第二十一節 桂冠の憂鬱

 ひこばえが居た頃、私達ナザレ派は、その圧倒的な求心力で一つにまとまっていた。百戦錬磨の筋金入りの律法学者すら、一刀に伏すメシアの弁舌の賜物だろう。しかし、どことは言わないが、開祖や始祖がしっかりしていて、強い光に守られ、神に愛されていればいるほど、その後の組織を担う次代の頭達は腑抜け揃いのお間抜け団体になる。何処とは言わない、何処とは。

 しかしナザレ派にもその波は来ていて、私が亜母あおもと名乗るようになったときびすが手紙を方々に出している間、エルサレムは分裂しかかっていた。というのは、私やきびす、母や、それからちゃっかりついてきていたかずなど、メシアの『血族』を神聖視したがるユダヤ人、つまりヘブライストと、ギリシャ人やローマ人から成るヘレニストとの対立が激化していたのである。特に、それぞれの派に属する寡や女達が、少しでも侮られたと思おうものなら、もう手がつけられない。尚悪いことに、エルサレムではメシアの教育の置き土産として、女どもの発言力が強かった。決して大事を決めるどころか小事を決める会議にさえ出させて貰えなかったものの、その影響力たるや、後に母となる生物の恐ろしさを垣間見る。やれ席順が、やれパンの配分が、と、何のためにこの教団にいるのか分からないような争いが次々と、細々と起きていた。きびすはその間にも、他の地に行った弟子との連絡や、その弟子が残した教会への励ましの手紙で忙しくしていたし、それ以外に私達も宣教活動がある。外に出ず、祈っているだけの女達や、若枝わかえのようにくっついてきて書き起こすだけの女達と比べたら、私達は過労のあまり発狂してしまう。この前も、軒並み逮捕されて、鞭打ちに遭ったばかりだ。

それでなくとも、謦咳けいがい恩啓おんけいは、全く学習せずに上手く立ち回れず、議会に逮捕されていて、緊張が解けない状況である。

 そこできびすは、ヘレニストの中で一番信頼の置ける仲裁者として、桂冠けいかんを初めとする七人を選出した。一応会議が開かれたそうだが、全員満場一致で、会議らしい会議にならなかったそうだ。………単純にこの面倒から解放されたい一心だったと思うのだが。

 しかして桂冠けいかんは、特に優れた、実に良く出来た共同体の指導者だった。元々パリサイ派の律法学者の卵だっただけあって、咄嗟の仲裁でも正確に聖書を引用して鎮めることが出来る。メシアのような求心力はなかったが、その確実な知識量と教養は、人々を唸らせた。この頃には、元祭司などのパリサイ派からも信者がいたので、彼等の疑問や難癖を、桂冠けいかんは全て解決してみせた。私は言葉や拳の暴力はよく見てきたが、知識の暴力というのもあるのだな、と、しみじみ思った。

「はあ………。」

 とは言え、桂冠けいかんはメシアではない。メシアから特別な権能を授かった十二弟子ですらない。体力も気力も人並みだ。ただ他の者と違うのは、僅かな労力で、最も有効な句を引き出せることだ。疲れも溜ることだろう。

「どうした桂冠けいかん、一服するか?」

「ああ、せん…失礼、亜母あおもさん。ありがとうございます、頂きます。」

若枝わかえ、持ってきてくれ。…で、今度はどうした? どの寡が騒ぎ出したんだ。」

 私はこれから疲れる話が長引くだろうと、ごろんと床に寝そべった。それを受けて、桂冠けいかんも横になる。

「いえ、それは先ほど仲裁してきたんですけれど。…そうではなくて、弟が心配で。」

「弟? お前、孤児で博士ラバンに引き取られたって言ってなかったか? 生き別れ?」

「いやいや、そんな大袈裟な話ではなくて、弟弟子ですよ。ラバンの所で、私と一番長く学んでいた弟弟子がいるんです。」

 若枝わかえが葡萄酒と果物を持ってきたので、私は手短に祈りをし、葡萄を一粒頬張った。

「弟弟子ねえ? そいつ、今どうしてんの。」

「ええ、どうも、私を探しているみたいなんです。『桂冠けいかん兄さんの居場所を吐け』って、怒鳴りながら私達の仲間を追いかけてたらしくて。」

「そんなの、ぼくは聞いてないぞ。」

「ええ、ヘレニスト側の男がそう言われたので、私の立場を考えて、きびす司教や他の長老方には何も言わなかったみたいです。」

「はあ………。」

 ここに来てまだ派閥争いを考えている事に、溜息が出た。

「私は名乗り出た方がいいのでしょうか? 聡い子だから、ひこばえさまが約束された救い主だと教えれば、信じるでしょう。」

「いやー、止めといた方が良いと思うぞ。寧ろ引っ込んでろ。ぼくはヘブライストとヘレニストの仲裁なんて出来ない。少なくとも、お前の後任が育つまでは、お前は無事でいるべきだ。っていうか、無事でいてくれ。」

「ご当人から、私達はひこばえさまのような神の子ではない、と仰ってみては?」

「言ったよ。言ったけど、一緒に育ったから、特別な恵みをなんたらこうたらと…。母さんへの崇敬なんて、まるで女神みたいだ。」

「女神? 亜母あおもさんは、女神が崇められている地にいたんですか?」

「あ、いや、噂というやつさ。」

 きびすも私も、無論母も、私達家族の成り立ちは教団の中で公言していなかった。十二弟子達は知っているが、ひこばえがメシアとしてこの世を去って、エルサレムにて共同体として生活するようになってからは、話していない。特に私が嫌がったという訳でもないのだが、余計な些末事で、メシアへの期待や希望を曇らせることはないと考えたのだ。今でも、きびすの左足に骨がないことを知っているのは、きびすの側近だけだし、私の過去―――私が神殿娼婦だったことを知っているのは、口外していなければ嗣跟つぐくびす達だけだ。

「難しいですね。メシアと同じ時代に生きていても、私達はメシアを肉眼で見たわけではない。御母堂さまが特別な聖女であることは間違いありませんが、そこに神秘や神を見いだすのは間違っています。」

「ぼくから見たら、ただのどこにでも居るおばさんだけどな。」

 流石に睨まれた。

「話を戻して…。必要なら、桂冠けいかん。明日の説教、ぼくが代わろうか?」

「今、伝道してる場所は、エマオの方です。」

「エルサレムの東だろ? 馬に乗ればすぐさ。明日、ぼくがエマオに行く。で、桂冠けいかん、お前はエルサレムで説教をするんだ。エルサレムは敵のサドカイ派も多いが、味方の共同体の面子や、ぼく達に味方しているパリサイ派も多い。」

 これは実に奇妙なことなのだが、メシアがまだひこばえとしか呼ばれていなかった頃、サドカイ派、パリサイ派、祭司達は、団結してひこばえを殺すために様々な奸計を企てた。ところが、いざひこばえが、確かに神の子であったと分かると、今度はサドカイ派と私達は対立することになり、パリサイ派は共同体の一部―――有り体に言えば、ヘブライスト達との仲が良好だった。それもそのはずで、パリサイ派は本来、ユダヤの規律を重んじ、伝統を重んじ、ユダヤ民族がいつしか国を得る為に研鑽する派閥だ。故に、ユダヤの預言書に記されたメシアが誕生し、その使命が遂行された今となっては、私達と対立する要素がない。しかしながら、ヘレニスト達とは、共同体とのことがあっても、仲が良くなかった。

 要するに、政治的指針と、信仰上の指針の組み合わせが多様で、共同体の中にも様々な仲良し組があったのである。

「もし馬を使うなら、駒桜こまざくらさんを連れて行ってください。あそこまで馬で行くと、途中で馬がバテてしまうので、馬の管理が出来る人が必要です。」

「そうか、じゃあそれを伝えてくるよ。」

 すると、黙っていた若枝わかえが口を挟んだ。

「先生、私はどちらに着いていけば良いですか?」

「お前を馬に乗せていくことは出来ないから、お前は桂冠けいかんについて言って、桂冠けいかんの説教でも聞いて、手紙に起こしてやれ。」

 若枝わかえは少しむくれたが、最終的には頷いて了承した。

「じゃ、若枝わかえ、明日に備えて、桂冠けいかんと親睦を深めておきな。ぼくは駒桜こまざくらに予定の変更を言いつけてくる。」

「はい、先生。…じゃあ、桂冠けいかんさん、私にも桂冠けいかんさんのお説教、お聞かせくださいな。」

 こうしてみると、若枝わかえが女で実に惜しいと思う。

 駒桜こまざくらは教会の傍で間借りしている厩にいた。じめっとした洞窟の壁が、私の声を反響させる。駒桜こまざくらはすぐに出てきた。私が明日の予定の話をすると、駒桜こまざくらはぱっと顔を輝かせ、行きたい行きたい、と、はしゃいだ。そしてそのまま、明日連れて行く馬を二頭選び、厩の入り口に繋ぎ直した。

「時に瞻仰せんぎょう…じゃなかった、えっと、えっと、亜母あおも。エマオといえば、そこに高名な魔術師がいるのは知ってる?」

「魔術師?」

「ウン、しかしね、これが悪魔崇拝者じゃないんだってさ。神に選ばれたと自信に満ちていて、どうもその信仰心で、奇跡を起こすらしい。」

「ならいいんじゃねえの? 別に敵対してるわけじゃなし。」

「えっと、えっと、要するにね。自分の力で起こしてるって言ってるんだよ。もう四十年は続けてるらしいから、メシアにもらった力じゃないよ。」

「メシアが生まれる前だって、神の力は母さんに下ってたぞ?」

「でもやっぱりよくないよ。神さまの力や御名じゃなくて、自分に備わってる能力だって言ってるんだよ?」

「んー…。まあ、現地に行ってみようぜ。それで目に余るようなら、改心させればいい。」

 駒桜こまざくらはまだ不安があるようだったが、大丈夫だって、と、私が肩を思い切り叩くと、吹っ切れたようだった。

 その日の晩餐は、少し豪華だった。それで、私達は自分達が宣教の場所を変えたことを言いそびれてしまった。そしてそれが、私が桂冠けいかんを見た最後だった。

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