雪や氷が溶け、服の中に染み込んで体が冷える。

 濡れた衣服の感触が、どうにも気持ち悪い。

 ……そして何より、気が滅入っていた。


「……」


 凍り付いた街。

 消えた人々。

 氷の怪物。


 ……音を立てて心が削れていくのを感じていた。

 余裕がないから、弱気な思考が脳内を暴れまわる。

 疲労感が茨のように全身に絡みつく中、


「……!」


 ――遠くから、微かな足音を聞く。

 はっとしながらそちらを見る。がさがさと音をたてながら、音の主は徐々にこちらへ近付いているようだった。


 ……熊のような、野生動物かもしれない。

 しかし頭はこの短時間で鮮明に脳裏に焼き付いたあの姿を想像してしまう。

 姿は見えずとも、木立の奥で動くその姿を。


「っ、ちくしょう……!」


 方向転換し、音の聞こえた方とは真逆へ、足を引きずりながら急ぐ。


 ……その後は、ひたすら足音から逃げていた。

 倒れた樹木を乗り越え、枝に躓いて転び、体中を雪と霜塗れにしながらも必死で逃げ続けた。


 ただ逃げる事だけを考えていた。

 だから――どれだけいっても真っすぐ追いかけて来る足音からして、確実に灯夜を見つけているはずの筈の怪物がどうして早く無防備な獲物に喰らい付かないのか、それに考えを巡らせる余裕がなかった。

 冷静に考えていれば気付けたかもしれないその理由を悟ったのは、どん詰まりにたどり着いた後。


「……嘘だろ」


 樹氷の森の中を抜けた先にあったのは広い窪地だった。森以外の三方向を急角度の斜面に囲われた、逃げ場のない雪原。

 その中央付近までふらふら歩いたところで、ここまで背後からずっと聞こえて来ていた音がぴたりと止んだ。


 振り返れば、そこに怪物がいた。

 ――醜悪な、笑みを浮かべていた。


「――」


 ここに追い立てられたのだ、と理解したのはその時だった。

 怪物が、鋭利な鉤爪を甲高い咆哮と共に振り上げ、灯夜へ向けて突き進む。

 それをただ、眺めている事しか出来なかった。



     ※



“――、”


 怪物の動きが、やけに緩慢に見えた。

 ゆっくりと振り下ろされる怪物の鉤爪を見据えながら、灯夜の考えた事はいたってシンプルだった。


“――死にたくない”


 しかし逃げることは出来ない。

 相手の方が速く、仮にそうでなかったとしても、この逃げ場のない場所と足の怪我がそれを許さない。

 ならば、どうすればいい。

 ――決まっている。


“目の前のコイツを、倒す・・しかない”


 理解する。

 逃げることができないのならば、己の手で打ち倒すしかないと。


 だが――どうやって?

 容易くを鉄を噛みちぎるような埒外の力を持つ怪物に対して、自分に一体何が出来るのか。


 ……そう、何もできない。

 肉を切り裂かんとする凶器を前に、灯夜はそう結論付けて全てを諦め、目を閉じようとして――、


 これまでで一番強い頭痛が刹那、脳天を穿つように走った。


“……、あ?”


 そして気付いた。

 あるいは、気付いてしまったと言い換えるべきだろうか。

 知らない間に自分の内側にあった、その存在に。


 ――ガンガンと、脳天に杭を打たれるような酷い頭痛がする。


“知らない”


 内側で鼓動するそれに対して灯夜が真っ先に抱いた感情は、恐怖だった。

 ……強い眩暈がする。

 鳴り止まない耳鳴りが、灯夜に早く目覚めろ・・・・・・と鳴き叫ぶ。

 だが――。


“こんなの、俺は知らな――”


 拒絶した瞬間、


「が、」


 爪が、肉に食い込んだ。


 ――左肩から右腰まで、防寒着とその下に着ていた服ごと、紙をカッターで切るように裂かれる。

 皮が裂け肉が千切れ血が飛び散り痛い、痛い痛い痛い痛い痛痛痛――――、


「――かっ、」


 咳き込むような悲鳴と共に、その場に倒れ込む。

 雪原が血の赤色に染まる。


 ――傷は臓腑まで達していた。

 呼吸が出来ない。

 それが肺と横隔膜が切り裂かれたからだという事も、灯夜には分からない。

 息が吸えない。

 全身が痛い。

 ――傷口が、熱い。


 どうして? 何で、何故――疑問で頭が一杯になる。


“……、あ”


 怪物が後ろ足で倒れ込んだ灯夜の体を踏みつけ、そのまま、大口を開けて喉元に食らい付いた。


「――」


 ぐちゃぐちゃと耳の側で肉を噛む音がする。

 びぃー、と何かが伸びる音がする。

 もごもごと動く怪物の嘴の先から、千切られた肌色の布切れのようなものが覗いている。

 それを、曖昧な意識の中でただ茫然と受け入れる。


 ……既に痛覚は振り切れていた。

 次いで体の熱が消えていく。

 冷たい空気に、凍った世界に、瞬く間に奪われていく。

 そして――次第に、意識さえも、薄れていく。


“……いやだ”


 思考さえ、遂に途切れる刹那。


“こんな、何もかも訳の分からないまま、死ぬのは――”


 それの存在を、ようやく受け入れる。

 ……グリップと、引金。

 最初から灯夜の中にあったそれを、ぐっと強く握りしめる。引金に指先で触れる。

 そして――。


”――嫌だ”


 目覚める。

 引金を、引いた。



     ※



 直後。


「――」


 全力で――灯夜は、怪物をぶん殴った・・・・・・・・

 彼の体には、傷跡一つ・・・・残ってはいなかった。


「……、は?」





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