第二十七節 使徒の殉教
家に帰ると、誰もいなかった。幸いだ、と、部屋に行こうとして、すてんと転ぶ。誰かが服を脱ぎっぱなしにしたらしい。全く、助祭や女どもがいながら、だらしない。右足が酷く痛むので、灯火に灯をつけて、部屋の中を明るくし―――絶句した。
部屋の中が荒らされている。私が服だと思ったのは、明日の朝食に出す予定だったらしい、菜っ葉の塩もみだったようだ。
「
酷く嗄れた声で、なんとか叫びながら家の中を探す。一階には誰も居ない。二階にも誰も居ないと思って、最後に私がよく使う部屋を覗くと、やたらと盛り上がった清めの瓶が目についた。何故かと言えば、床が酷く濡れていたからだ。
「だれかいないのか、ぼくだ、
そういうと、瓶の中からゆっくりと頭が出てきた。
「
「うう…っ。兵隊、達が…。
「メシアの弟を探しに来たのか。」
「誰も、名乗りでなくて、だから、ご、拷問にかけて、皆殺しにしてやるって…っ。」
余程怖かったのか、
恐らく私が襲われて居る間に、あの会堂の律法学者に唆された国王の軍隊がやってきたのだろう。
危機を伝える前にあそこでやられてしまったのは、本当に悪手だった。脚がまだ痛んで、馬には乗れそうにない。恐らく明日の裁判のためにどこかに捕らえられていることだろう。否、メシアの時のように死体を持ち出されないよう、明日の朝には処刑場送りかも知れない。いずれにしろ、今晩のうちに見つけ出せなければ終わりだ。
「おーい! 誰か居るか?」
その時、悪魔の囁きのような、間延びした声が聞こえた。
「いやっ! いやっ!! いやあああああぁぁぁぁっっ!!!」
「
「おい、どうした? 何が遭った!?」
「大声出すな! 怯えてる!」
今にも瓶から引っ張り出しそうな勢いだったので、私は瓶を後ろ背に庇って両腕を広げた。とても
「あの、
「いや…。多分、繋いである馬を駈って片っ端から…。」
「でも、あんな大怪我を頭に負ってるのに…。」
「―――、いや、ぼくに良い考えがある。でも
その時私には、悪魔が憑いていた。
私は灯火で地面を照らした。馬の蹄から、大体の方角が分かる。私はそれを見て、悪魔に従うお膳立てが済んでいることを確認した。残っていた老いた馬に鞭を入れ、私は元来た方の道へ走った。目指す場所は、会堂である。
会堂の律法学者達と取引をし、私は彼等が教えてくれた議員の家までやってきた。私は一刻も早く捕らえた仲間達を解放して貰いたかったが、そんな虫の良いことは言えない。議員の家の庭に縛られている仲間達には目もくれず、私は彼が来るのを待った。
朝日が近づき、遠くの方まで、淡い灰色の空が広がってくる頃になって、
「
「深い理由があってね。ぼくだけじゃ太刀打ちできないから。」
「このへたれめ。」
やってやろうじゃん、と、敵意を丸出しにする
「君を待っていたよ、『
不思議そうな顔をする
「あばよ。」
私がそう言って顔を離すと、周囲で仁王立ちしていた兵隊共が一斉に飛びかかり、押さえつけた。私は蛙のように這いつくばった奴を指さし、腹の底から叫んだ。
「こいつがメシアの親族の
さしもの
「メシアには五人のきょうだいがいました。その中の一人の名前が、きびすです。彼の名前が
簡単なことだ。私一人で殺せないのなら、誰かに殺して貰えば良い。こんな簡単なことに、何故十年以上も気付かなかったのだろう。私はあまりにも、職人気質だったのかも知れない。客とのことを外で話さないという鉄則を、間違えていたのかも知れない。
「ざまあみろ!! メシアのことを笠に着た報いだ!! お前なぞその程度の価値もないんだよ!! 偉大なるかかとは蛇によって噛み砕かれるんだ、あーっはっはっはっはっ!!!」
笑いが止まらない私を、誰かが後ろから抱きしめる。ああ、良かった、解放されたのだ。私を咎める声、詰る声、憐れむ声、色々聞こえる。けれども何を聞いても私には響かない。笑いが止まらなくて、ひたすら痛快で爽快で、顔の筋肉が強張るように緩むのが止められない。
「
泣きながら私を抱きしめていた
私が目を覚ましたとき、一階は騒然となっていた。ただ、すぐ傍に
「先生………。」
「………。…
「はい、どうぞ。」
予め用意していたらしい。杯に入れた水を差し出され、ゆっくりと起き上がって飲む。どろ、と、身体の内部が融ける音がした。でも、こんな不快感も、もう二度と味わうこともない。
だがいずれにしろ、
「あの………。先生。」
「ん?」
私から杯を受け取った
「もし………。私が、
「は?」
「だって、先生は嘘をお吐きになりました。教会の中心になっているのは―――司教は、あの方だと、嘘を。」
「名前が同源でよかったよ。」
「そうではなくて………。」
「いいえ…いいえ! まだお疲れでしょう、どうぞお休み下さい。私、
そう言って、杯を手に持ち、足早に去って行った。何だったのだろう。
それにしても、眠い。昨日、あんなむちゃくちゃな体位とやり方で責められて、さらにはあんな脚で馬になんぞ乗って、
嗚呼、全く、良い気分だ。良い微睡みだ。私を呑み込むレヴィアタンはもういない。私はレヴィアタンに呑まれながらも、その腹を食い破って見せたのだ。
どれくらいそうして微睡んでいたのだろうか。部屋が騒がしくなっている事に気がついて、私は目を覚ました。部屋の中で、
「おいおい、目が覚めちまったよ、なんだ一体。」
「
「
縋るように引っ張る
「淫売の分際で、よくも
「―――ハッ! いくらだって? あいつにそんな価値あるもんか、タダで引き渡してやったよ。あんな穢れた金、受け取れるか!」
「
「ハン、お前がどう思おうと知ったことじゃないね! ぼくの定めた権威が命じない限り、ぼくはここを動かないよ。―――分かったら出てけ、まだ身体が重いんだ。」
尚も吠えようとする
「
「ん?」
「どこも怪我してなかったか? 疲れただろう、ぼくのことは良いから、お休み。」
「………。
「そうだな、ぼくもそう思うよ。」
「だけど、だけどね。おいら達は弱いんだ。メシアみたいに―――
そう言って、
「ごめん、ごめんね、ごめんなさい
「………そっか。言いにくいこと言わせたな。ごめん。明日と言わず、今から準備するよ。」
「
私は驚いた。てっきり一人で放り出されると思っていたからだ。
すぐに身を起こして、私は川に身体を清めに行った。上着も下着も、気持ち悪いが洗っている時間がない。しかしそう思っていると、何故か
「
「いや、いいんだよ。あの子は一人でも宣教できる。おじいちゃんは
「ぼくだって、一人で宣教くらい出来るよ。」
「いいからいいから。ああ、でも、
「なんだよ、それ。じゃあ
「まあまあ、いいじゃないか。手紙、書いてくれるんだろ?」
「まあ…弟子になる子に頼みなよ。ぼくも弟子が増えるように頑張るから。」
「うん! そうしよう、是非そうしよう。おじいちゃん、頑張るぞ!」
深夜、皆が寝静まってから、私と
「じゃあ、気をつけて。メシアの平和がありますように。」
「ああ、旅先でまとまった金が出来たら、エルサレムに送るよ。当分物資の不足が続くだろう。」
「どっちの方面に行く気だい?」
「特に決めてないけど、北東方面にはまだ誰も行っていなかっただろうから、そっちかな。」
「そしたらさ、オスロエネの王さまから書簡が来てるから、彼の所に行って貰えないかな。ここから北東にある、ローマ帝国の東の果てだ。何人かが既に行っているから、もう共同体はある筈だよ。」
「御意に、
「じゃあ僕はサマリアの方から下ってって、スキティアの方に行くよ。」
ぶすっとして
「やれやれ、最後まで嫌われっぱなしだな。」
「若いっていいねえ。」
「じゃあ、行ってきます。」
「うん、行ってらっしゃい。」
「先生…。いえ、お父さん。私を嫁がせてくれてありがとうございます。私、きっと
「………。そうか。頼むぞ、
「ああ、兄や義父なんて、おいらには無縁の人だと思ってたけどね。…
「頼んだよ。」
街道が見えてきた頃になって、流石にもう見えないだろう、と、後ろを振り向くと、抜けた前歯をきらりと見せて、
「もう、誰も見てないよ。」
「………。」
私は立ち止まり、ただ静かに目を閉じて空を仰いだ。
あの二人に子供が産まれても、私はこの先知ることはないだろう。あの二人にどんな苦しみが襲いかかっても、私はこの先知ることはないだろう。
そして、私達二人は、オスロエネを仮にやり過ごしたとしても、東の果ての果てで、我が愛しき弟の名によって死ぬ以外の運命は、ないだろう。
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