第二十三節 聖者の行伝
母はエルサレムに居た。考えてみれば、胸を患って長く、ロバにさえ乗れない母が、鞭を振り回す馬の大群から逃れられる筈がない。母は女弟子の頭角の一人│
「
家畜の屎尿の臭いに激しく咳き込みながら、母はそう言って笑って見せた。その様があまりにも痛々しくて、私は海塔に、今すぐ母を連れて出て行くようにと言った。
「何でアンタが行かないの?
「自覚があるのかい? なら結構だ、ヘブライストの寡を全員引っ張って、よそに行ってくれ。」
「アンタ分かってないのね! お母さまの一声すら無くなって、どうまとまろうっていうのよ!」
「それはぼく達男の仕事だ。女は出しゃばんないで、言う通りにしてろ。」
「へえ、都合の良い時だけ、男になるのねえ!」
「都合の良いときも何も、ぼくは徹頭徹尾男だ。髭ももみあげもないけどね。…て、そうじゃない、そうじゃないよ、論点は。」
私は顔を覆い、ぐしゃぐしゃとかき回して整えてから、一呼吸置いて言った。
「そうじゃないんだよ、
「そじょー?」
「つまりだ。神と呼ばれた人の母である女性を守って、どっかに逃げ延びたら、その先のローマまで行って、メシアの罪状書きを変更して貰うんだよ。メシアは、国家転覆罪と魔術の罪で十字架にかかってる。てことは、ローマが続く限り、メシアは永遠に罪人としてしか名前が残らない。ぼく達がいくらそうではないと言ったって、ローマ人は納得しないだろう。だからね、お前達女の弟子達が、ローマ皇帝に掛け合って、あの十字架が冤罪だったことを訴えてきて欲しいんだ。」
「それ、今じゃないとダメなの?」
「勿論だとも。生前のメシアを知っているくらい初期から、決して神格されたわけでなく、確かに神が人となったということの生き証人がいる時代から、そういう記録を残すんだ。何も行ってすぐに変えろってんじゃない。何度も試練があるだろうさ。結果じゃないんだ、そういう記録が必要なんだよ。」
「記録? なんで?」
「人の命は精々三十年か五十年だ。だけど記録は永遠に残る。石版だろうと羊皮紙だろうと、もし無くなりそうになったら、新しく作り直すことが出来る。人間の命と違ってね。いいかい?
「うーん………???」
「まあ、あれだ。つまり、皇帝に何度でも訴えて、メシアの汚名を雪げってことだ。」
「ああ、そういうことね。だったら女は適役だわ、だって産めば継がせられるもの。」
「そうそう、そういうことだ。で、エルサレムは色々なユダヤ教派が犇めいてて、ちょっと物騒だ。だから自分の母親を逃がしたい。ついでと思って、連れてってくれよ。」
頼むよ、と、私がもう一押しすると、
「わかった! アタシが女達を引き連れて、お母さまもついでに避難させればいいのね!」
「その通りだ。程よい人数で、頼むよ。―――ああ、そうだ、男手が必要なら、
「
「………、あはは、お母さん。
知っている筈は無いのに、
「だって、
「………。」
私は母に、メシアが私と
「ねえ、
「………。お母さんは、ぼくだけが戻ってくるのは嫌だったんですか?」
「…ごめんね、言いにくいことを聞いたのね。………
少し屈んで、背中の曲がり始めた母と目線を合わせる。母は涙を流しながら、力の籠もらない腕で私の頭を包んだ。
「
その愛は、私の本性を知っても貫かれるのだろうか。
きっと明日には、母は旅立つだろう。今生の別れかも知れない。聞くなら今しかない。きっと母は優しい人だから、それでも私を愛すると言ってくれるだろう。言葉が欲しいだけなのだ。居なくなる人からの愛を受け続けることなど出来ないのだから、聞くだけ損はないはずだ。
「………。はい、お母さん。…ぼくも、
私にはそれしか言えなかった。その言葉だけは嘘ではないからだ。
「ああ、そう、
「議員?」
「ええ、
「分かりました。じゃあ、ぼくは準備が整い次第、アリマタヤに向かいます。司教を補佐せよ、と―――神の子に言われたので。」
死んでいるはずの
母は名残惜しそうに私の頭を撫でていたが、ずっとそうされていると、エマオであったことを口走ってしまいそうだったので、疲れているから、と、母を家畜小屋から連れだし、女弟子に預けた。
私がその家で寝る空間はなかったので、三日ほど歩き、母に言われたアリマタヤの協力者の家を訪ねた。
「ごめんください。」
私が扉を叩くと、年老いた男が顔を出した。
「何だい、施しなら出来ないよ。」
「施しなんざ要らないよ。ただ、魚が増えすぎてね。二匹ばかり余ってるんだ。」
「………。」
男は身体をもう半分出し、周囲に誰もいないことを確認すると、煙が細い筒に吸い込まれていくように、私を家に引き込んだ。
「先生!」
すぐに
私も疲れていたので、部屋の隅に座り、
翌朝早くに、
「それじゃあ、
「うん、伝令の奴の言うことを聞いていればね。」
「何にせよ、生きているならいいよ、生きているなら。…本当に、
私はそれを聞いて、あの夜、私に伝令を持ってきたのは、
「それはそうと、いつ頃エルサレムに戻れる? サマリアにいる限り、確かに律法学者は来ないだろうけど、いつまでもここにいるわけにも行かない。特にお前だよ、
「それについては、祈るしかないとしか言えないね。今おいらがエルサレムに戻っても、あの…ええと、なんて言ったかな、とにかくあのチビ助に食われるだけだ。」
ふうむ、と、空気が重たくなる。自分で言い出したとは言え、少し気まずい。
「でも、先生のお疲れを取るのが第一では? エルサレムから歩いて三日なんて、とてもお疲れの筈です。しばらくは何も考えない時間も必要ですよ。」
「そうしてくれるとありがたい。エルサレムを出てくるときに、少し人を説得したから、まだ疲れてる。」
「え、何それ、聞いてない。」
しまった、と、私が露骨に嫌な顔をすると、
「まあ…。祈りはおいらの専売特許みたいなものだからね、その為に助祭を作ったんだから。
「馬鹿、
「えっ?」
そういうと、
「な、なんだよ。」
「いや…。てっきり、
「んな訳あるかッ! 大体ぼくは―――。」
反論しようとして、私が即座に否定したことに今度は
そして私は、夢を見た。
すると、少し後ろから、馬車が近づいてきた。外国風の馬車、それも、恐らく役人が乗っている。
私は
馬車の中で、彼は何か読んでいるようだった。隣に座っている男は、ユダヤ人だろうか。役人は時折、巻物を指さして尋ねているが、ユダヤ人は何を言われているのか分からないようだった。
「何度も読めば、分かるものなのではないでしょうか。」
ユダヤ人は少し投げ槍に言った。しかし役人は、よっぽどその書物が気になるらしい。パッと閃いたような顔をして、目線の位置に巻物を持ち上げると、声を張って読み上げた。
「彼は苦しめられども
「そんなものは、五百年以上前、我が国に伝わったものではないですか。今に生きるご主人様に何ももたらしてはくれません。事実、私だってユダヤ人の子孫でこそありますが、それは母の話であって、私はその…ええと、誰が書いたんでしたっけ? とにかくその預言者のことも、その書物のことも聞かされていませんし。」
ふうん、と、私は納得した。
彼が読んでいるのは、偉大なる預言者が幻について記した預言書の、五十三章だ。この預言書は非常に長く、機知に富んだ不思議な言い回しをする。それを覚えるのは実に苦行であったが、この章は印象に残っている。何故なら、たった十二節しかない中で、言っていることも単純で簡単だからだ。
「大層、良い、朗読が、聞こえましたが、…ぜぇぜぇ、何を、お読みに、なっているか、…はぁはぁ、お分かり、ですか?」
「―――ぎゃあああっ!」
すぐ後ろで声がして、驚いて振り向くと、
「この賊め! このお方をどなたと心得る!」
「こらお止め! ―――旅の方、貴方はこの書についてご存じですか。これは代々、我が家に伝わる小さな詩なのですが、エルサレムに由来する詩のようなのです。三日ほど前に、エルサレム神殿に初めて詣でて、祭司達に聞いてみたのですが、誰も分からなかったのです。どころか、何人かにはいきなり石を投げられました。これは、歴史の書ですか、それとも哲学の書ですか。或いは文学なのでしょうか。」
「そ、その前に、の、の、乗って良いですか?」
「ああすみません! これ、これ! 客人です、止まって下さい!」
馬車が止まると、
「―――さて、えっと、えっと。それは、昔の言葉ですね。現代の言葉では、えっと、お聞きになったことは?」
「いいえ、ありません。」
唐突に始まった話に、役人はきちんと座って答える。ユダヤ人は面白くないようで、無造作に飲み干された水筒から、僅かな雫を舌に叩き落としていた。
「現代では、私達はこのように唱えます。…ええと、えと、そう。『彼は虐げられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。屠り場に牽かれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐な裁きによって取り去られた。その代の人のうち、誰が思ったであろうか、彼は我が民の咎の為に打たれて、生けるものの地から断たれたのだと』。………えっと、あってるよね?」
「おお、おお! 当世の言葉で聞いても何と美しい詩でしょう! この意味が分かれば、この詩はもっと感動的に違いありません。」
「えっと、詩ではないのです。これは、つい半年ほど前に、実際にエルサレムで起きたことについて、預言されたものなのです。」
「なんと、この美しい詩のような出来事が、つい最近に! 是非教えて下さい。」
えっと、えっと、と、詰まりながらも、
「と、こういうわけで、
やっとの思いで
「そうなのですね! では、メシアさまは、私のような異邦人でも、このように家宝として縁を持てるように計らって下さったのですね。」
「えっと、えっと、そうですね…。我が共同体にも、異邦人は多くいます。………確か。」
「では、どうぞ私もそこへ加えて下さい。この教えを我が国に持ち帰り、我が主人の皇太后さまに献上いたします。」
「えっと、えっと、水があれば、問題ないのですが…。…まだ、水はありますか?」
するとユダヤ人は、唾を吐き捨てるように舌打ちをし、答えた。
「どっかの蛮族が、全部飲み干しちまったよ。」
「こら! 失礼だろう!」
「えっと、とりあえず進みましょう。川か何か、あるかも知れません。」
「是非そうしましょう。いっそ我が国にお入りになっては?」
「いや、それはちょっと。」
となれば、私の関心は一つだ。即ち―――
時間にしてどれくらいなのか分からないが、役人が口説き疲れるくらいには進んだだろう。
「お役人さま、お役人さまぁ。川がありやす、休んでかれますか?」
「おお! ついに水が! さあさ、先生、どうぞどうぞ。…お前も一緒に受けようではないか、洗礼を!」
ユダヤ人は答えた。
「結果が分かってるので、私は遠慮しておきます。無駄に軽蔑されたくはないです。」
「えっと、洗礼は望むなら誰でも受けられますが…。」
「建前はそうだろうな。いずれにしろ私は興味ないです。ただ、そのお方の熱意は本物なので、その方だけでも認めて下さい。」
「…???」
「では、少々失敬しますね。この服は仕事着でもあるので、濡らすとよろしくないのです。」
「ああ、どうぞ。私も上着を脱ぎます。」
服を脱ぎ、下履きだけになった役人を見て、私の推測が当たっていたことを理解する。思ったとおり、平らすぎる身体だ。だが
「救い主メシアの名によって、貴方に洗礼を授けます。」
役人は黙って、水面に食い込むほどに頭を下げた。
ところが、川から出て、下履きを着替えようとしたとき、
「? お役人、貴方は女性でしたか?」
「いいえ? 皇太后さまにお仕えするのは、皆男です。」
「その割には、その、なんというか、下履きが小さいというか…。」
そんな言葉選びはないだろう。
だが役人は気にせず、あっはっはと笑って答えた。
「ああ、私は
「カンカン?」
「かんがん、
それを聞いて、
「どうして、
「とんでもない! 宮廷にお仕えする者たるもの、
「いいから。
役人は満面の笑みで、誇らしげに言った。
「いいえ! 私は皇太后さまにお仕えしたくて、自ら志願して
それを聞いて、
「………。………。」
どうやら、本当に私を見ているらしい。だが
「良いことをしたね、
「皮肉かよ。子作りの義務を放棄したタマナシなんかを共同体に加えた僕を、詰りにきたんだろ!」
「そんなことするか。ぼくは寧ろ、なんでお前がそんなにタマのあるなしに拘ってるのか聞きたいくらいだ。」
「そんなこと当たり前じゃないか! 子供がいなけりゃ継がせられない。子供がいなけりゃ、メシアの教えは僕達の世代で滅びる。どんなに世界の果てまで、それこそ神の御腕を通り過ぎようとも、一千年を生きる人間なんていないんだ! いいや、仮にいたとしよう、いたとしても、その人間は千一歳になったら死ぬ。そいつに子供がいなかったら、そいつと共にメシアの教えは滅びる! あんな
興奮して畳みかけてくる
「お前の神って誰だ? その名前は? 言ってはならない名前か? それとも
「そんなのは決まってる、
「なら問題ないだろう。
「そんな訳あるもんか! なら、メシアはユダヤの社会にお生まれにならないはずだ。
こいつ、誰に何を言っているのか分かっているのだろうか。
「なら、その劣悪な社会が、ユダヤ社会だったってだけだろ。」
「そんなわけない! そんな訳ないんだ! だってイスラエルは約束されてたんだ、何百年も前から、色々な預言者を通して、神は見て下さっていたんだ、僕達イスラエル人が神に立ち返る姿を、だから
「お前は抑も、
「はあ? 言うに事欠いて、何の話だよ!」
「なら、エルサレムに戻った時、
「だから何の―――。」
「
怒鳴らないように、と、自分に言い聞かせたら、存外ドスの利いた声が出た。すると私の中で、エマオでの絶望感や諦観が、ふつふつと煮立ってくるのを感じた。どうせ夢逢瀬なのだから、と、私は
「
そのように吐き捨てて、倒れ伏す
「ぼくらの仕事を奪うなら、お前の仕事も生業も出稼ぎも全てを辞めろ。」
こんな姿、
「………。」
目が覚めた。隣で
「…
丁度、アテが出来たから。
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