第二十節 我が名を呪え
ゲッセマネの園は小高い丘である。そこで、久しぶりに
ダメだこりゃ、ほっとくか、と、私は冷たく彼等の横顔を突っ切り、
「おい、おいヒコ! どうしたんだ、この血!」
「ぐす…っぐす…っ。」
「大丈夫、にっちゃ、病気じゃない。」
「病気じゃないって…。血の汗なんて、語り草でしか聞いたことないぞ。誰にやられた?」
「………。にっちゃ、みんな、寝ちゃったね。」
私も転た寝をした手前、何も言えなかった。
「ううん、いいんだ。でも、一緒に起こしてほしいな。」
これは幸いと、私は日頃表現しきれない感情を込めて、
「ひいいっ! すみません、すみません、ラビ! あの、その、昼間の賊を追いかけたんで、それに葡萄酒もしこたま飲んで、眠くて眠くて、その。」
「いいよいいよ。どうせボクの悲しみなんて、それっぽっちだもん。」
「ラビぃぃぃ………。」
いい気味だ。
「誰を探しているのですか。」
「ナザレ人の
「良いだろう、死ね。」
相手が律法学者達の手先だと分かると、先ほどまでおろおろと怖がっていた
「国家転覆の反逆者、覚悟!」
「ナメやがって、このクソガキ!」
「
「ここは
「せんせ。」
騒がしい喧噪の中にあって、尚も静かなその声が、静かに足音を立てて、近づいて来る。
「………。」
「………。」
二人は眼で会話しているのか、何も言わなかった。
「ほな。」
意味を幾重にも取れる僅かな言葉が、私が、否、私達が聞いた、
その口付けの後に、
「ナザレの
と、まるで王の号令のようにそう言うので、兵士達は皆身じろいで私達を逃がした。
この後に起こった悲惨なことは、その結果がどれほど素晴らしい事とても、私は語りたくはない。私は確かに、
三日の絶望の時間を乗り越え、四十日間の素晴らしい時間で、私達十二弟子は、明らかにそれまでの凡夫では無くなった。言うなれば一種の『
故にこそ、私の呪いは現れたのであろう。
迫害の軍馬が街道を駆け抜ける頃、エルサレムにいた十二弟子は、私と
私が出奔している間に、誰が教育したのか、
ただ、
私はそこまで考えていたのだが、しかし
どこの町だっただろうか。メシアとの旅で立ち寄ったことのないイスラエルの町はなかったように思えたが、いざ実際に自分が行こうと言うことになると、印象に残っていない町は多いものだった。そんな名も無い町での出来事である。
週の終わり、安息日がもう半日で終わるという朝方の頃、私はその町に着き、会堂を探した。町の娘達に道を聞こうとすると、突然外でユダヤ人の男が声をかけるとは、すわ強姦か強盗目的かと疑われたのには面喰らったが、考えてみればメシアが異常だったのだ。とりあえず
「それでは、今日は最も偉大な預言者が記した幻についての書、九章の十七節より三節、お話致します。ですので、そこをまず読み上げたいと思います。」
私は読んでいるフリをしながら、記憶を奮い起こした。
「それ故、主はその若き人々を喜ばれず、その孤児と寡婦とを、憐れまれない。彼らは皆、不信仰であって、悪を行う者、全ての口は愚かな事を語るからである。それでも主の怒りは止まず、尚も、その御手を伸ばされる。悪は火のように燃え、
その時、一人の聴衆が手を挙げた。
「先生! その前に、先生のお名前を教えてください! お弟子は十二人いらっしゃったと言います、その中のどなたなのかを!」
私は答えた。
「失礼。私の名前は、
静かだった聴衆が、更に静かになった。その僅かな空気の温度を感じ取り、
「セン…セン、なんと言った?」
「センギョウ?」
「いや、
「
「
私が訂正しようとしたとき、石投げのようになった手拭いが飛んで来た。
「メシアを裏切った奴だ!! 生きていたんだ!!」
「くたばりぞこない!! メシアを返せ!!!」
「よくも神を裏切ったな、お前のせいでイスラエルは滅ぶ!!!」
「十二部族皆の子孫が、お前の為に呪われる!!」
「何故生きてる」「何故死んでない」「地獄に落ちろ」「悪霊に喰われろ」
様々な物が罵声と一緒に飛んで来た。
「殺せ!! そうしたらメシアは喜んでくださる! 金に穢れた裏切り者を殺せ!!!」
誰かがそう言った。その声は酷く響いた。―――まるで人外のものであるかのように。
人の暴走が持つ力は、私が身体を持ってよく知っている。
「裏切り者!! イスラエルから出て行け!!」
「このイスラエルのどこにもいるな!! 出て行け!!」
「そこを動くな、ぶっ殺してやる!」
「十字架みたいに殺してやる!!」
出て行けといったり、動くな殺すといったり、忙しい奴らだ。私は驚く程、冷血な程冷静で、足下で
「貴方、ねえ貴方、嘘よね、
一人の老婆が、私の服を遮二無二掴んで追いすがった。直感で、この老婆には答えないといけない、と、私は思い、さっと身を屈め、耳元で囁いた。その時、私の周りは、神がお膳立てをしたかのように、静かに思えた。
「
雰囲気で、老婆が涙を流したのが分かった。しかし流石に、それを確かめる余裕はなくて、私は会堂を飛び出した。外にいた者達は、突然沸きだった会堂にぎょっとしながらも、私が彼等の敵であると言うことは理解しているようだった。
連中の興味は私にしか向けられていないだろうし、私の連れの事など考えても居ないだろう。しかし高齢の
「
隠れ家の中では、女達に
「………。」
「
「…………………。」
私は何も言えなかった。
ならば今、私と
「
否や、違う。私は
事実、
「皆さん、今日はこれまでにさせてください。わたしの兄弟を落ち着けなくてはいけません。…それから、そう、そこの君、彼と一緒に行った
彼女がなんと言ったか、聞き取れなかった。
「…
「………どうして?」
「…ぼくの名前は、『
「答えになってないよ。何があったの? おいらはメシアじゃないよ、言って貰わなきゃわかんない。」
本当に分からないのだろうか。
「………。
あの二人が先に戻っていないのは、どうしてなのか。よもや連れだと分かって、殺されてしまったのではないか。私は引きつけられて居なかったのではないか。
「そんな…。だって、
「そうだよ、名前だ。名前が似てて…それで、聞き違えた聴衆がいて、一気に会堂が暴徒の渦に………。」
あのまま二人が打ち砕かれて、
「
「ぎゃんっ!」
ガコン!
突然扉が開き、
「大変です大変です、先生が、先生が殺されちゃう!!」
「せ、先生って、
「
尚も息巻く
「先生ィーーーっ! 良かった、生きてらっしゃった! 馬が残ってたから、どうなったかと!」
感極まって泣いている
すると、一通り泣いてすっきりした
「そもそも、どこにも行かなくても良いのでは? 先生の本名が問題なら、先生はメシアの使徒として新しい名前を、
「それだ! その方が良い! そうしよう、
「それはいい! 是非そうしよう、まだおいらは一人じゃ何もできないから、だから新しい名前をつけよう。」
「ええ………。」
私の意志は置いておいて、話が明るい方向にまとまってしまった。陰鬱と左遷先を考えるより良いか、と、思ったが、『教団でこれ以上広まる前に』と、私は自分と
漸く出られるというとき、
「聞いたよ、
こうして、私は
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