第二十二節 最初の殉教

 エマオに着くと、意外なことに私達は歓迎された。というのは、どうも件の魔術師とやらが、私達が来るのを預言していたらしい。エマオはそう言えば、復活したひこばえが、その地方に逃げていた一組の親子弟子の前に現れ、一緒に晩餐を囲んだと言っていた。何故そんなところに、と聞いたところ、そこにいた息子というのは、私達の父の弟の子―――つまり、自分の従兄だったからだと答えた。私は、父が末の弟だと聞かされていたし、―――否、否、否。そういえば、弟達をごっそりと引き取ったあの時、あの家の嫌らしい贖宥者は、何か引っかかった言い方をしたような気がする。思い出せない。

 とにかくその縁で、魔術師はその親子の家にちゃっかり居座り、私達を招き入れたのだった。

 突然現実味を帯びてきた新しい親戚の存在に戸惑いつつも、私は父の弟だという岳弟がくていと、その息子だという聴耳ちょうじに挨拶をした。駒桜こまざくらは早速、この家の家畜小屋を見せて貰いに行ってしまったので、今私は、彼等の家で、魔術師の隣に一人で座る羽目になった。非常に居心地が悪い。

「いやしかし、兄さんが本当に、身寄りの無い子供を沢山引き取っていたとは驚きだよ。」

 父と顔が瓜二つの岳弟がくていは、口髭を撫でつけながら言った。どうやら畜生腹だったらしい。

「あの、私の父はてっきり、末っ子なのかと…。」

「ああ、そうだよ。海女うなめおばさんと婚姻を継続させたからね。だから、双子の弟に、一族の地位を入れ替えてくれたんだ。良い兄だよ。実に良い兄だった。死んだのが惜しい。」

 父の不器用な身の振り方が、ほんの少し、私の胸に愛おしさを産む。他人の記憶の中に、私が愛し、愛され、慕った男が、同じように慕われているのは、気分が良いものだ。

「実際、兄さんは貧乏くじだったと思うよ。同じ母親から生まれた妹の方が、よっぽどいい女だった。娘を産んでくれたなら、このエマオで一番の男に嫁がせられるくらいにいい女を産んだだろうに、全く勿体ない。」

「同じ母?」

「僕の妻で、聴耳ちょうじの母だよ。エルサレムの方に追い出して、お世話になっていた筈だけどね―――タカラメというんだが。」

「タカラメ…、たからめ…。…あー…ああ、ああ! 宝女たからめ! はい、はい、知っています。ヒコ―――いえ、メシアが十字架の業を行っておられる間、お世話をしたと聞いています。」

 どうして思い出せなかったかと言えば、この宝女たからめというのは、エルサレムに来たとき、喋れなかったのだ。舌を噛み千切っていて、舌が半分しかなく、喃語しか喋れなかった。ひこばえは何故か、彼女を癒やさなかったので、私たちは『舌噛み』と呼んでいたのだ。彼女もそれを訂正しなかったので、彼女の本名など、初めて来たとき以来、触れなかったのだ。決して母の実家の家族に無関心だったわけではない。

「母は、元気でしたか?」

 それまでずっと黙っていた聴耳ちょうじが尋ねてきた。おい、と、小さな声で、何故か岳弟がくていが諫めるが、もう一度聴耳ちょうじは重ねて聞いてくる。私は答えた。

「ええ、それが…。私はあまり良い弟子ではなくて、お恥ずかしながらメシアの元から何度か去った事もあるものですから…。そういえばいたな、くらいで。ああでも、メシアが復活した折にも、印を見せられた女性ですから、共同体の中でも重用されていると思いますよ。」

「母は、こっちに帰ってくるでしょうか?」

「よしなさい、聴耳ちょうじ。」

「でもお父さん―――。」

「黙れと言っている!! お前の母親は操を守ったが、人のていは守らなんだ。操を奪うような男の所に行くような愚か者がいては、この父の立場こそ無い! 折角漱雪しょうせつが堕落した女を娶って、私は最底辺の傍系でなくなったというのに、全く、垂乳女たらちめの娘はこぞってろくでもない! 長女に全て才覚を渡してしまいよって! 大体あの垂乳女たらちめというのは夫殺しの疑惑が………。」

 母が、妹のことを話さなかった理由や、宝女たからめが『舌噛み』と呼ばれることを拒否しなかった理由が分かった。聴耳ちょうじは暫く、私と自身の祖母の悪口を聞いていたが、ふと私と目を合わせると、にっこりと笑った。

亜母あおもさん。―――晩餐に来て下さって。それにしても、食事が遅いですね。わたし、ちょっと見てきますね。」

 それを聞いて、岳弟がくていはハッと我に返ったようだった。私が澄まして、なるたけ冷静でいるようにしていると、岳弟がくていは安心したらしく、開き直ってしまった。同じ双子でも、父とは全く違う性根の男で、私は心底、父の方に引き取られたことに安堵した。

「あのう、へっへへへ、ご家族で積もる話もありましょうが、ここは是非とも、あたくしの預言がちゃんと、メシアから来た事を証して頂きたく…。」

 魔術師の存在を忘れていた。

「え? あ、ああ…いいですとも。ですが私は、先に言ったとおり、良い弟子ではありません。一緒に居る駒桜こまざくらの方が傍に居りましたから、彼を待ちましょう。」

 正直言うと、この男はなんだか嫌な感触だ。感じ、ではなく、感触。身体を舐めとるように見つめる視線が、昔のを思い出させる。もしもメシアが、魂ではなく、政治の救世主として将軍になったのであれば、私はいち早くあの子の側近に成って、奴こそを十字架にかけるように具申しただろう。

「そうんなんで? なら家畜小屋から呼んできても? そろそろ戻って頂かないと、いつまで経っても食事が出来ませんので。」

「ええ、どうぞ、不出来な連れで申し訳ない。」

「いいええ、いいええ、いいですともいいですとも。」

 おひょほほほ、と、難しい発音で笑いながら、魔術師は部屋を出て行った。先ほど私の母と祖母をけなした男と二人きりになる。

 しかし、黙っていれば、確かによく似ている。父は六十そこらで死んだが、あの後二十年近く生きたとしたら、こんな円熟した大人になるのかも知れない。草臥くたびれた肌や、白くなった髭、輝かしい頭頂部、何もかもが父と違うのに、父にそっくりだ。

「時に、ええと、貴方はなんと言ったかな。」

亜母あおもと名乗っております。」

 私がもう一度名乗ると、岳弟がくていはにじり寄ってきて、顔を覗き込んだ。近づいて来る窪んだ瞳は、老いて弱った、最後に分かれた時の父の瞳と似ている。その瞳には黴も星もない。何処にでもいる老人の瞳の筈なのに。

「そう、亜母あおも殿。貴方は、兄の息子ですか? 本当に?」

 血縁者であれば、私の存在が、父の結婚当時の醜聞とそぐわないことを理解しているだろう。私は正直に答えた。

「いえ、同じ家系から生まれた者ではありません。エジプトに売られて、そこで暮らしていた時に出会って、メシアを守る兄として引き取って下さったんです。」

「なるほど。それは何歳の時で?」

「六つの時ですが…。あの、それが、何か?」

 すると、ふわっと岳弟がくていの手が私の頬を包んだ。温かい。

「いやね―――随分と、から、兄はどこまで堕ちたのかと思ってね。」

「ッ!!!」

 柔らかな岳弟がくていの掌の膨らみが、途端に吸い付いてくる。ぞっとして手を払いのけ、出て行こうとしたが、両脚にがっつりと蔓のように巻き付かれ、立ち上がれない。そして思った以上に重い。脚を広げられないから、力が入らないのだ。

「な、な、なん、なっ―――。」

 あまりにも突然で、予想外過ぎて、私は言葉を失った。不埒者、とか、ソドムの住人、とか、或いは色々な罵声はあったのかも知れないが、私はそのどれらも何も言えなかった。嗚呼、星だ。私の耳と、目尻の間を、星がちかちかちらちら、瞬いている。目に星のあったのは私の方だったか。

「兄は体中が黴びて死んだんだってね。穢れた息子と娘と女に囲まれて、遂に腐ったんだと。その時、一人だけ息子を追い出したと聞いたんだ。一番上の息子さ。名前はひこばえではなかったから、メシアの兄だろう。となると、私はね、心当たりは二人しか居ないんだ。それで、その内の一人はずっとナザレで大工をしてて、最近じゃあエルサレムの教会で司教様にまでなったそうじゃないか。ということは、もう一人の兄がだろう。首を吊ったと聞いていたが―――どういうテでやり込めて生き残ったのかね? 瞻仰せんぎょう。」

 私はそれを聞いて頭が真っ白になった。どういう、と、小さくオウム返しをしたその隙に、岳弟がくていはぐっと手を伸ばして体勢を変え、私の身体を腰から折り曲げて服の隙間に頭を押し込んだ。その行為の意味するところを漸く、私は激しく暴れて何とか頭を引っこ抜く。私は幼い頃、確かに老人も相手にしたことがある。けれどもそれは、子供から見れば、力で叶わないという意味で、十代も二十代も、八十代も九十代も変わらない。暴走した人間の性欲、暴力…そんなものの力を比べるまでもなく、私は身を守り今日の夕飯のために服従するしかなかったのだ。

 恐らく私は勘違いしたのだ。自分の名を正しく呼ぶこの老翁に。理不尽に蹂躙された時代の色濃い方の名前の響きに。私は蔦が生えたように動けなくなった。

「綺麗な肌だ…。本当に男なのか? 兄さんには見せたんだろう?」

 そうだ、見せた。私はに見せた。あの時、確か父は怒った。なんと言って怒ったのだったっけ。

「髭はおろか、もみあげもろくにないじゃないか。」

 そうだ、そう言われた。そのように言われた。言ったのは嗣跟つぐくびすだ。あの時はどういう流れだったのだっけ。私は何か言ったような気がするのだが、なんと言ったのだっけ。

「もう四十の声も聞こえるだろうに、本当に女のような顔をしているな。髭がなくてもみあげがなくて、肌も、髪も、本当に綺麗だね。」

 纏わり付くように私の身体の上を這い上がり、爺は私の頬に口づけた。よれた唇が触れると、びくっと身体が震えて、強張る。口付けされたのなんて、十年以上なかった。奴が私に口づける事などありえないし、私の下半身以外を褒められることなんて、子供の頃、漱雪しょうせつに愛された時以来だ。戸惑って、胸が激しく動く。

「痛いことは何もないよ。ただね、やっぱり私も年でね。一人じゃダメなんだ。手伝っておくれ、そのかわいい唇で。」

「………。」

 目の前の老人が誰なのかが分からない。年をとった漱雪しょうせつなのか? 年をとった父なのか? 否、父として対峙するとき、父は私の見かけを褒めることはしなかった。私の見かけを褒めるのは、漱雪しょうせつの方だ。ならば目の前の老人は、漱雪しょうせつなのだろうか。いつの間にか、あの閂がまたかかってしまい、扉を押しのけて、正常な判断が出てこない。

「………。」

「ほら、おいで。お前と気持ちよくなるには、そうしてもらうしかないんだ。」

「…!」

 誰だか分からない。誰だか分からない。―――誰でも良い、ただ求められているのなら、応えなければ。

 ぼんやりとした世界の中で、私は唯一くっきりと映るモノに手を添え、口づけた。よく見えなくても、臭いで、感触で覚えている。あまり考えない方が、結果として上手く行ったりするものだ。記憶を掘り起こす、というより、しまっていた武器を倉庫から取り出すように、口を動かす。それが使えるようになるまで、時間がかかったのかどうか、私には比べる術がない。だが、私が唇を離して見上げると、目の前の男は、私にありがとうと言って、額に口付け、顔を抱いて愛でた。私がころりと横になると、手を引っ張った。

「………。?」

「すまんね。上に乗ってくれるかい?」

「ん………、しょう、せつ………。」

 言われたとおりにして、漸く入ってきた細身の短剣は、非常に物足りなくて、私は腰を落として深く咥え混んだ。感嘆の息が漏れる。それでも私の閂をかけた扉に当たる風はあまりにも弱く、じりじりと焦りのようなものが胸を焦がした。燻る炎が、消し炭の中で勢いを増していき、呼吸が太く、浅くなっていく。

 足りない、足りない、足りない。何もかもが足りてない。

「ね、ぎゅってしてくれないの…?」

 手を伸ばそうとした時、パンッとその手が払いのけられる。きょとんとしていると、その手が私の手首をそれぞれ握りしめた。

漱雪しょうせつ?」

「…いい、動きなさい。勝手にイッてはダメだよ、先に私をイかせてからだ。」

「………? うん、わかった。」

 ぽわぽわとした光が私を包んでいた。漱雪しょうせつが私の中に踏み入ったのが本当に久しぶりで、私の手首を握る手の、手首を握り返し、賢明に動いた。

 なにかがおかしい。なにかがくるっている。

 そんな気はしたが、動きを止めるという選択肢はなかった。久しぶりに交われば、どうしても勘が取り戻せなかったりして、しばらくは上手く行かないものだ。

 ………? 久しぶり?

 否や、久しぶりなど無かったはずだ。弟子としてひこばえの傍に居るときも、兄としてひこばえの寝顔を見つめている時も、常に嗣跟つぐくびすの好色な眼があった。私が出奔したのだって、嗣跟つぐくびすから逃げるためだ。何度か失敗して、やり込められた事はあったし、その事をパリサイ人や律法学者に利用されたことがあった。あの時蘖ひこばえは私のことを見破ったが―――。

 ………ああ。

 あああああ、ああああああああああ、ああああああああああ。

 あの時、あの子は何と言った? 全裸で公衆の面前に引き摺り出され、必死に長い髪で顔を隠し、抗議の声を封じて、貧相な女の振りをしようと躍起になった私に、あの子は何と言った?

「…っ!」

 手首を掴まれたまま、私は太股に力を入れて、身を分かった。

「ん? どうしたんだ? せん―――。」

「黙れ!!!」

 手を引き抜き、汚れた唇から名残を吐き捨て、私は立ち上がった。

「その名前をつけたのは、ぼくが―――私が、愛したのは、心の底から、妻子から奪いたいと願ったのは………ッ!」

「どうしたんだ? いきなりそんなことを言って。ノリノリでしゃぶってくれていたのに。」

 怒りに満ちて、私は萎びた雑草になっているそこを踏みつぶし、尻ごと蹴飛ばして、拒絶する。

「私は―――私の身体は、だけのものだッ! 他の誰にも渡さない!!」

 バタン!!

 私がそう叫んだ瞬間、扉が開いた。恐ろしいものに怯えたような、駒桜こまざくら、魔術師、聴耳ちょうじが揃っている。私は彼等の真正面にいて、そしてこの好色爺は背中を向けていた。然るに―――一目で、不埒な格好をしているのは、私だけに見えただろう。

「なに、なにを…していたの、亜母あおも。」

 何と言おう。何処まで言おう。この爺に誑かされたと言うべきか。しかしそれに応えたのは私だ。思考力を無くし、肉の要求に応えたのは私だ。それに―――奴の息子に、そんなことを知らせていいのか。自分の父親が、男を誘惑したと妻を追い出した自分の父親が、男を誘惑したと教えていいのか。

「違う、駒桜こまざくら、違うんだ。」

「じゃあ、妻子から奪いたいって何? どうして、じゃないの? でしょ?」

「待て、落ち着け、駒桜こまざくら、そうじゃなくて…。」

「その罰で、なのッ!?」

 駒桜こまざくらが私を指さした。どこを差しているかなんて、考えなくても分かる。

「違う! これは、二十年近く前に薬光やっこうが―――。」

「外人がそんな昔からいるもんか! ましてあんなド田舎に! 外国から来た薬光やっこうが、なんで稼げないガリラヤにいたっていうんだよ!」

「知るもんか! いきなりひん剥いてちょん切られたんだよ!」

「じゃあそんな屈辱から、どうしては守ってくれなかったの!? 亜母あおもが悪いことをしたからじゃないの!?」

「馬鹿野郎ッ! 寧ろひこばえが切れって言ったんだよ!」

 それを言って、しまった、と思った。今の流れはまずい、絶対に誤解を与えた。

「―――やっぱり天罰じゃないか!! 酷い、あんまりだ、よくもそんなことを! イスラエルを継げない、イスラエルから弾き出された分際で、よくもそんなことを!!」

「………。」

「お前は亜母あおもなんかじゃない!! 裏切り者の澹仰せんごうとなんら変わらない、お前の名前は瞻仰せんぎょう以外のなんでもない、二度と亜母あおもと名乗るな!! 共同体から出て行け、この成り損ない!!」

 入り口の清めの瓶を持ち上げ、駒桜こまざくらが私めがけて投げつけた。私は動くことが出来なかった。その瓶を私の目前で粉砕することは、澹仰せんごうから学んだ筈なのに、動けなかった。この瓶が私の額をかち割り、それで全て終わるのなら―――私の身体が、望まない者に支配されることが終わるのなら、それでもいいと思ったのだ。

 重たい音がして、瓶が私の額の少し上に当たった。瓶が割れ、ひっかき傷が顔に何本も出来る。血が瞳に入ったのか、視界がおかしい。私はずぶ濡れになった状態で、何も言えず衣服を整えると、黙って後ろを向いた。この部屋から出て行こうと思ったのだ。けれども入り口には三人も人が居る。だから私が出て行くとしたら、窓しかない。窓を開けると、手入れのされていない、方々に繁った柴の木が目の前にあった。ああ、飛び降りて死ぬことも出来ぬとは。

「…そうだね、ぼくのように何度も罪を犯す者は、メシアの道に相応しくない。…出て行くよ、きびすには報告しておいてくれ。」

「お待ち下さい!」

 私が窓に脚をかけたとき、聴耳ちょうじが悲鳴のように叫んだ。私は身体を半分だけ振り向かせ、父親を穢された息子の罵声を待った。

「何故何も仰らないのです。貴方は、『他の誰にも渡さない』と仰ったではないですか。貴方は渡そうとしたんじゃない、奪われようとした筈です! この部屋に唯一いた、この人に! 卑劣な手段で!!」

聴耳ちょうじ! 何を言う、この父が信用できないのか!」

「いずれにせよ、ぼくは相応しくない。だって―――。」

 これだけは、はっきり言わなければなるまい。私が生きていた四十年近い時間の中で、どうしても私はひこばえの考えと合致できないところがあった。今こそその言葉を残して、私は去らなければ。

。―――ぼくは、姦淫の罪を犯したのかも知れないけど…悔い改める事が出来ないんだ。だってぼくは、それについてなんの負い目も感じていないから。…そう言うわけだから、聴耳ちょうじ、君がぼくの代わりに、エルサレムへ行くと良い。…それじゃあ。」

 まだ何か言おうとしていたようだったが、これ以上は徒に私の倫理を糾弾されるだけだと思ったので、窓から柴へ飛び移り、下へ降りて、エマオを出た。


 どこか行こうとした訳じゃない。西に行けば、海辺の町アソドに着く。否、そこは港町ではない。行くならば、リダを通りヤッファまで出て、そこから海沿いに北上しカイサリアに行かなくては。ああでも、船賃がない。やはり徒歩でいくしかないのか。市場で旅支度をしようにも、財布を持ち出せなかった。

「おーい、おーい。」

 エマオからどこかに繋がる街道をよろよろと歩いていると、目の前から誰かが手を振って走ってくる。この声は、桂冠けいかんだ。

桂冠けいかん…? お前、どうしてこんな所に…。」

 桂冠けいかんは叫びながら走ってきたにも関わらず、息も切らさずに私の前に迫って立った。

「言伝を頼まれたので。」

「誰に?」

「それは言えません。言えば目が曇ってしまうから。」

「???」

「『エルサレムへ帰れ。司教を支えよ。神がそう望まれている。』とのことです。」

「………。」

「何があったのかは言わなくても良いことです。ですが、これは神の御言葉です。神がご入り用なのです。だから今すぐ、エルサレムへお戻り下さい。」

「………。」

「この先に、私が途中まで牽いてきた老いた馬がいます。年をとっていますが、エルサレムまでなら持ちます。乗って行かれると良い。」

「お前はどうやって帰るんだよ。」

「いえ、私は実はこの後、エマオの駒桜こまざくらさんにも言伝を伝えなければならないのです。駒桜こまざくらさんは、このままガザに向かうように、主がご命令なさっています。その間に、エルサレムに帰ってきて欲しい、との、主のお申し付けなのです。」

「主………。主、ね………。」

 桂冠けいかんの主は、ひこばえなのだろう。私も、ひこばえは確かに神の子だったと思う。あの子は特別な使命と運命を持って生まれた子だ。それは分かる。

 けれども、あの子が私を救うとは、どうしても思えなかった。理由は、駒桜こまざくらに言った通りだ。あの子の傍に三年いても、答えが出なかった。私がメシアとしてひこばえを伝えるのは、私が救われたからではない。ひこばえの教えが確かに素晴らしく価値があるということと、ひこばえが私を救うのとは、違う話なのだ。

「では、確かにお伝えしましたからね。確かに、エルサレムにお戻り下さいね。」

 桂冠けいかんは念を圧して、たったかと私が歩いてきた方向に走って行ってしまった。

 ガザはアソドよりも更に南の、イスラエル国の国境付近の町だ。そんなところまで本当に行くのなら、おいそれとエルサレムに帰れはしないだろう。きびすに説明をして共同体を抜けるまでの時間はあるかも知れない。私はその言葉に従い、少し歩いた所にぽつんと座り込んでいた馬を立たせ、エルサレムへ急いだ。


 エルサレムに到着したとき、墓の準備をしている女達がいた。だれか死んだのか、と聞くと、桂冠けいかんが石で打ち殺されたのだと言った。他にも多くの同志が獄に牽かれて行ったのだという。きびすは無事サマリア地方のアリマタヤの方へ逃げた筈だと言われた。若枝わかえ神授しんじゅ、そして母と、一部の女弟子達は、その時一緒に居たが、あまりにも桂冠けいかんの弟弟子が荒れ狂い、共同体に出資だけしている仲間達ですら縄で縛って引き連れていったので、アリマタヤに一緒に逃げられたのかどうかは分からない、と言った。


 では、私に言伝を頼んだあの男は、一体誰だったのだろう?

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