第二十四節 若枝の結婚

 旅の疲れが癒えてきた頃、私は夜、若枝わかえを呼び出した。神授しんじゅにはニヤニヤされたし、きびすにも嬉しそうな顔をされたが、生憎そんな話ではない。ただそれに触発されたのか、若枝わかえは髪に香油を塗ってやってきた。…少し、申し訳ない気分になった。

「ぼくの前にお座り。」

「はい、先生。」

 にこにこして、若枝わかえは裾を正して座り込んだ。

「ぼくがお前を拾ってから、もう五年近くなるな。早いものだ。いくつになった?」

「十七です。」

「そうか。出会ったとき十二だったのか。」

「ええ、まあ…。」

 えへへ、と、若枝わかえは笑った。私はこの五年、ずっと思っていたことを口にした。

「言いにくいんだが、若枝わかえ。」

「はい、先生。」

「お前―――じゃないな?」

「………。え?」

「本当の乞食というものは、学の無さが言葉に出る。生まれついて二種類の悪霊に取り憑かれていたのは本当だろう。だが、物心つくまで、お前は誰かに育てられたんじゃないか?」

「そんなことは…。」

「本当の乞食なら、乞食に育てられたなら、自分の事を『たし』と言って、敬語を使うことは出来ない。」

 すると若枝わかえは俯いてしまった。私は続けた。

「…若枝わかえ、悪霊に憑かれた娘を産んだ母親が、どういう顛末になったのか、ぼくはそれを聞いてるんじゃない。遅くなったが、お前を嫁がせたいと思っている男がいる。その男に釣り合うという証拠を、お前から聞いておきたいんだ。」

「…? 先生が私を娶ってくれるのではないのですか?」

 やっぱりそう来るのか。

「…若枝わかえ、ぼくはそんなことは出来ない。そういう風には、出来ていないんだ。それに、若枝わかえ。お前の本来の身分から言えば、尚のことぼくは相応しくない。」

「私の本来の身分なんて、もう捨てられた時になくなりました。それに、私は先生のお世話がしたくて、ずっとお側にいたんです。お側において下さい。他の男性の所に嫁いでも、先生のお世話は続けさせて下さい。」

 身分がないと本当に思っているからこそ、自分の親代わりの男が命じた結婚に逆らおうとするのだろう。涙声で訴える若枝わかえから目をそらし、私は立ち上がって、部屋の窓を開けた。誰も居ないが、すぅと入ってくる風が、静かなアリマタヤの土を乗せてくる。

「…まだメシアがひこばえだった頃の話だが、お前は終ぞ、ぼくを先生と呼ぶのを止めなかったな。それで何度も、謦咳けいがい達に怒られてたっけね。」

「…だって、メシアのお話はわかりにくかったんです。メシアが神だと言うことは分かります。でも私は、神を父とは呼べません。私を乞食に堕とした律法を寄こしたその方を、敬う事なんて出来ない。」

「そうだね、その気持ちはぼくもよく分かるよ。」

「私にとって、メシアよりも先生の方が、慈悲や愛に近い人です。メシアは私の悪霊を雪いでは下さらなかったから。」

「まあ、ぼくに与えられた権能はメシアから来たものだったからこそ、そんなことが出来たわけだけどね。」

「あんまり実感できません。」

「そういうもんだよ。」

 そう言ってやると、若枝わかえは少し元気になったようだった。

「さて、話を戻すけどね、若枝わかえ。」

 気持ちが落ち着いたので、窓を閉め、私は再び若枝わかえの前に座った。

「ぼくがお前と結婚させたいのは、ぼくの弟のきびすだ。」

「………。へ?」

 予想外過ぎたのか、若枝わかえはぽかんとして、目を皿のようにして驚いた。

「お前は、きびすの脚に悪霊が憑いているのを知っているか?」

「…ああ、あの添え木の事ですか?」

「そう。あの子の脚の骨は、どうやら悪霊に奪われたらしくてね。ぼくの弟になった時には、既に添え木をつけて歩いていた。今、助祭の頭が死んで、エルサレム教団は危機に向かっている。若枝わかえ、お前がきびすを支えて欲しいんだ。」

「………。でも、私は、ラビの教えに導かれたのではありません。先生のお世話がしたくて………。本当に、嬉しかったから、驚いたから、先生こそが、奇跡を起こせる人だと思って………。」

若枝わかえ、その奇跡は、ぼくが起こしたものじゃない。ぼくに起こせと、メシアがに取り次いだから、そのようになっただけだ。…いや、いや、いや。今問題にしているのは、そんなことじゃない。若枝わかえきびすを支えてくれ。妻として、傍にいてやってくれ。」

「―――私は、イスラエルの律法に守られませんでした。だから私も、律法を守りません。。い! や! で! す!」

 強調されてしまった。

「じゃあお前は、一生純潔で独身でいるつもりか?」

「もし私の純潔だけが欲しいと仰るのなら、それに従う所存の男性ならいます。」

 遠回しにだが、再び求婚されてしまった。

「………。そいつにはぼくも心当たりがある。だが、そいつとだけは、認めるわけにはいかない。」

「…その方には、懸想人がいるのですか?」

「………。まあ、そんなところだ。」

 私が肉体を尽くして愛したのは漱雪しょうせつだった。心を尽くして愛したのはひこばえだった。だがだからといって、私が男好きかと言われればそれは違うと答えよう。金銭のやりとりがなくても、身体を使って慰めたいと最も思っていたのが漱雪しょうせつであって、私から見れば、私を買うという一点において、男女の差はない。ひこばえはメシアだったからとか、そう言うわけでは無く、とにかく間抜けで女々しくて泣き虫の弟が心配で心配でならなかったのだ。だからこそ、ナザレ派にやってきたのだから。

「…もし、どうしても。」

「?」

「どうしても、そいつの子供を抱きたいなら―――、産むことは出来ないが、育てる方法はある。」

「?」

「変則だが、順序を踏めば、律法に従っているから何の問題も無い。そいつの弟に嫁ぎ、子種を貰って子どもを産み、その子供を兄の養子にして、長男の跡継ぎに据えることだ。」

「!」

「長男には子供を作る能力がない。それは今までの会話で分かるね。」

「………。」

 若枝わかえは悲しそうに頷いた。…そんなに女というものは、生まれてくる子供の子種が誰のものなのか、拘るものなのだろうか? 産まれた子供がどの父親に育てられるか、そんなものは夫にした男の天命次第だというのに。結局子供は、最終的に長男の息子になれば良いのだ。

「それでしたら…。ええ、構いません。一人をきびすさまの跡取りに、もう一人を兄君の跡取りに。」

「そういうことだ。分かってくれるなら良かった。―――そいつも、出来れば、お前を娶りたかったのは、本当だと思うよ。」

「…ええ、私もそう信じています。」

 若枝わかえは恥ずかしそうに、しかしうっとりとした目で私を見つめた。断じて私は失恋した訳ではないのに、きびすの結婚を勝手に決めたのに、少しもの悲しい。娘を嫁がせるとは、こういうことなのだろうか。

 その後、若枝わかえには退出させて、きびすを呼び、同じ話をした。きびす若枝わかえに懸想をしていた訳ではないようだが、私への献身を見ていて、私が羨ましいと思ったことくらいはあったらしい。それ程大切にしている侍女をくれるのなら、全力で愛し、護り、我が身のように大切にすると約束してくれた。母は既に、女弟子達と恩啓おんけいと合わせて旅立ってしまっていたので、婚約の儀は、私と神授しんじゅとだけで、静かに行った。


 婚約の儀を終えた男女は、一月の間一緒に住み、純潔を保ち、結婚の儀において初めて結ばれる。もし結婚の儀まで待てず交わった場合、姦淫の罪で石打になる。況してきびすはエルサレム共同体の要石だ。しかし私は若枝わかえを信用していたので、二人を残し、先にエルサレムへ戻って様子を見に行くことにした。

 余談であるが、父母の話が本当であれば、ひこばえを母が身ごもったのは、婚約の儀の後、結婚の儀の前だという。その上で妻だと宣言した父は、本当に男らしくて尊敬する。

 閑話休題。エルサレムに着くと、既に地方に散っていた弟子達の大半が戻っていて、謦咳けいがいも牢から出られたようだった。そして尚最悪な事に、嗣跟つぐくびすまでエルサレムに戻っていた。どうやらエルサレムの惨状を聞いて、戻ってきたらしい。戻ってくるな。それから、ついでに薬光やっこうもいた。

 それと同時に、知らない禿げた男が、やたらと遠巻きにされていた。すぐ傍に、大分前に宣教の為にダマスコに行った一員が寄り添っていて、どうやらその禿は孤立しているらしかった。禿に寄り添っていた彼は、私の姿を見ると、ささっと近づいて、頭を下げた。

瞻仰せんぎょう殿! ああ、いえ、今は亜母あおも殿でしたか。お久しぶりです。」

「ああ、久しぶり。元気だったか?」

「はい! どうぞ亜母あおも殿、聞いて下さい。私はダマスコで、メシアの啓示を受けたのです。」

「ほお。」

「とても感動しました! それで、その啓示というのは、この彼を癒やし、共同体に迎え入れよということなのでした。」

 彼に促され、禿も頭を下げた。

「お初にお目にかかる。俺は侏儒しゅじゅという者だ。以後どうか、お見知りおきを。」

 私はその名前を聞いて、露骨に顔をしかめた。しかし私が何を言おうとしているのか読み取り、ダマスコの同志は私を抑え、椅子に登って、大きな声で呼びかけた。

「皆さん! どうぞ私に与えられたメシアの啓示についてお話をさせて下さい。実に素晴らしい、神のご計画の始まりに、私は選ばれたのです! それというのも、ここにいらっしゃる侏儒しゅじゅ殿というのは、ご存じの通り、桂冠けいかん殿が殺された時、その主導者の一人でもあった、パリサイ派の急先鋒です。しかしダマスコに来る途中、メシアに馬から落とされ、目に鱗を戴きました。それでメシアは、ダマスコに潜んでいた私と、それから薬光やっこう殿のところに導かれ、そしてメシアの道に目覚めたのです! ダマスコでは勿論多くの方々が戸惑いましたが、さすがは桂冠けいかん殿の弟弟子! ダマスコで多くの方々を導いたのです! 皆さん、桂冠けいかん殿を殺した弟弟子はもう居ません。ここに居るのは、私達の兄弟│侏儒しゅじゅです。どうか皆さん、彼を受け入れて下さい。メシアが私達を赦したが如く、彼の罪を赦して下さい。そしてこの共同体で償っていくことを許して下さい。」

 彼の力強い演説で、その場は圧倒され、侏儒しゅじゅはどうやら受け入れられたようで、その日の晩餐の主賓として迎え入れられた。ただ、私は波乱の予感しかしなかった。

 三日ほど経ち、表向きは何も騒ぎがなかったことと、逆にきびすが居ないことで騒ぎが起こりそうだったので、私はきびす若枝わかえを呼び戻した。本当なら、婚約期間の一月はアリマタヤにいさせてやりたかったのだが、そうも言っていられない。きびす若枝わかえの夫になる以前に、司教という公人なのだ。二人は賢かったので、婚約したことをまだ誰にも話していなかった。私はうっかりそれを言いつけるのを忘れてしまったので、ほっとしていた。きびすが司教になったことで、次代の司教の母になろうという野心が、婦人達の間に広まっていたのだ。それがまだ摘み取りきれておらず、若枝わかえが無駄な嫉妬や喧噪に巻き込まれるのを防ぐためであった。

エルサレムに戻ってからは、日中は私の世話をしている方が多かったが、夜はちゃんときびすの部屋に深夜に戻って、親睦を深めているようだった。本当に、良い夫婦になれるだろう。

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