第二十七節 使徒の殉教

 家に帰ると、誰もいなかった。幸いだ、と、部屋に行こうとして、すてんと転ぶ。誰かが服を脱ぎっぱなしにしたらしい。全く、助祭や女どもがいながら、だらしない。右足が酷く痛むので、灯火に灯をつけて、部屋の中を明るくし―――絶句した。

 部屋の中が荒らされている。私が服だと思ったのは、明日の朝食に出す予定だったらしい、菜っ葉の塩もみだったようだ。

きびす? 若枝わかえ? ―――だれか、誰かいないのか。」

 酷く嗄れた声で、なんとか叫びながら家の中を探す。一階には誰も居ない。二階にも誰も居ないと思って、最後に私がよく使う部屋を覗くと、やたらと清めの瓶が目についた。何故かと言えば、床が酷く濡れていたからだ。

「だれかいないのか、ぼくだ、亜母あおもだよ。…ごほっ。」

 そういうと、瓶の中からゆっくりと頭が出てきた。若枝わかえだ。灯火を持って近づくと、若枝わかえは目を赤くして泣いていた。

若枝わかえ、無事だったんだな。何があった? 誰が来た?」

「うう…っ。兵隊、達が…。きびすさまや、駒桜こまざくらさんたちを…。誰がメシアの弟か分からないって…。」

「メシアの弟を探しに来たのか。」

「誰も、名乗りでなくて、だから、ご、拷問にかけて、皆殺しにしてやるって…っ。」

 余程怖かったのか、若枝わかえは私と目を合わせなかった。

 恐らく私が襲われて居る間に、あの会堂の律法学者に唆された国王の軍隊がやってきたのだろう。

危機を伝える前にあそこでやられてしまったのは、本当に悪手だった。脚がまだ痛んで、馬には乗れそうにない。恐らく明日の裁判のためにどこかに捕らえられていることだろう。否、メシアの時のように死体を持ち出されないよう、明日の朝には処刑場送りかも知れない。いずれにしろ、今晩のうちに見つけ出せなければ終わりだ。

「おーい! 誰か居るか?」

 その時、悪魔の囁きのような、間延びした声が聞こえた。嗣跟つぐくびすだ。途端に若枝わかえは悲鳴を上げて、壺の中に隠れる。

「いやっ! いやっ!! いやあああああぁぁぁぁっっ!!!」

若枝わかえ若枝わかえ! 大丈夫、嗣跟つぐくびすだ。兵隊じゃないよ!」

 若枝わかえはまるで処女を散らされたばかりの生娘のように怯えて、壺の中で頭を振る。若枝わかえに呼びかけていると、嗣跟つぐくびすが異変を察知して駆け上がってきた。

「おい、どうした? 何が遭った!?」

「大声出すな! 怯えてる!」

 今にも瓶から引っ張り出しそうな勢いだったので、私は瓶を後ろ背に庇って両腕を広げた。とても若枝わかえは話せる状態ではなかったので、私が若枝わかえから聞かされた言葉を繰り返すと、嗣跟つぐくびすはわなわな震えて怒った。そして私が策を考えようと言う前に、がなり声を上げて飛び出して言ってしまった。

「あの、嗣跟つぐくびすさんは…どうなさるんでしょう。」

「いや…。多分、繋いである馬を駈って片っ端から…。」

「でも、あんな大怪我を頭に負ってるのに…。」

「―――、いや、ぼくに良い考えがある。でも若枝わかえは、ここで隠れておいで。」

 その時私には、悪魔が憑いていた。

 私は灯火で地面を照らした。馬の蹄から、大体の方角が分かる。私はそれを見て、悪魔に従うお膳立てが済んでいることを確認した。残っていた老いた馬に鞭を入れ、私は走った。目指す場所は、会堂である。


 会堂の律法学者達と取引をし、私は彼等が教えてくれた議員の家までやってきた。私は一刻も早く捕らえた仲間達を解放して貰いたかったが、そんな虫の良いことは言えない。議員の家の庭に縛られている仲間達には目もくれず、私は彼が来るのを待った。

 朝日が近づき、遠くの方まで、淡い灰色の空が広がってくる頃になって、嗣跟つぐくびすが酷い顔で馬を駈ってやってきた。恐らく片っ端から虱潰しに探していたんだろう。

瞻仰せんぎょう!? なんだよ、いたのか。お前一人だけ、なんで立ってる?」

「深い理由があってね。ぼくだけじゃ太刀打ちできないから。」

「このへたれめ。」

 やってやろうじゃん、と、敵意を丸出しにする嗣跟つぐくびすは、こめかみから流れていた血が固まっているのもあって、酷く恐ろしかった。

「君を待っていたよ、『きびす』。」

 不思議そうな顔をする嗣跟つぐくびすに、私は歩み寄り、そっと血の流れていない方の頬に口付けた。

「あばよ。」

 私がそう言って顔を離すと、周囲で仁王立ちしていた兵隊共が一斉に飛びかかり、押さえつけた。私は蛙のように這いつくばった奴を指さし、腹の底から叫んだ。

「こいつがメシアの親族のきびすです! さあ、捕らえて下さい、この男が、エルサレムの中枢です!」

 さしもの嗣跟つぐくびすも、五人以上の兵士に上から押さえ込まれれば為す術がなかった。後ろできびすが何か叫んでいる。私はそれをかき消すような大声で言った。

「メシアには五人のがいました。その中の一人の名前が、きびすです。彼の名前がきびすです! 跡取りとして育てられたので、嗣跟つぐくびすと呼ばれていました、彼がメシアの従兄きょうだいです!!!」

 嗣跟つぐくびすが何か喚いている。私はただ笑いが止まらなくて、愉快で愉快で堪らなかった。

 簡単なことだ。私一人で殺せないのなら、誰かに殺して貰えば良い。こんな簡単なことに、何故十年以上も気付かなかったのだろう。私はあまりにも、職人気質だったのかも知れない。客とのことを外で話さないという鉄則を、間違えていたのかも知れない。

「ざまあみろ!! メシアのことを笠に着た報いだ!! お前なぞその程度の価値もないんだよ!! 偉なるかかとは蛇によって噛み砕かれるんだ、あーっはっはっはっはっ!!!」

 笑いが止まらない私を、誰かが後ろから抱きしめる。ああ、良かった、解放されたのだ。私を咎める声、詰る声、憐れむ声、色々聞こえる。けれども何を聞いても私には響かない。笑いが止まらなくて、ひたすら痛快で爽快で、顔の筋肉が強張るように緩むのが止められない。

瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょう、もういいよ、もう、いいんだよ。ごめん、ごめんね………。」

 泣きながら私を抱きしめていたきびすの声が届いたとき、もう空は大分明るくて、分厚い雲が一晩中空を覆っていた事を物語っていた。弟が無事だったことに気が抜けた私は、その場で眠り込んでしまい、後から聞いた話だと、駒桜こまざくらが私を背負って教会に帰った。


 私が目を覚ましたとき、一階は騒然となっていた。ただ、すぐ傍に若枝わかえが座っていて、私は少しの間、何が起こっていたのか、思い出せなかった。

「先生………。」

「………。…若枝わかえ、水をくれないか。」

「はい、どうぞ。」

 予め用意していたらしい。杯に入れた水を差し出され、ゆっくりと起き上がって飲む。どろ、と、身体の内部が融ける音がした。でも、こんな不快感も、もう二度と味わうこともない。嗣跟つぐくびすが捕まって殺されるのは当たり前だ。もう時間の問題だろう。仮に釈放されたとしても、そう短い期間で釈放されるわけがない。メシアの時は過越祭すぎこしさいの途中だったから早かったのであって、本来なら裁判はもっと時間がかかるからだ。なまじカペナウムの御曹司なんていう、中途半端に金を持っている家の出身だ。家のものが弁護士をつけるかもしれない。

 だがいずれにしろ、嗣跟つぐくびすはもう終わりだ。ざまあない。

「あの………。先生。」

「ん?」

 私から杯を受け取った若枝わかえが、目を逸らしながら聞いた。

「もし………。私が、嗣跟つぐくびすさんを殴り殺していたなら、こんな汚名を被らなかったのですか?」

「は?」

「だって、先生は嘘をお吐きになりました。教会の中心になっているのは―――司教は、あの方だと、嘘を。」

「名前が同源でよかったよ。」

「そうではなくて………。」

 若枝わかえは何か迷っているようだった。私が微笑んでも、やはり目も合わせない。意図的に逸らしているようにさえ見えた。

「いいえ…いいえ! まだお疲れでしょう、どうぞお休み下さい。私、きびすさまのところに行って、お支えしなくては。」

 そう言って、杯を手に持ち、足早に去って行った。何だったのだろう。

 それにしても、眠い。昨日、あんなむちゃくちゃな体位とやり方で責められて、さらにはあんな脚で馬になんぞ乗って、きびすの目の前で大立ち回りをして、身体はボロボロなのだろう。今は一階だけがうるさいが、今に二階もうるさくなるだろうから、それまで眠っていよう。

 嗚呼、全く、良い気分だ。良い微睡みだ。私を呑み込むレヴィアタンはもういない。私はレヴィアタンに呑まれながらも、その腹を食い破って見せたのだ。


 どれくらいそうして微睡んでいたのだろうか。部屋が騒がしくなっている事に気がついて、私は目を覚ました。部屋の中で、駒桜こまざくら神授しんじゅが言い争っている。

「おいおい、目が覚めちまったよ、なんだ一体。」

瞻仰せんぎょう! この裏切り者がァ!!」

駒桜こまざくらちゃん、落ち着いて!」

 縋るように引っ張る神授しんじゅを引き摺り、寝床から私を掴みあげると、駒桜こまざくらは激しく私を揺さぶった。

「淫売の分際で、よくも嗣跟つぐくびすを売ったな!? いくら貰ったんだよ!!」

 駒桜こまざくらは少なくとも、昨日の私の行動を殆ど正確に理解していたようだった。私は唾を吐きかけて手を離させ、吐き捨てた。

「―――ハッ! いくらだって? あいつにそんな価値あるもんか、で引き渡してやったよ。あんな穢れた金、受け取れるか!」

澹仰せんごうの真似事をして、本当に裏切り者に成り下がるなんてな! とっとと荷物纏めて出てけ!」

「ハン、お前がどう思おうと知ったことじゃないね! ぼくの定めた権威が命じない限り、ぼくはここを動かないよ。―――分かったら出てけ、まだ身体が重いんだ。」

 尚も吠えようとする駒桜こまざくらに背を向けて、私はもう一度寝床に入った。ばたばたとすぐ後ろで足音が聞こえる。蹴り飛ばそうとしているのだろう。そこに、更に誰か入ってくる。途端に駒桜こまざくらは静かになって、しかしぶつぶつ私を罵りながら、部屋を出て行ったようだった。神授しんじゅは中にいるらしい。

瞻仰せんぎょう。」

「ん?」

 きびすの重苦しい声がして、私は寝返りをうった。きびすは右足を綺麗に折りたたんで、しゃんと背中を伸ばして、私の腹の隣の辺りに座っていた。私が身体を起こすと、丁度顔をつきあわせる位置にいる。

「どこも怪我してなかったか? 疲れただろう、ぼくのことは良いから、お休み。」

「………。瞻仰せんぎょう、その、おいらは、おいらはね。メシアの福音は、どんな人間にも普く伝えるべきだと思う。それは他のどんな職種の人間にも同じだ。どんな外国人にも、それこそ、もしこの先、メシアの恵みで小鳥や鹿と話せる聖者がいるなら、彼等にだって、教えるべきだ。仮に彼等が人祖の罪の裔でなかったとしてもだよ。それくらい素晴らしいことだと思うんだ、福音て。」

「そうだな、ぼくもそう思うよ。」

「だけど、だけどね。おいら達は弱いんだ。メシアみたいに―――ひこばえみたいに、自分をしっかり保てないだ、一人では。」

 そう言って、きびすはめそめそ泣き出して、私に抱きついた。

「ごめん、ごめんね、ごめんなさい瞻仰せんぎょう。おいらでは無理だ、教会を纏められない。お願い、なんでも欲しいものも必要なものも、買ってあげるし、持ってっていいから―――明日の夜までに、ここを出て行って。」

「………そっか。言いにくいこと言わせたな。ごめん。明日と言わず、今から準備するよ。」

瞻仰せんぎょう、君が悪いわけじゃないのは分かってるんだ。神授しんじゅが一緒に行きたいって言ってる。神授しんじゅと一緒に行ってくれ。」

 私は驚いた。てっきり一人で放り出されると思っていたからだ。神授しんじゅは悲しそうに、笑顔を貼り付けて、楽しそうだな、と、引きつった声で笑った。

 すぐに身を起こして、私は川に身体を清めに行った。上着も下着も、気持ち悪いが洗っている時間がない。しかしそう思っていると、何故か若枝わかえが、少しだけ使ったような感じの上着と下着までくれた。どうやら献品があったらしい。他の弟子達は、女達でさえ、私を酷く毛嫌いした目で見ていたが、若枝わかえだけは、そんなことも気にせず、甲斐甲斐しく私の出立の準備をしてくれた。といっても、ロバと行く訳じゃなし、持っていくものなんてそんなにないのだが。

神授しんじゅ、どうやら駒桜こまざくらも行くみたいだけど、そっちと一緒じゃなくていいのか? 駒桜こまざくらと仲良かっただろ。」

「いや、いいんだよ。あの子は一人でも宣教できる。おじいちゃんは亜母あおもちゃんと行きたいんだ。」

「ぼくだって、一人で宣教くらい出来るよ。」

「いいからいいから。ああ、でも、亜母あおもちゃんとおじいちゃんが一緒で、駒桜こまざくらちゃんが一人だと体裁が悪いから、表向きは駒桜こまざくらちゃんと行ったことにしたいみたいだよ。」

「なんだよ、それ。じゃあ駒桜こまざくらと行けば良いじゃないか。」

「まあまあ、いいじゃないか。手紙、書いてくれるんだろ?」

「まあ…弟子になる子に頼みなよ。ぼくも弟子が増えるように頑張るから。」

「うん! そうしよう、是非そうしよう。おじいちゃん、頑張るぞ!」

 神授しんじゅは教会を出る最後まで、エルサレムへの旅を楽しみにする子供のように、ぱたぱた動き回って荷物を纏めた。色々持ってこうとしたようだが、最終的に重くなりすぎたので、塩とオリーヴ油だけを持つことにしたようだ。

 深夜、皆が寝静まってから、私と神授しんじゅ、そして駒桜こまざくらは同時に教会を出た。見送ってくれるのは、きびす若枝わかえだけだ。

「じゃあ、気をつけて。メシアの平和がありますように。」

「ああ、旅先でまとまった金が出来たら、エルサレムに送るよ。当分物資の不足が続くだろう。」

「どっちの方面に行く気だい?」

「特に決めてないけど、北東方面にはまだ誰も行っていなかっただろうから、そっちかな。」

「そしたらさ、オスロエネの王さまから書簡が来てるから、彼の所に行って貰えないかな。ここから北東にある、ローマ帝国の東の果てだ。何人かが既に行っているから、もう共同体はある筈だよ。」

「御意に、きびす司教。」

「じゃあ僕はサマリアの方から下ってって、スキティアの方に行くよ。」

 ぶすっとして駒桜こまざくらが吐き捨て、さっさと街道に向けて歩き出してしまった。

「やれやれ、最後まで嫌われっぱなしだな。」

「若いっていいねえ。」

 神授しんじゅはよれよれのあごひげに指を当て、満足そうにその姿を見送った。

「じゃあ、行ってきます。」

「うん、行ってらっしゃい。」

 駒桜こまざくらが歩いて行った街道とは逆の街道に向けて歩き始めたとき、きゅっと裾を引っ張られた。若枝わかえだ。

「先生…。いえ、。私を嫁がせてくれてありがとうございます。私、きっときびすさまと、エルサレム教会を守って見せます!」

「………。そうか。頼むぞ、きびす。どうやらぼくは、いつの間にか娘の父親になってしまったらしいからな。」

「ああ、兄や義父なんて、おいらには無縁の人だと思ってたけどね。…若枝わかえのこと、本当にありがとう。この恵みを大切にする。」

「頼んだよ。」

 きびすが名残惜しそうな若枝わかえの指を包み、私から離した。私はずっと視線を背中に感じながら、それでも振り向くことはせず、北東へ向かう街道まで、一度も後ろを振り向かなかった。

 街道が見えてきた頃になって、流石にもう見えないだろう、と、後ろを振り向くと、抜けた前歯をきらりと見せて、神授しんじゅが笑った。

「もう、誰も見てないよ。」

「………。」

 私は立ち止まり、ただ静かに目を閉じて空を仰いだ。

 あの二人に子供が産まれても、私はこの先知ることはないだろう。あの二人にどんな苦しみが襲いかかっても、私はこの先知ることはないだろう。

 そして、私達二人は、オスロエネを仮にやり過ごしたとしても、東の果ての果てで、我が愛しき弟の名によって死ぬ以外の運命は、ないだろう。

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