第二十六節 受難の再演

 ………。

 ………………。

「おっさん、パンがもうねえよ。」

嗣跟つぐくびす、おっさんじゃない、助祭だ。謦咳けいがいが権威を持って任命したんだぞ、ちゃんと呼んでやれ。」

「細けぇナ。まあいいや、パンのおかわりくれ。」

 老年の助祭が、にこにこしながら台所に使いに行く。女にやらせればいいのに、どうやら私がまた居ない間に、一悶着あったらしい。

「………。」

「………。」

「………………。」

 沈黙を求めている訳ではない。寧ろ朝のうちに色々と取り決めなければならないことが色々とあったので、私としては会話をしたい。…したいのだが。

「………。」

「司教。…きびす司教!」

「ふぁ!? ん、んぐ…っ。けほ、な、なに? 亜母あおも。」

 私が呼びかけると、きびすは喉にゆで卵を詰まらせた。

「今日の予定は何がありますか? 訪れる使者や手紙の連絡などは?」

 きびすは私の弟のようなものだが、公の場ではきびすの方が立場が上なので、物の言い方は気をつけるようにしている。ただ、きびすは緊張が続いてしまうからか、私に対して砕けた口調が抜けていなかった。

「あー…。ええと、ああ、うん。そろそろ誰か帰って来るんじゃないかな。」

 上の空で、話が出来そうにない。我が弟ながら、童貞を拗らせると面倒くさいものだ。実際踵きびすは身の穢れがあったから、まさか妻を知れる身になれるとは思っていなかったのだろう。私と違い二人とも操を立てていたわけだから、気恥ずかしいのだろう。…私はそんな感覚は全く無いので分からないのだが。

謦咳けいがい辺りが帰って来そうだよな。」

「あと、駒桜こまざくらさんも、ガザに行ったまま戻ってこないね。どっか寄り道してるのかな。」

「宣教に寄り道もへったくれもあるもんかい、導かれてこき使われてんだろ。」

 お前はさっさと食ってさっさとこき使われて戻ってくんな。

 じゃりじゃり塩の欠片を噛みしめるようにパンを噛みしめていると、扉が叩かれた。たまたま私が近くに居たので、扉をちょいと開けると、誰か戻ってきたようだった。

「………ただいま。駒桜こまざくら、戻りました。」

「おう、噂をすればなんとやらだな、おけぇり。…ん? 誰だ、その男。」

もごもご口を動かしながら、ぴらぴらと嗣跟つぐくびすが手を振る。釣られて見ると、私が見たことのある顔が、会釈をしていた。

「初めまして、宝女たからめの息子の聴耳ちょうじといいます。駒桜こまざくらさんと一緒に、エルサレムに仕えるために、エマオからやってきました。」

 駒桜こまざくらは大分ぼろぼろで、私の知っているところのものがその通りだとすると、恐らく碌な装備もないまま、遠くまで行かされる羽目になったのだろう。そこでの使命を終えて、漸く帰路に着くことが出来た…というところだろう。駒桜こまざくらは私を見ると、ぎょっとしたが、すぐにきっと睨み返してきた。この様子だと、恐らく夢のことよりも、実際に私とした口喧嘩を怒っているのだろう。

駒桜こまざくらさん、お帰りなさい。驚きましたよ、いきなりガザまで行くって言ったから。」

「ああ、まあ、その、いろいろあって…。ああ、そうだ、色々といえば、…ああ、いいや。とりあえず僕にもご飯下さい。お腹がぺこぺこだ。」

「ぼくはごちそうさまだから、ここに座りなよ。」

 少し試してやろうと思って、私は持っていたパンを半分、隣にいた神授しんじゅに押しつけた。残ったパンは口に詰め込み、席を立つ。穢れの事を考えるなら、私が座った椅子も穢れているから、座ってはならない。だがこの場でそれを暴露するほど愚かでもないようだ。駒桜こまざくらは私の意図に気付いたのか、悔しそうに睨め付けたが、私がそしらぬ顔で手を洗っていると、渋々、嫌々、席に着いた。………そんな尻たぶしか乗ってないような状態で、お前の膝は大丈夫か?

 何にせよ、駒桜こまざくらの夢の中で盛大に暴れたのは、私の鬱憤が晴れただけのようだ。ならどうとすることもない。

きびす司教、私は屋上にいますから、報告はどうぞごゆっくり。今日の私の当番が決まったら呼んで下さい。」

「日の出から中天まで、早いから気をつけるんだよ。」

「はい、夢中になりすぎないようにします。」

 屋上に出るために二階に上がった時、ふと思い立って、きびすの部屋を覗いてみた。まだ誰も掃除に来ていないらしい。そこに散らばっているとこの布を見て、二人が確かな絆で結ばれた事を確認できた。私は静かに部屋の中に入って汚れているとこを丁寧に拾い、食卓に気付かれないように裏戸から外に出た。既に女達が、洗濯している。

「あら、おはようございます、亜母あおもさん。」

「おはよう、皆早いね。申し訳ないんだが、このとこも洗ってやってくれ。」

 私がそう言って差し出すと、何人かの女達がきゃっきゃと笑った。

「こりゃすまなかったね、気を遣い過ぎちまったよ。綺麗に綺麗にして、元に戻しておくから、心配しなさんな。今日はどこに行くんだい?」

「はは、それがまだ決められてなくてね。花婿殿は余程、花嫁に溺れてしまったらしい。」

「若いっていいねえ、きゃっははは!」

「そういえば、私達はもう月のものも上がって子供は産めませんけど、亜母あおもさん達使徒の皆様は、ご結婚なさらないんですか?」

「それは人それぞれじゃないかな? じゃあ、よろしく。ぼくはちょっと屋上にいるから。」

 その後、私は屋上に上り、汗が出にくくなるまでそこで祈っていたが、一向に下から呼ばれる気配がなかったので、自ら下に降りることにした。家の中に入った途端、やいのやいのと口喧嘩が聞こえてくる。いつの間にか、謦咳けいがいが帰っていたらしい。謦咳けいがい駒桜こまざくらが対立して、今にも殴り合いになりそうな所を、皆で必死に諫めている。

「このすかぽんたん!! 割礼の儀式をすっ飛ばすなんて!」

 駒桜こまざくらが激しく地団駄を踏みながら謦咳けいがいを非難する。駒桜こまざくらを抑えているのは嗣跟つぐくびすのようだった。対して、謦咳けいがいを抑えているのはきびす若枝わかえ、そして神授しんじゅのようだった。

「別にいいじゃんか! ちんこの形で人の善し悪しを決めるなと、メシアの御使いが仰ったんだ、オレに幻と一緒に仰ったんだぞ!」

「割礼を受けてない外人に洗礼を授けるのは、まあいいさ。僕が言ってるのは、そういう外人どもに割礼を受けさせずに洗礼を授けたってことだ! メシアはユダヤ人の為に来たのに、なんでユダヤ人にしないんだよ!」

「だから、ちんこの形で清い清くないを決めるなって、仰ったんだっつの!」

「そんなわけあるかー!」

 どうやら駒桜こまざくらと同じ壁にぶつかった謦咳けいがいは、駒桜こまざくらとは逆の結論に達したらしい。それを聞いた駒桜こまざくらが激昂した、と、こういうことだろう。駒桜こまざくらがああも噛み付くのは、恐らく私と夢の中で繋がってしまって脅された事を覚えているからだろうし、それに対して謦咳けいがいが一歩も引かないのは、彼が見た幻とやらが鮮明だったからに違いない。私が言う事でも無いが、陰茎の形など犬でもあるまいに、常日頃からぷらぷら見せつけているのでもないのだから、気にすることでも無いと思うのだ。事実私が夢に見た駒桜こまざくらの行動がそのまま正しければ、アレはたまたま着替えの時、男にしては不自然なほどに膨らみのない下履きを見て、それでもピンと来なくて説明を求め、やっと彼が、洗礼を受けるに値しない身分だと分かったのであって、私のように一目二目で見抜いたわけではない。結局の所駒桜こまざくらの主張は、駒桜こまざくらの無能を幸運が補ったものであって、実用的ではないのだ。

 こういう冷静でない時の癇癪のような喧嘩は、見るに堪えない。こっそり裏口から抜け出て、私は広場に向かった。昼間、どこか適当な家の壊れたところを直す為に一日雇って貰い、夜になったら会堂に向かえば良いと思ったのである。


 さて、仕事は貰えたが、思ったより時間がかかってしまった。会堂はもう、誰か別の使徒が使っているだろうかと思ったが、それならそれで、後学の為にその説教を聞こうと思った。ところが、どうも会堂の雰囲気がおかしい。ぎすぎすと尖っていて、人々の怒りや不満が充満している。

「…?」

 まさか、朝方やっていた陰茎の形を巡って、駒桜こまざくら謦咳けいがいを追い落とそうと、民衆を扇動しているのだろうか。私は会堂の扉の隙間から、内を覗き込んだ。

「神に選ばれしユダヤ人達よ、どうか落ち着いて聞いて欲しい。一年ほど前に、ナザレ派を起こし、国家転覆を目論んだ魔術師がいただろう。あれは十字架で処刑された訳だが、その死体を弟子どもが盗み出し、剰え復活したなどとホラを吹き、方々で奴の寝物語を聞かせておる。今日、たった今私は聞いたのだが、奴らは割礼を軽んじ、ひいては律法を軽んじ、外人も乞食も売春婦も、諸々纏めて洗礼を授けている。何がそれが問題かというと、そのような穢れた者どもと、我々ユダヤの誇りと伝統を受け継ぐ者は、その洗礼を受けると皆等しく平等にされてしまうのだ。諸君、誇り高き太祖の子孫ひこである諸君、これはいかがなものか。なんたる屈辱、なんたる傲慢! 神に選ばれた男達が、そうでない者、そこから零れたものと同じ地位にされてしまい、それこそが神の秩序だと宣う、奴らナザレ派をどうするべきか? 奴らはそんな風に言っていながら、あの魔術師の血縁者を最高位の司教だと呼んで慕っておる。完全にユダヤを捨てた裏切り者ならば、放っておけば良い、神は彼等を滅ぼすだろう。だが少しでもユダヤの仕来りや伝統を持つ者がそのような、律法を軽んじる事があれば、神は荒れ狂い、我らの歴史が警告してきたときのように、このユダヤの社会は乱れ、もしかしたら今度こそ滅ぼされるかも知れない。ローマの属国になるだけでは飽き足らず、再び土地を追われることだってあり得る。皆の者、いかがすべきか。彼等を排除し、我らユダヤ人は神への忠誠を誓おうではないか!!」

「おおおおおおッッ!!」

 地響きのような歓声が聞こえてくる。会堂の中に殺意が渦巻いていた。

「諸君、魔術師を捉えたときのように、裏切り者を探すのだ! 奴は三十シェケルで売られた。私はその倍の値段で、奴の親族を買おう! 探せ! 探せ!! 探し出して捕らえるのだ!!」

 私はこんな立ち聞きをしてしまったことを、努めて冷静に咀嚼できるように、敢えて走らずに歩いて元の道を辿った。既に空は紺色で、夕日が沈んで久しかった。人々の心の淀みのように、星がない。


 きびすは常日頃、神殿で生活しているが、寝食を神殿でしている訳ではない。抑も神殿というのは捧げ物をし、礼拝をする場所であって、寝床ではない。巫女達や祭司の一部が暮らしている区間があるにはあるそうだが、元々祭司の家柄でもない私達がそこへ侵入し、エッセネ派やらパリサイ派やらと一悶着起こすのも躊躇われた。幸いにもエルサレム神殿のすぐ近くに、仲間の家があったので、そこにぞろぞろとお世話になっている。それにしたって、毎日同じ面子が顔を合わせて寝食を共にしている訳ではない。事実、今朝いた嗣跟つぐくびすはいつもあの家に常駐している訳ではない。

「よぉ。どうしたんだよ、そんなおっかねえ顔して。」

「………何だ、貴方か。」

 丁度考えていた男が、私の前に走ってきた。どうやらあの家から、どこかに行く途中だったらしい。

「何だとはご挨拶だな。迎えに来てやったのに。」

「そりゃどうも。では先にぼくは行きますね。」

「まあまあ、今帰ると面倒だぜ。なんせ駒桜こまざくらがまだ吠えてるんだ、ありゃ一晩かかるぜ。」

「そう、なら貴方はそのままどっかで時間を潰しててください。ぼくは帰りたいので。」

「ままま、そう言わずにさ。…な?」

 星も月もない真っ暗闇の中で、嗣跟つぐくびすの八重歯が光るのが見えた。ぞわっと身体が泡立ち、走り出そうとする前に、ぐっと後ろに引っ張られる。否違う、腕を掴まれているだけだ。

「な? じゃないですよ。貴方、もうメシアの伝道師なんだから、そういうことは止めるべきです。姦淫ですよ。」

「ぬぁーにが、姦淫だよ、男でも女でもない股のくせに。まぁ、そう硬いこと言うなって。以上の最高に燃える瞬間なんて無いんだからさ。それにこれはほれ、処理だから、処理。」

 流石にかちんと来て、私は向き直り、ぎっと睨み付けて文字通り牙を剥いた。

「処理? 処理と言ったか、貴様。人の気持ちも身体も蹂躙して、それで処理だって? ―――ぼくに処理してもらいたいなら、金を払え! ぼくはその道の職人だぞ、成人する前からその道で生きてきたんだ。金も払わず仕事させやがって、ローマ人だって労働の対価は払うぞ。」

「え? だってお前も楽しんでんじゃん。ならとんとんじゃねえの? 俺がお前に払う分だけ、お前が俺に悦がらされてんだから。」

「―――ッ誰が!! お前みたいな下手の横好きなんぞに!!」

 その瞬間、私の身体を優しく包んで、心を抱きしめてくれた漱雪しょうせつの笑顔に泥を塗られたような、魂を槌で叩いたかのような感覚に見舞われ、私はそう叫んで掴みかかった。その時の私には、嗣跟つぐくびすには腕力で勝てた試しがなかったとか、大声を出せばあの会堂の連中に見つかるかも知れないとか、そんなことは考えられず、ただただ唸るように、しかし本人には怒りが伝わるように、低く声を落として叫んだ。

「人を人とも思わぬ、職人にタダで働かせるお前が、いずれカペナウムの網元とは笑わせる! ぼくを踏みつけたいのだって、女が孕んだらヤれないからって、その姿勢をこの十年以上、なんの悪びれたこともない!! メシアがぼくの弟でなかったら、お前なんぞぼく諸共姦通罪で殺してやったのに!!」

「おいおい怒るなよ。安心しろって、お前が一番、身体の相性は抜きんでて良いんだから。いつも褒めてるだろ? …あ、その時はもう酔ってて記憶がないのかもな。なら尚のことシようぜ。」

「殺す。」

 自分の目前にある喉仏に手を伸ばし、親指で抉って指を絡める。指先よりも奥歯に力が入り、ギチギチ身体が軋んだ。だが全く効いていないようで、嗣跟つぐくびすは溜息をついて私の掌に自分の掌を添えた。―――今だ!

私の指を剥がそうとした嗣跟つぐくびすの指の爪を、もう片方の掌で思い切り圧す。私の手中に奴の手が丸まり、それを引き寄せ、胸元を掴み、ぐるんと外側へ振り回して引き倒す。―――筈だった。しかし嗣跟つぐくびすは、まるで生まれたばかりの子鹿でも見るような目で、ゆっくりと私の掌を逆に包み返した。

どんなに力を込めても、嗣跟つぐくびすの手をふりほどくどころか、組み合う事も出来なかった。身体が竦んで居ようはずもない、澹仰せんごうと何度も手合わせをした。メシアの活動の隙間に犯された時だって、そこそこに戦えて、組み合った筈だったのに。今の私には、嗣跟つぐくびすに抵抗らしい抵抗をすることが出来なかった。何か大きな虚穴に力が吸い込まれているような、そんな感覚だ。

「わぁってる、わぁってる。お前、なんだかんだ技よりも大きさの方が大事だもんな。」

「何を自惚れたことを!」

「ならここでヤりゃ一発だ。お前が内心イイのかヨくないのか、そんなもんお前が堕ちれば一発で分かる。ほら、さっさと寝そべろ。」

 私が脚を踏ん張って睨み付けていると、嗣跟つぐくびすはそっぽを向いて溜息をつき、パンッと脚を払って転ばせた。視線の先に意識をずらされたのだ。ほんの少し、けれども少しでも離れていた間に、嗣跟つぐくびすは随分と重たく硬い身体になっていて、のし掛られると抜け出せなかった。やはり、身体の中心が解けて、力が流れ出してしまったような感覚がある。嗣跟つぐくびすは時間の隔たりなどなかったかのように、つい昨日私を組み敷いたかのようにてきぱきと私の帯を抜き、睾丸がなく、不格好に歪んだ陰茎を外気に晒した。

「やっぱ変な形してんなあ、これ。」

「そう思うんだったら今すぐ退け、この下手物。」

「これが良いんじゃねえか、生贄の事考えなくて済むんだから。」

 私を体の良い処理道具にしている言葉なのに、身体に力が入らない。今更この男が怖いとでも言うのだろうか、しかしその言葉が、一番しっくりくるような気がしないでもない。

「思い出してきたか? 抵抗しないもんな。」

「―――してるッ!」

「あっそ。」

 あしらわれた。網が絡みつき、引っ張っているような脚を内側に引っ張り、脚を閉じようとするが、いつの間にか体積の増したような嗣跟つぐくびすの股関節が、どうしても邪魔で閉じられない。右足首を持ち上げられ、女の内腿のように滑らかな脛を舐められる。ぞうううっと、むなぎが駆け抜けていき、漸く少しだけ力が入る。脚を左右に動かして、頬を蹴ってやるつもりだった。しかし足首を軽く捻られて、その力はしゅんと萎んでしまう。きびすを尻の下に持っていく、非常に苦しい姿勢にされて、私は叫んだ。こんな奇妙な、腰を急に剃らせて突き出すような格好はされたことがない。脚を伸ばそうにも、尻の骨か何かに

「お、おい、ぼくの身体をお前、つっ、蔓草とでも、思ってるのか!? 苦しい、外せ!」

「ん? こうするとほれ、枕がいらないだろ? 宣教先の婆さんが教えてくれたんだよね。」

「はぁ!?」

「んー…つっても、まだ俺のが柔らかいか。あ、そだ。一緒にするやつやってくれよ、醍醐味なんだろ?」

 兜合わせのことを言っているのだろうか。なんでそんな事知ってるんだ、教えた馬鹿はどこだぶん殴ってやる。

「ほら早く。口取りでもいいぞ?」

 こんなもんを口に入れるのと手中に入れるのだったら、後者の方が良い。私は拳を握る力を、二本の陰茎を握る力に変えた。不思議とそちらの方が、力が籠もる。何故この男を殴ろうとすると、力が抜けてしまうのだろう。

 とにかく、出させればこんな外でやろうなんて気もなくなるかも知れない。手淫なんて随分とまともな頭ではやっていない。というより、淫行事態を嗣跟つぐくびすとしかしていない。こいつのモノを握ろうものなら、爪を立てて掻き毟ってズタボロにしてしまおうと思ってはいるのだが、いざその機会に巡り会うと、どうしてか私はそのように行動していないことを、うっすらと覚えている。

 指先を伸ばし、下生えの混み合った所に潜んでいる幹を撫でる。少し指が足りなくて、私が左肘をついて身体を折り曲げると、ごきっと関節が鳴った。外れては居ないが、捻ったらしい。だがどの道この性欲馬鹿をどうにかしない限り、延々と外で引き摺り回されるのは目に見えていた。頭を空っぽにして無心に動かしていると、その内音が二つ生まれ、指先の動きが滑らかになってくる。満足しているのかと、少し上にある顔を見ると、なんだか不思議そうな顔をしていた。こいつにとって兜合わせは、どうやら初めてらしい。…物凄くいらないものを貰わされてしまった。

「ご満足で?」

「んー、なんか物足りない。やっぱ突っ込んだ方が気持ちいいな。」

「ぼくは良くないです。」

「今日は蜂蜜も香油もないんだよな…。ぬるぬるしてるほうがいいんだけど、なんかないかな。」

 無ぇよ馬鹿。

 しかし激昂させまいと私が唇を引き結ぶと、おおそうだ、と、両手を叩くようなあっけらかんとした声で、とんでもないことを言った。

「油も蜂蜜も変えない貧乏娼婦って、自分ので柔らかくして濡らすんだろ? お前それやってよ、俺見てるから。」

「はあああ? 何言ってんですか、男と女じゃ全然違いますよ。」

「でもそれ、濡れてるぞ。」

「うわぁっ!」

 げしっと靴を履いたままの脚が、私の欠陥だらけの脚を蹴飛ばした。砂がじゃりじゃりと私の三本の脚の付け根に纏わり付く。出来なくもないが、こいつにそんな光景を見せてやるのは凄く屈辱的で、出来れば気付かせたくなかったのに。だがここで下手にもだもだやっていると、誰か来るかもしれない。睾丸のない者を犯していたとて、咎められて殺されるのは別に構わないが、メシアの弟子二人というのはもう知れ渡ってしまっている。メシアはこのような姦淫には関係ない人生を送ったのだから、追従する私達がそれを穢す訳にはいかない。かくなる上は何としてもこの場をさっさとやり過ごさなければなるまい。私はそう結論を出し、今度は上半身を完全に起こして座った。きびすを尻の下から出すと、またごきっと音がする。筋を確実に痛めている。悪趣味な無賃労働が終わる頃には歩けるくらいになっているといいのだが。

「ふー………。」

 物凄く不本意だが、私は先ほども啖呵を切ったように、この道の職人だった。どんな相手にも勃起していなければ商売にならなかったので、とりあえずこの馬鹿馬鹿しく悍ましい分身にやる気を出させる。私が開脚しているというのに、嗣跟つぐくびすは脚の間にどっかりと座り込んで、私が何をするのか、興味深そうに見ている。ケツの穴なんか誰も同じだ、この玄人童貞。

 唾液の方が勝手が良かったが、既に嗣跟つぐくびすのものが指先に絡みついているのに気付いていたので、少し手を早めると、簡単に材料が溢れてきた。背中側についている手を少し手前にして体勢を整え、ぐっと手を伸ばす。

「ふーん。」

 物珍しそうに嗣跟つぐくびすが覗き込んでいるので、このまま中のツボをを圧して引っかけてやろうかと思ったが、そんな事をして余計な仕事を増やしたくない。愛情もやりがいも職人としての意義も見いだせず、中々解れないし、上手く塗れない。私は手首が疲れてきて、嗣跟つぐくびすに言った。

「無理です。やっぱり女ほど塗れませんし、普通男同士だったら素直に道具を使うもんですよ。」

「水なら何でも良いのか?」

「は?」

「例えばションベンとか。」

「………。」

 ………………。!

 絶句。唖然。呆然。失念。

 そんな言葉がぴったりだったと思う。いや、そういう客がいなかった訳ではない。しかし私がその時あまりにも幼くて、不憫に思った別の男娼が客を奪い、その後丁寧に、私にいなし方を教えてくれたのだ。だから全く知らないという訳でもない。

 …いやいやいや、今問題なのはそんなことではない。そんなことではないのだがそんなことが目の前に差し迫っている。何か、何か言わないと、本当にかけられかねない。

「無理です。排泄物は病の元が沢山入っています。男でも女でも、身体の中に入ったら何が起こるか分かりません。一緒に入ってる人もそうですよ。」

「ふーん、じゃ頑張って。…言っとくけど、俺溜まってるから、幾らでも待てるからな?」

 こいつの性欲の強さと量は嫌と言うほど知っている。こう言ったら本当に、朝まで待っているだろうし、そうなることがかなり不味いのはもう明白だ。私は必死に絞り出して、星のない夜の中に、必死に塗れた光を見せようとした。

「…見え、ますか? 大分、頑張ったんですけど。」

「これ、どれくらいぬるぬるすんの?」

 この、この…ッ!!!

「ぼくの、中指で、これくらい、なんで…。貴方の垂れ流してるの、合わせたらそれなりに滑ると思います。」

「ほー。」

 私の台詞を何かで打ち消して、嗣跟つぐくびすの言葉だけを聞いていたら、とてもこんなことをしてると思えないのではないだろうか。

「んじゃ、突っ込んでみるか。何時も通り気張って締めてくれよ。」

 こいつを私の腹の上で殺してやりたい。

 私が身体を反転させようとすると、こてん、と、肩を圧されて仰向けにされた。

「?」

「あ、ちょっと試したいことあるから、仰向けでいて。」

「はあ―――ぐっ!」

 何を考えているのかと一瞬油断したその隙に、一気に入り込まれる。自分で整えたので、今までで一番苦しみが少ない事が一番悔しい。ただそれでも、奴が入り込んだ途端に、勢いが急激に増して、内側から押し広げられる不快感に眉が歪んだ。

「ちょっと、…おっきく、してから、入ってください、よ!」

「うるせえ、お前は喘いでればいい。」

 私の客でもない男に何故そんな気配りをしなければならないのか。私は両手で口を抑え、ぐっ、ぐっ、と呼吸を呑み込んだ。頭が弾けそうで、地面が川を流れる木の葉のように回る。身体を硬くして、さっさと出して出てけとせがんでいると、逆にそれに気を良くしたのか、深く入ってくる。片膝を折り曲げ、繋げられた部分の角度を変えると、奴の睾丸が潰れる程に深く突き刺さった。

「ひぐ―――っ! ンンッ、くぅぅ…っうんッ。」

 息継ぎをすれば、それだけ悲鳴が上がる。それだけは嫌だった。鼻の穴まで覆って、顎ごと掴んで顔の穴を塞ぐ。

「もう少し、奥、行きそうなんだけどな…。」

 てめぇのブツは太いが短い。仕方がない。

「あ、そっか。」

「ん? ―――んぐうぅぅぅぅッ!」

 何を納得したのか、突然│嗣跟つぐくびすは私の下腹―――というより、生え際の辺りをぐっと圧して、再び角度を変えた。角度というより、高さだ。押しつぶされた私の袋(袋…?)全てが、嗣跟つぐくびすのものに纏わり付き、ねじ込まれた所が身体の中を響き渡る。

 苦しい、腹が重い。息が出来ない。空気が入るべき所に、嗣跟つぐくびすの亀頭が押し込められている感じだ。嗣跟つぐくびすはいつもの軽口はどこへやら、袋の内側と自分の外側を引っかけて、むちゃくちゃに揺らす。息が出来ないところに更に追い打ちをかけられ、私は遂に手を離し、大きく呻いた。

「あ、ああっ、ぬ、抜いて…っ! だめ、だめです、むり、むり…!」

「堕ちろ、そしたら無理じゃねえ。」

「無茶を―――。」

 言うな、と言おうとして、ビリッと自分の身体が引き裂かれた。否、引き裂かれたような感じがした。頭の中が真っ二つに引きちぎられた。驚きのあまり絶叫したところを、嗣跟つぐくびすに口を塞がれる。意図しているのか、鼻をも塞がれて、悲鳴が耳から突き抜けていく。自分の身体に何が起きたのか分からなくて、それがより一層、私の頭の中を引き裂いた。

「ああ、よかった。やっぱりお前、男女おとこんななんだな。」

「あ、あああ、んっ、や、やああッ!」

 ぐに、ぐに、と、何かを握られている。陰茎ではない。下半身ではない。腹、それよりももっと上のところ―――。

 ビリッ!!

「んぐうううぅぅっッッ!!!」

「もっと締めろ、そう、イイ感じ。」

「や、やめ、なに、なにを、あ、あぁぁぁぁあっ、んひぃいんっ!」

 ビリッ!!

 三度目で漸く分かった。胸だ。胸筋から乳頭にかけて、握っている。それは幼子が母の乳房を握るのではなく、親指と人差し指で、虫かゴミを摘まむように引っ張り上げて揺らしている。それがどうしようもなく、身体の中身を引き裂くのだ。乳頭の裏に、何かそういう繋がったものがあるかのように、そこを引っ張られて揺さぶられると、身体がボロボロに千切れていく。

「だめ、だめです、やめて、いや、やだ、あ、…ああっ!」

「ここ摘まむ方が良く締まるからやだね。」

 何を言われているのか分からないが、この雑草を引き抜くような、虫の手足をもぐような行為が止められないことは分かった。

 ああ、だめ、だめ、だめだ。このままだと―――しまう。

 閂が、かたんと、落ちて、ダメだ、あの暴風が、また、吹き付けてくる。

「んふうぅぅっ、んうううううっ、ひぃ、ひぃ、ひぃ…っ。あ、だめ、イく、イくぅっ!」

「ん、よく締めろよ。」

「あぁあ、ダメ、だめぇ、深い、イ、イッちゃう、ぅぅうううんっ!」

「く…っいいぞ、そのまま締めろ。」

「あああ! イってる、ぼく、イってるから、まって、まって、んああァアッ!」

「ん、お、おお…っ。」

「もっ、とぉん、うう、うんっふ、んんんんんんンーーーーッ!!」

 ガタガタと眼球が揺れる。頭が動いているのだろうか。ぴんと突っ張った手足が反って、指が開き、曲がる。

「ああっアあっ! もっと、ゆすって、ひっぱって…っ。」

「良いぜ、もう一度締めろ。」

「あああぁっ! んぅぅ、ふ、ンンッ! んぐうううううぅぅぅっっっ!」

「ん…、ふ、うう、イ、く…っ!」

 袋の入り口に突き刺さった枝が食い込んで、もう一つの袋の穴に樹液が流れ込む。腹の上の方まで溜っているのが分かる。このまま揺さぶられていたら、口から出ていってしまうかもしれない。

 ああ、すごく、すごく―――。


 ゴンッ!!! ―――どさっ。


 激しい明滅の幽遠は、突然終わりを告げた。激しく私の身体を千々に千切っていた男が、私の上にのしかかってくる。

 誰か居る。誰か立っている。

「ん…あ…?」

 のしかかってきた嗣跟つぐくびすから、何か熱いものが垂れてくる。激しい呼吸をしているのは私だけで、嗣跟つぐくびすの呼吸は酷く浅い。少しずつ、熱く煮だっていた後頭部が冷えてくる。その人物は何かを持っているようだった。

「だ、れ…?」

「っ!」

 声にならない悲鳴を上げて、その人物は何かを投げ捨てて立ち去った。ぼすっと音がして、嗣跟つぐくびすの身体が更に重くなる。何かが乗っかったようだ。

「………?」

 ずる、ずる、と、身体を引き摺り出すと、どうやら嗣跟つぐくびすに拳二つ分の石がぶつけられたようだった。私の顔に垂れてきたのは、血らしい。

 助かった…?

 誰だか分からないが、私を捕らえもせず、嗣跟つぐくびすの身元を確かめもせず、私が襲われていたことを理解し、嗣跟つぐくびすの頭に石を振り下ろしたのだろう。

 とにかく、我に返った私がやることは一つだ。嗣跟つぐくびすの衣服の下から自分の服を引っ張り出し、身形を整えた後、右足を庇いながらその場を立ち去った。後に残した嗣跟つぐくびすなどどうでも良かったので、とにかく、その時は家に帰ることだけを考えた。家に誰がいるか、誰が起きているか、そんな事を考えそうにもなったが、とにかく、とにかく、歩かなければ。

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