第一九節 分たれた人生
しかし、私が拾ってきた
そんな暮らしが三年続いた。もう間もなく
「にっちゃ、にっちゃ。」
「なんだ。」
この家の女達が夕食の準備をしている時、
三年経っても、
「ちょっと来て、ちょっと。」
「他の弟子共はいいのか?」
「うん、
少し気分が良くなったので、私は誰も見ていない事を確認し、裏戸からそっと出た。
「あのね、あのね。二人にお願いがあるんだ。」
「何だよ、はっきり言え。」
「
落ち着け、と、
「あのね、えっとね…。」
「だから何だよ。準備が出来てないなら呼ぶな。」
「
「二人にね、律法学者の所にお使いに行って欲しいんだ。」
「は?」
二人の声が重なる。
「今夜、ベテパゲに行くと、律法学者が一人いるんだ。その人は買いたいものがあってエルサレムから来てるんだよ。その人に、ボクは売りたいものがある。だから、今日から十日数えたら、ゲッセマネというところに来るようにと伝えて欲しいんだ。」
「何を売るんだ?」
「それはまだ言えない。」
私は
「…はあ、分かりました。うちが行きまひょ。
「冗談じゃねえや、何を売りに行くかも分かんねえのに使いなんか出来るものかよ。ぼくが行くから、
「ほうか? そんじゃあ、あんじょうよろしゅう。」
「じゃ、決まりだな。戻ろう戻ろう、腹減った。」
私と
晩餐は十二弟子と、それ以外の男弟子と、女弟子との三つの家に分かれて行われた。私達が
「な、なんだこの臭い…!」
「げほっげほっ…。なんだ、薄めてないのか?」
「それにしたって酷い! 死体につける香油だってこんなに臭くないぞ!」
次々に文句を言い出す弟子達だったが、
しかし、香油の筋が細くなり、途切れ途切れになって、やっと終わったという時には、鼻の良い何人かは鼻を摘まんで、身体を丸めて伏していた。私も鼻を押さえていても、目に染みる。ぽけっとしている弟子共は何も言わなかったが、突然ドンと大きな音がして、誰かが立ち上がった。
「あんさん何してはりますの! これはただの香油や没薬やない、ナルドの香油や! その壺の細工とこの量、合わせたら三百デナリはくだらない、最高級品ですえ! それだけの大金があれば、この街に乞食はおらへんようになりますのに! 計算の出来ひん
「
「ベトベトの顔で喋るな。床にこいつがついたら何日も取れないんだぞ!」
顎の髭にも絡まって今にも落ちてきそうだったので、私は自分の下に敷いていた上着を取り、頭から被せてごしごしと拭いた。他の弟子どもは咳き込んでいるだけで、何もしようとしない。
「あー! くそっ! ホントに何も薄めないでかけやがったな!? この上着もう着れねえぞ、後でお前の上着貰うからな! 分かったらとっとと出てって自分の上着持ってこい!」
私がそう言って怒鳴りつけると、女弟子は怯えて壺を抱えながら走り去って行った。ぬるぬると滑る油を何とか拭き取り、窓から上着を捨てる。………何だか、
翌日、私達は漸くエルサレムへ入った。ただ、何を思ったか、
その時の彼等の熱気を、驚喜を、私はついさっきの事のように、いつでも思い出せる。
「救いたまえ、ユダヤの王! 神の御名によりて来たる者に、天の栄光あれ! イスラエルの王に祝福あれ!」
その日の夜、私達はエルサレムで
「
ハッとした時、手拭いを持った
「ぼくでいいのか?」
「アラマァ、うちやいけんの?」
「別にぼくはいいけど。じゃ、終わったらお前の足はぼくが洗うよ。」
奇妙な儀式が終わると、漸く私達は食事にありつくことが出来た。いつもの何かよく分からない、ありがたそうな話を分かりやすく話す
…
「それはそうと、ねえ、みんな。」
膝裏から尻の部分まで捲ろうかと白熱してきた頃になって、
「前から言っていたとおり、この中から引き渡しの取引に行く者がいる。」
満腹になってひっくり返っていると、それがずいと私の目の前に差し出された。私は、少し前に
「さあ、行きなさい。道中、それをひとりで全部食べるように。」
「ええ、承りました。それじゃあ皆さん、あんじょうよろしゅう。」
「いってて、何だよ、あの男女、人の頭蹴飛ばしやがって。」
「
「そうですかね? ラビ。俺としちゃあ、後世にボアゲルネスなんて小洒落た名前が残った方が良いな。だって本名『かかと』だし。」
「そうですね、その名前、如何にも勇ましそうだし。」
「何だと
いやらしい笑みを浮かべてこちらを見るので、私はさっと背中を向けた。
「ホラホラ、
「はいはい。」
その言葉に陰のように寄り添う意味を誰かに知られないかと、私は横たわったまま俯いた。
「さて、
「ボクはもうそろそろ皆とお別れするけれど、ボクはずっと、皆が仲良くお互いを労りあって愛し合うように言いつけてきたよね。それはボクが居なくなっても守ってね。皆はボクに沢山尽くしてくれて、ボクをラビと呼んで慕ってくれた。だからボクは、皆を弟子と呼んだね。だけどボクはもう、皆を弟子とは言わない。だって、下男というものは主人のすることや物思いは知らないでしょ? だからボクは皆を友だちと呼びました。だって、ボクは父から聞いたことを、今日までで全て、教えきったからね。」
そして、天を見て、両腕を広げて言った。
「父さん、全て終わり、時が来ました。皆ボクと友だちになりました。ボクのものは父さんの、父さんのものはボクのもの。だから皆は、父さんの友だちです。ボクは先にお側に参ります。だけど皆はこの世に残ります。だから、皆を一つにしてください。ボク達が一つであるように。皆は滅びる事はなく、またこれからも滅びません。ただ、滅びるべきものだけが滅びました。父よ、私を貴方が愛したように、皆も私を愛しました。だから私は、皆の中にいるのです。」
そんなようなことを長々と祈り、
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