第三十一節 花屋の店終

 意識を取り戻したとき、私は家に居た。体中が熱い。頭を動かせない。目を動かすと、それだけで後頭部が引きつった。

亜母あおもさま! 私が、私が分かりますか、ひこです。貴方の弟子です。愚かな貴方の弟子なのです。」

「………ひ、こ?」

亜母あおもさま、亜母あおもさま、一体何がお有りだったのですか。いいえ、何故私は貴方さまを一人で行かせたのでしょう。亜母あおもさま、どうか神罰を取り次いで下さい、愚かな私に貴方の苦しみの一切を寄こして下さい。…いいえ、いいえ、違います、違いますね。今皆呼んできます、お客様もいるので。」

 そう言って、ヒコはぱたぱたと走って行った。

 なんだろう、酷く身体が心地良い。熱くて、流れて、身体の悪いものが全て出て行くような。

 ばたばたと人が沢山入ってくる。ああうるさい、何がそんなに慌てることがるのだろうか。

「お父さん! お父さん! 私です、若枝わかえです。貴方の息子の方が生まれたので連れてきたんです。」

「…わか、え? …なんで、ここに………。きびすは、どうした?」

 私を覗き込んでくる、女の顔。少し痩せているようだが、面影がある。でも彼女は、私が嫁がせた筈で、エルサレムに居るはずだ。私が尋ねると、彼女は小さな男の子を見せた。あうあう、あうあう、と、両手脚を伸ばして、私の顔に振れようとしてくる。

「ご覧下さい、お約束通り、私は男の子を二人産みました。長男を夫の跡継ぎに、次男をその兄の跡継ぎに据えます。ですからお父さん、貴方の息子です。貴方の娘が産んだ、貴方の息子です!」

「………そうか、こどもか。」

 なんだか難しい事を言っているが、元気な男の子がいるというのは良いことだ。

「なまえ、は?」

瞻仰せんぎょうです。父親と同じ名前です。この子には誇り高い貴方の名前をつけました。」

「せんぎょう………。せんぎょう………。」

 そういえばそれは、私の名前だったか。何故捨てなければならなかったのだっけ。

「○×!」

 形容しがたい、懐かしい言葉が聞こえた。

「ああ…。ひこ、ヒコ。そこにいるんだね…。ぼくのところに、もどってきたんだね。」

 誰かが何かを喋っている。

「ずっとあいたかったよ、ヒコ。おまえはいつでも、ぼくになかされてたね。ごめんね、ひどいことをしたね。ぼくはなんども、おまえをうらぎったね。ごめんね。」

 私が幼子に手を当てると、ふわふわの頭髪が、固くなった指先に引っかかった。

「きびす…。そこにいるかい?」

「あ…あの、お父さん。夫は…きびすさまは、その、とても偉くおなりになって、今はここに来れなくて。」

「しんじゅは?」

「ここに居るよ、瞻仰せんぎょうちゃん。おじいちゃんはずっと一緒にいたよ。」

 他にも何人か、私を亜母あおもと呼ぶ声が聞こえたが、彼等の顔が見えない。

「しんじゅ、ぼくは、いますごく、ふしぎなきぶんだ。…なにがおこってるんだい?」

「あ、ええと…。今、瞻仰せんぎょうちゃんにはメシアの恵みが降り注いでいるんだ。だからその、不思議な気分なんだろうけど…。その、あの、どこも、痛くないのかい?」

「………。しんじゅ、ほんとうのことを言って。」

「………。」

 神授しんじゅが泣いている。ああ、泣かないで、ぼくの爺さん。ぼくの幼き頃に見た誰よりも、ぼくの祖父としてぼくを守ってくれた人。

「…酷い傷を負っている。酷く血が流れてて、身体の一部が黴と腐敗で削れてて…。その、特に、性器の周りが酷く膿んで爛れてて、脚の、踵の辺りまで色が変わってる。多分、そうやって穏やかにしていられるなら…痛みが無いくらいに、腐ってしまってるんだと思う。」

 何人かが泣き出す声が聞こえた。

「せいき…。ああ、そうか。ぼくは…しんでんで、ばいしゅんをして、そのあとも、かんつうを、くりかえしたから…。だから、いま、さばかれるんだね。ああ、おもいだしてきた。そうだ、ハチュカルだ。ハチュカルをそえて、せいどうに、かざらないと。でも、どくがくだな…。だれか、おしえてくれるひとを、みつけないと。」

「私が教えます!」

 誰かが叫び、若枝わかえとヒコの隣で私の手を取った。その手は酷く冷たい。

「ハチュカルでも、何でも、私が全てお教えします。オスロエネのこと、パルティアのこと、聖堂の作り方直し方、全て全て、私がお教えして償います。だから、あお―――瞻仰せんぎょうさま! 私に償わせて下さい!!」

「………。ひこ、なかないで…。なかなくて、いいんだよ。」

 ぼやけてよく見えない中で、顔に手を伸ばそうとするが、届かない。目測では届いている筈なのに。するとひこは、私の掌に顔をすり寄せ、凍えるように冷たい手で私の手を包んで、また泣いた。

「わかえ、わかえ、きいて、きいて。」

「………はい、おとうさん。」

 若枝わかえが私の顔の近くに移動する。声が聞こえるように、すぐ隣にヒコがいる。

「これからさき、なにがあろうとも………。おまえは、しんじゅのむすめで、きびすのつまだ。いいね?」

「な、なにを………。」

「…ぼくは、おとこのみで、しょうふとして、くらした。だから、きみもみたんだろう? ぼくの、ふかんぜんな、ところを。こじきだった、おまえをひろって、…よかった。ぼくの、このからだで、ぼくがこのからだで、すべての…しょうふたちの、けがれとよごれをもっていく。だけどそれは、ぼくとかのじょたちだけが、しっているのであって………。ほかのおとこにもし、しられたなら、おまえはよごされてしまう。………わかるね?」

「………分からない。分かりません! だってお父さん、私は汚れてません!! きびすさまは私を大切にして下さっています。妾も作らず、一心にメシアに身も心もお捧げに…。いつも神殿で暮らして、祈っています。もちろんお父さんのこともです! 汚れてなんかない、汚くなんかないッ! お父さん、どうか本当のことを仰って。すぐにでも彼等に、ソドムのいかづちを下すように、メシアに祈ります、だからそれを見届けて下さい―――お願い、まだ死なないで! 貴方の息子は、まだ成人してないんです!」

「あうあう。」

「ひこ、ひこ、わかってる。あとひとことだけ、いわせて。ね?」

「たいたいっ。」

 ぺたぺた、と、ヒコが私の額を叩いた。神授しんじゅ若枝わかえひこ、ヒコ、それからよく顔の見えない大勢の人々。皆が私を惜しんでくれている。私のように、性器を腐らせ、全身を黴に食われた今でも、穢れが移るのを恐れず私に触れて泣いている。

神授しんじゅ。」

「…はい。」

 力を込めて、私は言った。

「聖堂が建ったら、後はひこに任せて、オスロエネ全域に行け。オスロエネのどんな小さな町も村も、穢れの谷すらも逃さず、遍く歩いて行け。そうしたら―――きっと、君を労いに、メシアがやってくる。」

「…うん、わかったよ。おじいちゃんもまだまだ現役だからね、まっかせなさい! はっはっはっ! …ほら、皆笑って! はっはっはっ! はっはっはっ!」

 引きつった笑い声。渇いた演技。空虚な微笑みが、部屋をいっぱいに包んだ。身体の先が冷えてくると、それだけ掛布の中の温もりが私を暖めようとする。胸がこの部屋の賛美の高鳴りに合わせて、静かに波打っている。

 ああ、もうおわりだね。そうだね、ここからは、もうでなくちゃ。

「―――さようなら。ぼくのことは、どうか忘れて、きよく正しい道を歩みなさい。」

 嗚呼、陽が沈んでいく。この世の光が沈んでいく。だが心配する必要は無い。陽が沈めば、月と星々が夜道を照らす。楽園を守る天使が、楽園へ到る者達を守らない訳が無い。月が沈めば、また陽は昇る。そうしてこの世に光が途絶える事は無い。雲はいつ迄も空に掛からず、雨もまた、いずれは止む。全ての空を支配しておられる光は、私だけを忘れ、私という姦婦だけを忘れ去った聖なる普遍の教会を照らして守るだろう。

 私はそれでいい。私のこの穢れた身体で、少なくとも若枝わかえだけは、守ることが出来た。乞食でめくらで足萎えで。それでも最後は処女のまま嫁に行き、男児を二人も産んだ。もし私というメシアの血縁者が必要だったとしても、その子は若枝わかえきびすの子供であり、傍系としてきびすの子を支えてくれるだろう。そのような未来が見える。そう遠くない未来に絶えてしまう、若枝わかえの息子とその子孫達。それでもその期間、多くの信徒達にとって、メシアの血族という求心力は確かに必要だった。彼等もまた、ユダヤ教ナザレ派がエルサレム教団になったように、更なる教団の進化に貢献し、その重責から解放されたなら、やはりメシアの労いが訪れるだろう。

 その先は、信仰に紐付けられた家族が、子孫が、教団を繋いでくれるのだ。幾度とない過ちと忘却と、無責任の全てを、私が持っていこう。

だからどうか、我が神よ。いかなる悪逆無道の限りを尽くしても、貴方を慕う使徒達を見捨てたまうな。見捨てられるのは、私だけで良い。

どうか私だけを忘却して欲しい。私はそうして、この世の全てから忘れられた人の元へ行き、その霊を慰めよう。その為には私自身が、忘却されなければ。忘却された敗北者を、私は守護し、神の救いを取りなすのだから。






 さらば、さらば、さらば。穢れに満ちた我が人生の星々に、平和あれ。

 我が名は瞻仰せんぎょう。神を慈しみ、神を愛した男。そして、忘れられるべき呪われた使徒。

 さらば、さらば、さらば。

 我が愛に罪は在ろうとも、我が愛する人に、永遠の昔から、永遠に至るまで、咎を負わすこと勿れ。


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