第二十二節 最初の殉教
エマオに着くと、意外なことに私達は歓迎された。というのは、どうも件の魔術師とやらが、私達が来るのを預言していたらしい。エマオはそう言えば、復活した
とにかくその縁で、魔術師はその親子の家にちゃっかり居座り、私達を招き入れたのだった。
突然現実味を帯びてきた新しい親戚の存在に戸惑いつつも、私は父の弟だという
「いやしかし、兄さんが本当に、身寄りの無い子供を沢山引き取っていたとは驚きだよ。」
父と顔が瓜二つの
「あの、私の父はてっきり、末っ子なのかと…。」
「ああ、そうだよ。
父の不器用な身の振り方が、ほんの少し、私の胸に愛おしさを産む。他人の記憶の中に、私が愛し、愛され、慕った男が、同じように慕われているのは、気分が良いものだ。
「実際、兄さんは貧乏くじだったと思うよ。同じ母親から生まれた妹の方が、よっぽどいい女だった。娘を産んでくれたなら、このエマオで一番の男に嫁がせられるくらいにいい女を産んだだろうに、全く勿体ない。」
「同じ母?」
「僕の妻で、
「タカラメ…、たからめ…。…あー…ああ、ああ!
どうして思い出せなかったかと言えば、この
「母は、元気でしたか?」
それまでずっと黙っていた
「ええ、それが…。私はあまり良い弟子ではなくて、お恥ずかしながらメシアの元から何度か去った事もあるものですから…。そういえばいたな、くらいで。ああでも、メシアが復活した折にも、印を見せられた女性ですから、共同体の中でも重用されていると思いますよ。」
「母は、こっちに帰ってくるでしょうか?」
「よしなさい、
「でもお父さん―――。」
「黙れと言っている!! お前の母親は操を守ったが、人の
母が、妹のことを話さなかった理由や、
「ありがとうございます、
それを聞いて、
「あのう、へっへへへ、ご家族で積もる話もありましょうが、ここは是非とも、あたくしの預言がちゃんと、メシアから来た事を証して頂きたく…。」
魔術師の存在を忘れていた。
「え? あ、ああ…いいですとも。ですが私は、先に言ったとおり、良い弟子ではありません。一緒に居る
正直言うと、この男はなんだか嫌な感触だ。感じ、ではなく、感触。身体を舐めとるように見つめる視線が、昔の客以下の男を思い出させる。もしもメシアが、魂ではなく、政治の救世主として将軍になったのであれば、私はいち早くあの子の側近に成って、奴こそを十字架にかけるように具申しただろう。
「そうんなんで? なら家畜小屋から呼んできても? そろそろ戻って頂かないと、いつまで経っても食事が出来ませんので。」
「ええ、どうぞ、不出来な連れで申し訳ない。」
「いいええ、いいええ、いいですともいいですとも。」
おひょほほほ、と、難しい発音で笑いながら、魔術師は部屋を出て行った。先ほど私の母と祖母をけなした男と二人きりになる。
しかし、黙っていれば、確かによく似ている。父は六十そこらで死んだが、あの後二十年近く生きたとしたら、こんな円熟した大人になるのかも知れない。
「時に、ええと、貴方はなんと言ったかな。」
「
私がもう一度名乗ると、
「そう、
血縁者であれば、私の存在が、父の結婚当時の醜聞とそぐわないことを理解しているだろう。私は正直に答えた。
「いえ、同じ家系から生まれた者ではありません。エジプトに売られて、そこで暮らしていた時に出会って、メシアを守る兄として引き取って下さったんです。」
「なるほど。それは何歳の時で?」
「六つの時ですが…。あの、それが、何か?」
すると、ふわっと
「いやね―――随分と、恋する娘のような眼で私を見ていたから、兄はどこまで堕ちたのかと思ってね。」
「ッ!!!」
柔らかな
「な、な、なん、なっ―――。」
あまりにも突然で、予想外過ぎて、私は言葉を失った。不埒者、とか、ソドムの住人、とか、或いは色々な罵声はあったのかも知れないが、私はそのどれらも何も言えなかった。嗚呼、星だ。私の耳と、目尻の間を、星がちかちかちらちら、瞬いている。目に星のあったのは私の方だったか。
「兄は体中が黴びて死んだんだってね。穢れた息子と娘と女に囲まれて、遂に腐ったんだと。その時、一人だけ息子を追い出したと聞いたんだ。一番上の息子さ。名前は
私はそれを聞いて頭が真っ白になった。どういう、と、小さくオウム返しをしたその隙に、
恐らく私は勘違いしたのだ。自分の名を正しく呼ぶこの老翁に。理不尽に蹂躙された時代の色濃い方の名前の響きに。私は蔦が生えたように動けなくなった。
「綺麗な肌だ…。本当に男なのか? 兄さんには見せたんだろう?」
そうだ、見せた。私は兄さんに見せた。あの時、確か父は怒った。なんと言って怒ったのだったっけ。
「髭はおろか、もみあげもろくにないじゃないか。」
そうだ、そう言われた。そのように言われた。言ったのは
「もう四十の声も聞こえるだろうに、本当に女のような顔をしているな。髭がなくてもみあげがなくて、肌も、髪も、本当に綺麗だね。」
纏わり付くように私の身体の上を這い上がり、爺は私の頬に口づけた。よれた唇が触れると、びくっと身体が震えて、強張る。口付けされたのなんて、十年以上なかった。奴が私に口づける事などありえないし、私の下半身以外を褒められることなんて、子供の頃、
「痛いことは何もないよ。ただね、やっぱり私も年でね。一人じゃダメなんだ。手伝っておくれ、そのかわいい唇で。」
「………。」
目の前の老人が誰なのかが分からない。年をとった
「………。」
「ほら、おいで。お前と気持ちよくなるには、そうしてもらうしかないんだ。」
「…!」
誰だか分からない。誰だか分からない。―――誰でも良い、ただ求められているのなら、応えなければ。
ぼんやりとした世界の中で、私は唯一くっきりと映るモノに手を添え、口づけた。よく見えなくても、臭いで、感触で覚えている。あまり考えない方が、結果として上手く行ったりするものだ。記憶を掘り起こす、というより、しまっていた武器を倉庫から取り出すように、口を動かす。それが使えるようになるまで、時間がかかったのかどうか、私には比べる術がない。だが、私が唇を離して見上げると、目の前の男は、私にありがとうと言って、額に口付け、顔を抱いて愛でた。私がころりと横になると、手を引っ張った。
「………。?」
「すまんね。上に乗ってくれるかい?」
「ん………、しょう、せつ………。」
言われたとおりにして、漸く入ってきた細身の短剣は、非常に物足りなくて、私は腰を落として深く咥え混んだ。感嘆の息が漏れる。それでも私の閂をかけた扉に当たる風はあまりにも弱く、じりじりと焦りのようなものが胸を焦がした。燻る炎が、消し炭の中で勢いを増していき、呼吸が太く、浅くなっていく。
足りない、足りない、足りない。何もかもが足りてない。
「ね、ぎゅってしてくれないの…?」
手を伸ばそうとした時、パンッとその手が払いのけられる。きょとんとしていると、その手が私の手首をそれぞれ握りしめた。
「
「…いい、動きなさい。勝手にイッてはダメだよ、先に私をイかせてからだ。」
「………? うん、わかった。」
ぽわぽわとした光が私を包んでいた。
なにかがおかしい。なにかがくるっている。
そんな気はしたが、動きを止めるという選択肢はなかった。久しぶりに交われば、どうしても勘が取り戻せなかったりして、しばらくは上手く行かないものだ。
………? 久しぶり?
否や、久しぶりなど無かったはずだ。弟子として
………ああ。
あああああ、ああああああああああ、ああああああああああ。
あの時、あの子は何と言った? 全裸で公衆の面前に引き摺り出され、必死に長い髪で顔を隠し、抗議の声を封じて、貧相な女の振りをしようと躍起になった私に、あの子は何と言った?
「…っ!」
手首を掴まれたまま、私は太股に力を入れて、身を分かった。
「ん? どうしたんだ? せん―――。」
「黙れ!!!」
手を引き抜き、汚れた唇から名残を吐き捨て、私は立ち上がった。
「その名前をつけたのは、ぼくが―――私が、愛したのは、心の底から、妻子から奪いたいと願ったのは………ッ!」
「どうしたんだ? いきなりそんなことを言って。ノリノリでしゃぶってくれていたのに。」
怒りに満ちて、私は萎びた雑草になっているそこを踏みつぶし、尻ごと蹴飛ばして、拒絶する。
「私は―――私の身体は、父だけのものだッ! 他の誰にも渡さない!!」
バタン!!
私がそう叫んだ瞬間、扉が開いた。恐ろしいものに怯えたような、
「なに、なにを…していたの、
何と言おう。何処まで言おう。この爺に誑かされたと言うべきか。しかしそれに応えたのは私だ。思考力を無くし、肉の要求に応えたのは私だ。それに―――奴の息子に、そんなことを知らせていいのか。自分の父親が、男を誘惑したと妻を追い出した自分の父親が、男を誘惑したと教えていいのか。
「違う、
「じゃあ、妻子から奪いたいって何? どうして、夫じゃないの? 妻を奪いたいのなら、夫からでしょ?」
「待て、落ち着け、
「その罰で、そんな形なのッ!?」
「違う! これは、二十年近く前に
「外人がそんな昔からいるもんか! ましてあんなド田舎に! 外国から来た
「知るもんか! いきなりひん剥いてちょん切られたんだよ!」
「じゃあそんな屈辱から、どうしてメシアは守ってくれなかったの!?
「馬鹿野郎ッ! 寧ろ
それを言って、しまった、と思った。今の流れはまずい、絶対に誤解を与えた。
「―――やっぱり天罰じゃないか!! 酷い、あんまりだ、よくもそんなことを! イスラエルを継げない、イスラエルから弾き出された分際で、よくもそんなことを!!」
「………。」
「お前は
入り口の清めの瓶を持ち上げ、
重たい音がして、瓶が私の額の少し上に当たった。瓶が割れ、ひっかき傷が顔に何本も出来る。血が瞳に入ったのか、視界がおかしい。私はずぶ濡れになった状態で、何も言えず衣服を整えると、黙って後ろを向いた。この部屋から出て行こうと思ったのだ。けれども入り口には三人も人が居る。だから私が出て行くとしたら、窓しかない。窓を開けると、手入れのされていない、方々に繁った柴の木が目の前にあった。ああ、飛び降りて死ぬことも出来ぬとは。
「…そうだね、ぼくのように何度も罪を犯す者は、メシアの道に相応しくない。…出て行くよ、
「お待ち下さい!」
私が窓に脚をかけたとき、
「何故何も仰らないのです。貴方は、『他の誰にも渡さない』と仰ったではないですか。貴方は渡そうとしたんじゃない、奪われようとした筈です! この部屋に唯一いた、この人に! 卑劣な手段で!!」
「
「いずれにせよ、ぼくは相応しくない。だって―――。」
これだけは、はっきり言わなければなるまい。私が生きていた四十年近い時間の中で、どうしても私は
「ぼくは、何故売春を責められなければならないのか、今でも分からないんだ。―――ぼくは、姦淫の罪を犯したのかも知れないけど…悔い改める事が出来ないんだ。だってぼくは、それについてなんの負い目も感じていないから。…そう言うわけだから、
まだ何か言おうとしていたようだったが、これ以上は徒に私の倫理を糾弾されるだけだと思ったので、窓から柴へ飛び移り、下へ降りて、エマオを出た。
どこか行こうとした訳じゃない。西に行けば、海辺の町アソドに着く。否、そこは港町ではない。行くならば、リダを通りヤッファまで出て、そこから海沿いに北上しカイサリアに行かなくては。ああでも、船賃がない。やはり徒歩でいくしかないのか。市場で旅支度をしようにも、財布を持ち出せなかった。
「おーい、おーい。」
エマオからどこかに繋がる街道をよろよろと歩いていると、目の前から誰かが手を振って走ってくる。この声は、
「
「言伝を頼まれたので。」
「誰に?」
「それは言えません。言えば目が曇ってしまうから。」
「???」
「『エルサレムへ帰れ。司教を支えよ。神がそう望まれている。』とのことです。」
「………。」
「何があったのかは言わなくても良いことです。ですが、これは神の御言葉です。神がご入り用なのです。だから今すぐ、エルサレムへお戻り下さい。」
「………。」
「この先に、私が途中まで牽いてきた老いた馬がいます。年をとっていますが、エルサレムまでなら持ちます。乗って行かれると良い。」
「お前はどうやって帰るんだよ。」
「いえ、私は実はこの後、エマオの
「主………。主、ね………。」
けれども、あの子が私を救うとは、どうしても思えなかった。理由は、
「では、確かにお伝えしましたからね。確かに、エルサレムにお戻り下さいね。」
ガザはアソドよりも更に南の、イスラエル国の国境付近の町だ。そんなところまで本当に行くのなら、おいそれとエルサレムに帰れはしないだろう。
エルサレムに到着したとき、墓の準備をしている女達がいた。だれか死んだのか、と聞くと、
では、私に言伝を頼んだあの男は、一体誰だったのだろう?
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