白昼夢  神を愛した男

 炎が散る音がする。楔を燃やし、命無き者が叫ぶ声がする。その声は掠れていて、もうずっと何も飲んでいないことが窺えた。

 嗚呼、そうか。ここは地獄だ。以前、私の弟が地獄はこんなところだと言っていたではないか。ここにいる者は、嘗て見下した者達が潤っているのを、激しい炎の中から見ていなければならないのだ。彼等がどんなに舌を渇かし、渇いた糸瓜へちまのようにしても、潤った彼等が顧みる事は無い。何故なら彼等は、彼等を顧みなかったからだ。

 そして私は、の方の人間なのだ。

 フム、と、私は納得した。人の形をした炎、いずれ私もあまりの熱さにあのように火そのものになるのだろうが、それでも浄火が足りない程度には、悪い人間だった自覚はある。

 それが正しくないことは知っていたし、誰もが疎んでいるということは知っていた。けれども、私はそれが悪いこととはどうしても思えなかった。だから懺悔をしなかった。私は何も悪いことはしていないし、もし私の職業を神の前に述べよと言われたら、堂々と答える。―――私は、娼婦だと。

 神の輩に憧れもした。一人の娘を嫁に行かせる夢も見た。しかし私は娼婦である。例えようもなく私の人生には、人の体液が纏わり付き、私の唇から零れるのは唾液ではなく、客の精液であり、私の死ですらも、性欲に彩られていた。

 後悔があるか、と言われれば、無いと答えよう。

 疑問があるか、と言われれば、有ると答えよう。

 私には分からない。そのようにしか生きられない私達が、何故職業を非難され、生き方を詰られなければならないのか。私達がいなければ、多くの男共は自分の情けなさを棚に上げて、日照りに雨を降らせに行くだろう。その雨は、女の涙の雨だ。無慈悲に手折られた破瓜の血だ。だが、私達はそれを解消できる。私達は雨乞いの巫女だ。女日照りの男を、一人残さず潤してやることが出来る。

私達は社会に拒絶され、蔑まれる。だがその社会は、誰よりも私達を必要としている。

だから私は、神の前に堂々と胸を張って言える。

『私は娼婦だ。貴方の教えを知っていたが、淫行をした。だが何故それが罪なのか分からない。私は仕事をしただけなのに。』と、私はそう答える。

ああ、でも、でも、なのだ。でも、ダメなのだ。

神が否やと言ったら、それは否なのだ。神が悪だと言ったことは、無条件に、無抵抗に受け入れなければならない。理屈をこねるのは悪魔の所業だ。私達は神に服従し、赦しを乞わなくてはならない。

性器を使った仕事をしてごめんなさい、と、赦しを乞わなくてはならないのだ。

「………ふん。」

 ふぅん、と、私は結論に達した。ふぅん、これが、私の末路か。神を育て、神に仕えた私の末路か。まあ、悪くない。火になる前の人間の姿は見えないが、恐らく私の客達は生贄を捧げる事が出来る金と地位があっただろうから、こちら側にはいないだろう。

 歩いた所で、何処も炎熱地獄だ。私は特に何の根拠もなく、今立っていた場所に座った。火がふわふわと私の尻と掌を撫でる。

「………。」

 悲鳴が聞こえている筈なのに、静かだった。灼熱の筈なのに、心に冷たい風が吹いている。目を開けていると、火の形を解釈したりし始めて疲れそうだったので、目を閉じた。暗い。

「鎮まれ。」

 ふと、声がした。私は目を開いた。

 陽だ。太陽が、私の目の前にある。入り口からは遠く歩いたと思ったが、その陽は門を背中に背負っている。

「何してるの? にっちゃ。」

「何してるって………。」

 数十年ぶりに聞いたその声は、舌っ足らずで甘ったれた、男の腐ったような声だった。あまりにも懐かしく、今となってはあまりにも残酷な声だ。

「地獄に落ちてんだよ。」

「ここが?」

「ここが? じゃねーよ。ここが地獄じゃなかったら何だってんだ。お前の描いている神の国は燃えてんのか。」

「んー、そういう燃え方は良くないね。だから鎮めちゃった。」

 見て見て! と、手を広げるので、私は周囲を見た。火は踊っていないが、消えてもいない。燻っているようだった。

「おいおい、こんなことしていいのか?」

「なんで?」

「なんでって…。お前、カミサマだったんだろ? なら、地獄を無くしちゃダメじゃないか。せっせこ生贄をあげてる祭司どもが可哀相だ。」

「え、だからって、にっちゃがここにいる理由にならなくない?」

「お前ね。神の子自ら、地獄を否定してどうするんだよ。」

「んー、ボクとしては、別にあってもなくても良いけど、あった方がいいっていうなら、残しとく。」

「おうおう、残しといてくれ。じゃ、ぼくは燃やされてないとダメみたいだから、とっとと帰れよ。」

「え、やだ。」

 拒否された。私が駄々をこねるように大の字に寝っ転がると、ふわふわ、ふわふわ、と、火の細い端が頬を撫でる。

「にっちゃが迷子になっちゃったから、迎えに来たんだよ。」

「馬鹿言うない。ちんこ腐って死んだ男なんぞを受け入れる天国なんざな、異教の神殿にだってねえよ。少なくともエジプトにもオスロエネにもなかったぜ。」

「ないなら創っちゃおうか。うん、そうしよう。ここを、ちんちんとかが腐って死んだ人が住みやすいところにしよう。」

「とかって何だよ、とかって。全能の力をそんな知識に使うな。」

「ここは草原だよ、にっちゃ。にっちゃの頬や手に触れているのは火じゃなくて、草なんだ。ここには綺麗な河がいくつもあって、自分の気が済むまで、幾らでも身体が洗える。柴の樹が沢山あるから、水から上がっても、薪がなくて凍えるなんてことはない。そよ風がずっと吹いているから、服もすぐ乾く。それで天使達は、ここにいる人たちの準備が整ったら、呼びに来るんだ。それで―――。」

「待った待った待った! ヒコ待った! お前がそんなこと言うな! 本当になっちまうだろ!」

「ん? そうだよ、創り変えてるの。」

「そんなことしてみろ、お前の国にいる義人聖人が黙っちゃいないぞ。神の正義がないって!」

「? 正義なのに、何故人が決めるの?」

 その言葉に、思わず詰まってしまった。

 そんなこと言ったら、考えてしまうではないか。私は、娼婦のまま楽園に行って、娼婦のまま、神に救われると考えてしまうではないか。

「………。お前が、十戒やらなんやら、色々決めただろ。」

「そうだよ。でもそれは、不完全だったんだよ。だからボクが来たの、母さんに協力してもらって。」

「実際、お前も『もう罪は犯してはならない』と言ったじゃないか。だけどそいつは、また罪を犯したんだ。」

「そうだね。」

「なら、なんでここにいるんだよ! お前は、お前の為に働いた義人聖人の相手をしてなきゃならないだろ! 花婿なんだから!!」

「え、だってにっちゃが………。」

「だってじゃない! お前は神の子になってもまだ甘ちゃんだな!」

「義人が揃わなかったから、迎えに来たんだよう。」

「それじゃ人違いだ。ぼくの知ってる義人は、神の忠告は一度で聞き入れるような奴だから、ぼくの知る範囲にはいないよ。」

「それはにっちゃの義人でしょ? ボクの義人は違うよ。」

「………。お前ね、お前のことだから、ぼくのことも義人だとか言うんだろうけど、そうしたら、ええ? 父さんや母さん、侏儒しゅじゅ桂冠けいかんきびすとなんかの、善良な市民と売女のぼくが、同じ席に並ぶって事だぞ。それ分かってんのか?」

「うん。父さんも侏儒しゅじゅ桂冠けいかんも、―――きびすも、瞻仰せんぎょうも、神にとっては皆等しく義人だよ。」

 突然雰囲気が有無を言わさない感じになり、怯む。しかし私は、に行くなら、どうしても解決しなければならない疑問があった。

に、嗣跟つぐくびすはいるのか?」

「いるよ。迷わずに来たよ。」

「あんのやろ。…嗣跟つぐくびすがいるなら、行きたくない。」

嗣跟つぐくびすはちんちんもたまたまもない姿だよ?」

「なんでだよ。おっぱいぼいーんのお女子めこつやつやにでもなったのか?」

「どっちもないよ? にっちゃはそのどれかが欲しいの?」

「いらんわ!!」

「ならいいじゃん。ボク、言ったよ? 天の国では、男も女も、娶るも嫁ぐもないって。天使みたいになるんだって。」

「………。」

 想像出来ない。けれども同時に、想像しなくていい、という気もする。それは、投げ槍になったという意味ではなくて、ただ、目の前の陽が、言う通りなのだろうという事だ。理屈ではなく感覚で、言葉ではなく気持ちで、けれども、理性がそれを邪魔する。

「にっちゃ、にっちゃは、ボクが正気で十字架にかかったと思うの?」

 ぞっとして、私は顔を上げた。

「その話はするな。本人が良くても、ぼくはいやだ。」

「………。」

「…心底、馬鹿じゃねえのって思ってたさ。…でも、死ぬ間際になって、ぼくのちんこが腐った代わりに、若枝わかえの何処にも穢れや病気がないんだって思ったら、死に甲斐があったよ。」

「うん、ボクも死に甲斐があったよ。苦しかったし痛かったけど、その代わり、ボクの友だちが、こんな風に苦しまなくて良いんだって分かってたから、だから最後まで、自分の意識を保ったまま、十字架の上にいたんだよ。―――別に、それが初めてじゃなかったしね。」

 その言葉が、何故か私の心に妙に響いた。

「………じゃあ、初めてって、…なんだったんだ?」

 聞いてはならない。聞くべきではない。もし聞いてしまったら―――私は、それを伏して断罪を乞わなければならない。

。ボクは母さんから生まれてから、にっちゃの痛いところは、全部ボクのものにするように、涙もボクが流すように、父に頼んだんだ。―――そうでないと、にっちゃは気が狂っちゃうと思ったから。」

「…思った? 決まってたんじゃ、ないのか?」

「ボクがもし、その苦しみを一人で抱えてたら、狂ってしまうと思ったよ。」

 ぼろり、と、目玉が落ちた。、これは、涙だ。私が、涙を流している。目の表面が剥がれて落ちて、目の真ん中が鼻にとろけて落ちていく。これは涙だ。これが涙だ。エジプトに行って、いつの間にか流れなくなった涙だ。

 ずっと、私は冷徹だと思っていた。自分がエジプト人のあの主人を殺して以来、涙を流さなくなったのは、一緒に私の心の柔らかいものも奪われたまま、戻ってこなかったのだと思っていた。身体の痛みがないのは、恵みではなく罰だと思っていた。ずっと不自由の無かった、痛みのない身体というものが、自分の性器を始め肉体が壊滅的な状況になるまで、私を終ぞ気付かせる事はなく。性の毒で死ぬ間際になってまでも、私が痛みを覚えなかったのは、凡そ人間らしい営みから私が外されたのだと思っていた。薬光やっこうに痛みの必要性を説かれてからは、神は私がいつどのような傷で死んでも構わないと思うようになったのだと思っていた。神は私の痛みを理解していない、私が痛みを理解していないのだから、しようもない。然るに私は、神の民の血筋でありながら、神の民ではないと―――私が宣べ伝えているのは、徹頭徹尾、我が弟にして神であるひこばえであり、ではないと思っていた。

 ひこばえが弟だから、出来たのだ。家族だから、出来たのだ。神は、家族を失った私に、家族を与えたのではない。。家族の愛を持って、神の愛を教えたのだ。死して尚物わかりの悪い私に、一人子を地獄へ使いにやるほどに、私という家族を愛してくれたのだ。

「ああ………。そうか、そうだったんだな。」

「うん。」

「…はは、そういうことか。ぼくの人生は詩編よりも長い書物で、兄ちゃんビックリだ。…じゃ、連れてっておくれ、よ。ぼくの父の元に。ぼくの―――愛したあの人のところに。」

 私は火の海の中から、陽に手を伸ばした。


 ―――嗚呼、なんと素晴らしい福音であろうか。今からでも、もう一度、正しい宣教が出来ないだろうか。しかし私は最早肉はなく、男も女も、老いも若きも無い身になったのだから、今の私が出来ることは、宣教ではない。今の私に、出来る、事、は―――………。



【神を愛した男 完】

【異聞Ⅰ】

 『神が愛した男(少年篇)―麗しきは神の子ら』『神が愛した男(青年篇)―麗しきは神の母』


【異聞Ⅱ】

 『神の愛した男(父親篇)―彼こそは愛する子』『神の愛した男(息子篇)―彼こそは神の子』

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