第二十節 我が名を呪え

 ゲッセマネの園は小高い丘である。そこで、久しぶりにひこばえが一人になりたいというので、謦咳けいがい嗣跟つぐくびす恩啓おんけいだけが傍に固まった。その他有象無象は、もう少し離れた所で座り込んでいた。涙目になったひこばえは、いつもの甘ったれたひこばえのもので、ぐすぐす泣きながら「一緒に祈ってて」というので、皆静々と祈っていた。…筈なのだが、私を含め、皆船を漕ぎ出し、そのままドボンと眠りの海に沈んでいった。私は、一度は眠りの海に沈んだものの、何とか浮上してきて、これではいけないと立ち上がった。他の弟子達も起こそうかと思ったが、その前に兄として、あんなに弱気になっている姿を人に見られたくもなかろうと、一人でひこばえの元へ行った。嗣跟つぐくびすらも眠り込んでいて、謦咳けいがいに至っては腹をぼりぼり掻きながら鼾までかいていた。

 ダメだこりゃ、ほっとくか、と、私は冷たく彼等の横顔を突っ切り、ひこばえの元へ歩いた。絞り場に伏して祈っていたらしいひこばえは、濡れた手拭いが無造作に引っかけられているかのように、ぺったりぐったりとしていた。星明かりでも分かる、白い着物に滲んだ血の跡に驚き、私は走り寄った。

「おい、おいヒコ! どうしたんだ、この血!」

「ぐす…っぐす…っ。」

 ひこばえの上半身を抱き起こすと、ひこばえの顔は血塗れだった。がめつい娼婦だって、こんな風に流血はしない。ぎょっとして私は自分の袖で顔を拭った。拭っても拭っても、顔から血が噴き出してくる。こんな奇病にかかっていたのかと思うほどだったが、いやそもそも、と、別の結論を出す。

「大丈夫、にっちゃ、病気じゃない。」

「病気じゃないって…。血の汗なんて、語り草でしか聞いたことないぞ。誰にやられた?」

「………。にっちゃ、みんな、寝ちゃったね。」

 私も転た寝をした手前、何も言えなかった。ひこばえはどうやら、それが血の汗が出るほど悲しく苦しかったらしい。

「ううん、いいんだ。でも、一緒に起こしてほしいな。」

 これは幸いと、私は日頃表現しきれない感情を込めて、嗣跟つぐくびすを起こした。

「ひいいっ! すみません、すみません、ラビ! あの、その、昼間の賊を追いかけたんで、それに葡萄酒もしこたま飲んで、眠くて眠くて、その。」

「いいよいいよ。どうせボクの悲しみなんて、それっぽっちだもん。」

「ラビぃぃぃ………。」

 いい気味だ。

 ひこばえは拗ねたように背中で腕を組み、石をこつこつと蹴って転がした。豪快に寝ている謦咳けいがいの首根を掴み、私が頬を叩いていると、ふと、転がっていく石がもうなくなって、辺りは荒野のようになっていることが分かった。ぞろぞろと誰かが近づいている。ひこばえは後ろ手に手を組んだまま、動かない。

「誰を探しているのですか。」

 ひこばえが尋ねた。どうやら彼等は兵隊らしい。さっと松明が掲げられ、その装備と、その中にあるにはあまりにも平和的な―――牧歌的な、平凡な服を着ている男が一人いる。澹仰せんごうだ。何故あんな所にいるのだろう。捕まっている訳ではないらしいのに。

「ナザレ人のひこばえという男を。」

「良いだろう、死ね。」

 相手が律法学者達の手先だと分かると、先ほどまでおろおろと怖がっていた嗣跟つぐくびすは勇んで突進していった。次々彼等が大ぶりな棒や剣を構える中、一人の小さな少年がひょいと出てきて、小さな短剣を持ってこっちへ走ってきた。

「国家転覆の反逆者、覚悟!」

「ナメやがって、このクソガキ!」

謦咳けいがい!」

 ひこばえが静止するよりも先に、謦咳けいがいが少年兵の短剣を奪い取り、左耳を削ぎ落した。衝撃で音も声もなく崩れ落ちるその身体を、ひこばえが受け止める。ひこばえが彼の顔に手を当てると、血の滝は忽ち枯れて、少年はきょとんとして、たった今無くなった筈の器官を触っていた。恩啓おんけいが血の多さにくらくらしているので、私は好機と思い、ひこばえに耳打ちした。

「ここは嗣跟つぐくびす謦咳けいがいに任せて、今は逃げよう。」

。」

 騒がしい喧噪の中にあって、尚も静かなその声が、静かに足音を立てて、近づいて来る。澹仰せんごうが、何とも言えない満ち足りた幸福そうな、そんな悲しい顔で歩み寄ってきていたのだ。

「………。」

「………。」

 二人は眼で会話しているのか、何も言わなかった。澹仰せんごうが手を伸ばし、ゆっくりとひこばえの頬に触れる。その頃にはそのあまりにも妖艶な光景に、兵士も馬鹿も、無論兄で弟子である私ですら、食い入って見つめていた。

。」

 意味を幾重にも取れる僅かな言葉が、私が、否、私達が聞いた、澹仰せんごうの最後の言葉だった。

 その口付けの後に、ひこばえは捕縛され、連れて行かれた。私達をも連れて行こうとした兵隊に、ひこばえは、

「ナザレのひこばえというのは私のことです。私がナザレのひこばえだと言っています。この人達は去らせなさい。」

 と、まるで王の号令のようにそう言うので、兵士達は皆身じろいで私達を逃がした。


 この後に起こった悲惨なことは、その結果がどれほど素晴らしい事とても、私は語りたくはない。私は確かに、ひこばえの弟子であった。しかしそれ以前に、家族で、兄で、そして時には育てもした、私の愛しい弟だったのだから。

 三日の絶望の時間を乗り越え、四十日間の素晴らしい時間で、私達十二弟子は、明らかにそれまでの凡夫では無くなった。言うなれば一種の『ひとでない』とでも言うべきだろうか。十二弟子でなかった者達は、それまでの十二弟子くらいにまで高められた。異様な熱気が教団を包んでいて、その熱気が、天地を創り、自然を創り、動物を創り、そして人を創り、楽園に住まわせ、追い出した神から来たのだと、我々は神の前に真実まことに正しいのだという絶対の自信に満ちていた。

 故にこそ、私の呪いは現れたのであろう。


 迫害の軍馬が街道を駆け抜ける頃、エルサレムにいた十二弟子は、私ときびす謦咳けいがい、そして神授しんじゅだった。私ときびすは、ひこばえの兄弟だったために、そして神授しんじゅは最高齢だった為に、遠くへの宣教よりも、地盤を確かにしてほしい、との他の弟子達からの要請だった。そして何故か、あのクソ医者もいた。といっても、クソ医者―――基、薬光やっこうは、別の仕事があったのだ。迫害から敗走してくる血気盛んな弟子―――否、今となっては『信者』の傷を診るのに忙しく、とてもどこかへ行ける風ではなかった。謦咳けいがいは私が何度か出奔している間に、段々と偉くなっていたのは知っていたが、私はてっきりそれは、自分達の愚かで恥ずかしい疑問や質問をして貰うための傀儡だと思っていた。が、それがいつの間にか確かな尊敬に変わっていて、受惠じゅけいの元にいた時に比べて、なんとまあ出世したことかとしみじみ思った。それだけに、誰よりも宣教への熱意を持っていたようで、暫くの間、きびすを内弟子のように連れ回していた。何故私が選ばれなかったのかは知らない。ただ、私は私で、私に与えられた娘のような存在である若枝わかえを、女衆の頭目に出来ないかと、やはり連れ回していたので、人の事は言えない。

 私が出奔している間に、誰が教育したのか、若枝わかえはいつの間にか簡単な文字か書けるようになっていた。これは私にとっては実に喜ばしいことだった。私の話した説教を、若枝わかえが記憶し、文字に起こし、読めない者には話して聞かせる。私はエルサレム教会の内々の事情には全く興味が無かったので知ることもなかったが、少なくともきびすには良い刺激だったようだ。元々身体と家柄がしっかりしていれば、文官になってもおかしくないような出来映えの子だったから、彼が読み書きをするようになり、人の手を借りれば手紙を書けるまでになったというのには、驚かなかった。…その『助手』というのが薬光やっこうであったことについては、私は最早触れることを諦めた。

 ただ、きびすが既に、私を含む長老の長として、司教と呼ばれる重役になりつつある事を考えると、私のような争いの種になるような男とは距離があった方が良いだろう、とは思った。しかし私はエルサレム近郊での宣教を止めなかった。外へ出なかったのは、偏に若枝わかえのことがあった。ひこばえ―――メシアの傍に居たが為に、行かず後家になってしまった若枝わかえに、せめて志の同じくするユダヤ人の連れがいればいい、と思うと、ユダヤ人が多くいるエルサレム、基イスラエルから出るのは憚られた。

 私はそこまで考えていたのだが、しかし神授しんじゅは更に先も考えていたらしい。彼は老骨に鞭打ち、私達の宣教に何時もついてくる事になるのだが、その初回の時の出来事である。


 どこの町だっただろうか。メシアとの旅で立ち寄ったことのないイスラエルの町はなかったように思えたが、いざ実際に自分が行こうと言うことになると、印象に残っていない町は多いものだった。そんな名も無い町での出来事である。

 週の終わり、安息日がもう半日で終わるという朝方の頃、私はその町に着き、会堂を探した。町の娘達に道を聞こうとすると、突然外でユダヤ人の男が声をかけるとは、すわ強姦か強盗目的かと疑われたのには面喰らったが、考えてみればメシアが異常だったのだ。とりあえず若枝わかえを通して会堂を教えて貰い、会堂長に今日の集会で説教をする許可を貰った。会堂長は、私が今をときめくナザレ派の教師だと知ると、興味を惹かれたようだった。私は会堂長にその日に読まれるべき聖書を見せてもらったが、字が読めなかったので、数字と書名だけを教えて貰った。それだけで私は、どの話か分かる。父の教育の賜物だ。

「それでは、今日は最も偉大な預言者が記した幻についての書、九章の十七節より三節、お話致します。ですので、そこをまず読み上げたいと思います。」

 私は読んでいるフリをしながら、記憶を奮い起こした。

「それ故、主はその若き人々を喜ばれず、その孤児と寡婦とを、憐れまれない。彼らは皆、不信仰であって、悪を行う者、全ての口は愚かな事を語るからである。それでも主の怒りは止まず、尚も、その御手を伸ばされる。悪は火のように燃え、いばらと、おどろとを食い尽し、茂りあう林を焼き、煙の柱となって巻きあがる。万軍の主の怒りによって地は焼け、その民は火の燃えくさのようになり、誰もその兄弟を憐れむ者がない。………この箇所ですが―――。」

 その時、一人の聴衆が手を挙げた。

「先生! その前に、先生のお名前を教えてください! お弟子は十二人いらっしゃったと言います、その中のどなたなのかを!」

 私は答えた。

「失礼。私の名前は、瞻仰せんぎょうです。」

 静かだった聴衆が、更に静かになった。その僅かな空気の温度を感じ取り、若枝わかえが傍に寄り添ってくる。

「セン…セン、なんと言った?」

「センギョウ?」

「いや、澹仰せんごう?」

澹仰せんごう?」

澹仰せんごう!」

 私が訂正しようとしたとき、石投げのようになった手拭いが飛んで来た。神授しんじゅがさっと私を抑えると、その手拭いは会堂の屋根に穴を開けた。

「メシアを裏切った奴だ!! 生きていたんだ!!」

「くたばりぞこない!! メシアを返せ!!!」

「よくも神を裏切ったな、お前のせいでイスラエルは滅ぶ!!!」

「十二部族皆の子孫が、お前の為に呪われる!!」

「何故生きてる」「何故死んでない」「地獄に落ちろ」「悪霊に喰われろ」

 様々な物が罵声と一緒に飛んで来た。若枝わかえを引き寄せ、説教台の下に隠す。神授しんじゅは器用に私を抑えながら、自分の頭もちゃんと守っているようだった。

「殺せ!! そうしたらメシアは喜んでくださる! 金に穢れた裏切り者を殺せ!!!」

 誰かがそう言った。その声は酷く響いた。―――まるで人外のものであるかのように。

 人の暴走が持つ力は、私が身体を持ってよく知っている。神授しんじゅと身体を入れ替え、説教台を倒し、神授しんじゅの背中と頭を隠させた。露になった私の姿を見て、民衆が憎しみと侮蔑にどよめく。

「裏切り者!! イスラエルから出て行け!!」

「このイスラエルのどこにもいるな!! 出て行け!!」

「そこを動くな、ぶっ殺してやる!」

「十字架みたいに殺してやる!!」

 出て行けといったり、動くな殺すといったり、忙しい奴らだ。私は驚く程、冷血な程冷静で、足下で若枝わかえが悲鳴を圧し殺して私を呼んでいるのは勿論、私を狙う礫が、どのように投げられて行くのか、よく見えた。こればかりは澹仰せんごうのお陰かも知れない。少なくとも大工仕事では培われない能力だ。私は怒れる男共の一人の手を引き、せいやと民衆に投げつけた。途端に、石を取り落とす男や、放り投げられた男が私だと勘違いする者などで入り乱れる。私は飛び石のように出来た屈んだ男の背中の上を走って、会堂の中程まで来た。中程までになると、女が入れる領域になる。彼女等はまだ少し、冷静だった。

「貴方、ねえ貴方、嘘よね、澹仰せんごうが神様を裏切っただなんて………。」

 一人の老婆が、私の服を遮二無二掴んで追いすがった。直感で、この老婆には答えないといけない、と、私は思い、さっと身を屈め、耳元で囁いた。その時、私の周りは、神がお膳立てをしたかのように、静かに思えた。

澹仰せんごうは『承った』のです。ご婦人、お健やかに。」

 雰囲気で、老婆が涙を流したのが分かった。しかし流石に、それを確かめる余裕はなくて、私は会堂を飛び出した。外にいた者達は、突然沸きだった会堂にぎょっとしながらも、私が彼等の敵であると言うことは理解しているようだった。

 連中の興味は私にしか向けられていないだろうし、私の連れの事など考えても居ないだろう。しかし高齢の神授しんじゅや女の若枝わかえが民衆から逃げるときに必要かも知れないので、乗ってきた馬が繋いである方とは反対の方を走った。走って、走って、エルサレムの中にある隠れ家に駆け込んだ。

瞻仰せんぎょう!? どうしたんだ、神授しんじゅさんや若枝わかえは? どうしたの?」

 隠れ家の中では、女達にきびすが教えていた。女達はどよめいたが、きびすは真っ先に立って、私に近づいてきた。

「………。」

瞻仰せんぎょう? どうしたの? どこにも傷はないみたいだけど…。ねえ、二人は?」

「…………………。」

 私は何も言えなかった。

 澹仰せんごうは良い弟子だったと思う。私からみれば、だが。あの晩、私はベテパゲに行かなかった。しかし今思うと、あの香油騒ぎの時、澹仰せんごうはベテパゲに走ったのだろう。そして、取引の話をしたのだ。私は、私がやると言っておきながら、やるのを忘れてしまった。それはどうしようもない理由があったのではなく、ただ私がナルドの香油の後始末に心を奪われていたからではなく。皆が寝静まった後でも行けたのだ。だが、。しかし、。それがきっと全てなのだろう。

 澹仰せんごうは自責の念に堪えかねて首を吊って死んだ。あの朱の差した花蘇芳はなずおうの樹にぶら下がっていたのは、ともすれば私だったのかも知れない。だとすれば、今のように会堂を追い出されるのは、澹仰せんごうだったのだろうか。もし私が死んでいたら、澹仰せんごうが今の私のようであったのだろうか。

 ならば今、私と澹仰せんごうを分け隔てるものは何もないのではないか。

瞻仰せんぎょう? …泣いてるの?」

 否や、違う。私は澹仰せんごうではない、瞻仰せんぎょうだ。あの輝かしく悲しい微笑みを浮かべることの出来た弟子とは違う。取引の内容に怯えることなく、メシアの意志を遂行した弟子とは違う。名前がその人だとあれが言うのなら、私と澹仰せんごうは確かに別人で、同人なのだ。そして私と澹仰せんごうは、『神を賛美する者に育て』というただその一点のみで、同一なのだ。それ以外は、私は澹仰せんごうとは違う。

 事実、澹仰せんごうは売春などしたことがないのだろうから。

「皆さん、今日はこれまでにさせてください。わたしの兄弟を落ち着けなくてはいけません。…それから、そう、そこの君、彼と一緒に行った神授しんじゅ若枝わかえを探してきてくれ。女奴隷の形であれば、うろちょろしていても突然捉えられる事は無いだろう。」

 彼女がなんと言ったか、聞き取れなかった。きびすに引っ張られて部屋の奥に入った時、私は涙を流して蹲った。絞り出して喘ぐように泣いた。きびすは何を聞いても無駄だと思ったのか、私の肩を抱いて、うるさかろうに、その耳を私の口元にあてて、何も言わなかった。私が何を言っても聞き取れるように、静かにしていた。

「…きびす、ぼくは、教団から出ようと思う。」

「………どうして?」

「…ぼくの名前は、『瞻仰せんぎょう』だ。だから誤解を生んでしまう…。もし、ぼくとお前が兄弟だと分かったら、お前も一緒に教団を出て行かなくてはならないかもしれない。」

「答えになってないよ。何があったの? おいらはメシアじゃないよ、言って貰わなきゃわかんない。」

 本当に分からないのだろうか。

「………。澹仰せんごうと、間違えられて…。石を投げられて、殺されそうになったんだ。…神授しんじゅ若枝わかえとは、とりあえず離れて、遠回りをして帰ってきた。…馬を置いてきたから、ぼくよりも早く、教団に戻っていると思った、の、に………。」

 あの二人が先に戻っていないのは、どうしてなのか。よもや連れだと分かって、殺されてしまったのではないか。私は引きつけられて居なかったのではないか。

「そんな…。だって、澹仰せんごうさんと瞻仰せんぎょうじゃ、全然似ても―――あっ。」

「そうだよ、名前だ。名前が似てて…それで、聞き違えた聴衆がいて、一気に会堂が暴徒の渦に………。」

 あのまま二人が打ち砕かれて、若枝わかえが男どもに食い荒らされ―――。

きびすさまああああああああああッ!!!」

「ぎゃんっ!」

 ガコン!

 突然扉が開き、きびすが私を押し倒した。きびすが足を捻らないように、咄嗟に抱きとめて転がる。扉を開けたのは、若枝わかえだった。若枝わかえは私の胸に抱きかかえられているきびすの腕を掴み、立ち上がれないきびすを引っ張って連れ出そうとする。

「大変です大変です、先生が、先生が殺されちゃう!!」

「せ、先生って、瞻仰せんぎょうのこと?」

若枝わかえちゃん若枝わかえちゃん、ちょっと落ち着こう、ね? 大丈夫だから。」

 尚も息巻く若枝わかえを、後ろから引き摺られてきたらしい神授しんじゅが宥める。ほらほら、と、促され、鬱陶しそうに振り向いたその顔が、一気に花開く。

「先生ィーーーっ! 良かった、生きてらっしゃった! 馬が残ってたから、どうなったかと!」

 感極まって泣いている若枝わかえを見て、私は慌てて顔の水を拭き取った。神授しんじゅはそれでもお見通しだったらしく、また事の顛末を見ても居たので、扉を閉めた。泣きじゃくる若枝わかえを私の膝の上に乗せ、きびす神授しんじゅ、私で話し合ったが、何処に行けば私が澹仰せんごうと間違えられないのか、結論が出なかった。

 すると、一通り泣いてすっきりした若枝わかえが提案した。

「そもそも、どこにも行かなくても良いのでは? 先生の本名が問題なら、先生はメシアの使徒として新しい名前を、きびすさまから頂けば良いのです。」

「それだ! その方が良い! そうしよう、きびすちゃん。瞻仰せんぎょうちゃんに新しい名前をあげよう! それでここでこのまま活動して貰えばいい!」

「それはいい! 是非そうしよう、まだおいらは一人じゃ何もできないから、だから新しい名前をつけよう。」

「ええ………。」

 私の意志は置いておいて、話が明るい方向にまとまってしまった。陰鬱と左遷先を考えるより良いか、と、思ったが、『教団でこれ以上広まる前に』と、私は自分と神授しんじゅ若枝わかえに与えられた部屋で三日間閉じ込められることになった。

 漸く出られるというとき、きびすは何だか嬉しそうな顔で言った。

「聞いたよ、受惠じゅけいさんの教団では、皆のオカンだったんだって? それを聞いて思いついたよ。新しい名前は、亜母あおもだ!」

 こうして、私は瞻仰せんぎょうという名を秘匿し、亜母あおもと名乗る事になったわけだが、私が亜母あおもと名乗って始めにしたことは、謦咳けいがいをぶん殴る事だった。

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