第十八話 選ばれし者達

 酷く頭が気持ち悪い。ぬるぬるとぬめって、包帯が動いているようだ。

「ん…あ、…。」

瞻仰せんぎょう! 大丈夫か、目が覚めたんだな!」

「………うるさい、くそハゲ、傷からも聞こえる。」

「おおすまん。今先生を呼んでこよう。寝るなよ、寝るなよ、絶対寝るなよ!」

「はいはい。」

 血が目に入ったのか、少し視界が悪い。会堂ではないようだ。どこかシロアムの池の近くの、民家の床を借りているらしい。

「あの、先生…。」

 ひょこん、と、視界の隅っこに、小柄な娘が入り込む。ぼんやりとむくんだような顔をしているが、その瞳は曇っていない。

「………。」

「先生?」

「…え、ぼく?」

「はい。私の目を明るくしてくださったのですから、先生とお呼びしました。」

「はい?」

 何を言っているのか分からず、頭を動かすと、にゅる、と、後頭部が動いた。気持ち悪さに顔をしかめると、娘はおろおろとうろたえた。しかし、何か言いたいことがあるようなので、先を促すようにじっと見つめると、娘は段々と笑顔になっていき、口を綻ばせた。

「ありがとうございます、先生。私は眼も脚も、悪霊に冒されて生まれたので、ずっとシロアムの池の癒やしを待っていたのです。けれども這って辿り着くことが出来なくて…。あの地震の時、先生が私を抱えて池に飛び込んでくださり、私の悪霊をみんな漱いでくださったのです。まだ少しものはぼやけているし、脚もうまく動かないけど…。お医者に、先生をお見せしたお医者にお話ししましたら、次第に慣れてくるだろうと仰ったんです。それで、その、先生のお側にずっとついていたかったのですけれど、先生のご友人が早いほうがいいからってことで、祭司さま達に穢れがなくなったことを報告して…。戻ってきたら、先生がお気づきになられたと聞いて、それで、その。ご恩返しに、お世話をさせて頂きたくて…。」

「はあ…、そうなのかい。ぼくにそんな力はないから、きっと君がずっと池の淵で祈っていたのを、神が見届けてくださったんだろう。」

 心底どうでもよくて、私は適当に答えた。血が沢山流れた訳でもなかろうに、身体が酷くだるくて重い。息が少し苦しくて、大きく溜息をつくと、娘は怯えてしまった。

「あの…。お嫌でしたか、先生と呼ぶのは。」

「いや………。」

 ふと、この娘をひこばえの所に連れて行けば良いのではないか、と、思い至った。ひこばえの兄として、預言者として認めている訳ではないが、預言者に憧れる男の縁者の元に導かれたのだろう。少なくとも私よりは、ひこばえの方がよっぽどのだから。

「娘、名前は?」

若枝わかえと申します。」

 ひこばえと同源の名前だ。益々関わりがあるような気がする。

「そうか。では若枝わかえ、ぼくは先生ではないが、ぼくのついている先生の所に来るなら、先生の世話の傍ら、ぼくの世話をしてくれ。先生はぼくの弟で、名前をひこばえという。」

「ひこばえさま…ですね。先生の先生…、でしたら、ラビとお呼びすべきでしょうか。」

「そうだね、その方が座りがいい。」

「すわり???」

「あー…、そこは気にしなくて良い。」

 あまり語彙は多くないようだ。また教団に頭の悪いのが増えるのか、と思うと、気が重い。と、どたばたという足音が近づいてきた。医者を連れてきたのだろうか。怪我人の近くで、医者が騒ぐなどないから、恐らく謦咳けいがいの足音だろう。本当にガサツな奴だ。

瞻仰せんぎょう! 起きてるか!!」

「うるせえっつってんだろ、このハゲ。」

「怪我人の前ではお静かに。」

 どこかで聞いたことのある声が、謦咳けいがいを戒める。悍ましい記憶が蘇り、じわっと頭が熱くなった。

「ああ、傷が開いてしまって―――。」

「どの面下げてやってきやがった、この藪医者ァッ!!!」

 私が叫ぶと、若枝わかえが縋り付いてきた。

「先生、先生! いけません、血が…。」

謦咳けいがい! よりにもよってなんでこの医者なんだよ!」

「いや、たまたまエルサレムにいた医者で………。」

「こいつはなァ! 十五年前、ぼくの身体をキズモノにして使えなくしたんだよ! 外人のくせにッ!」

 少し年を取っていたが、私はあの声を、あの忌々しい声を、股間の違和感と共に忘れたことはなかった。間違えようもない。…名前は忘れたが。

謦咳けいがいさん、どうやら私は、この方の治療はしない方が良いようです。薬をお渡ししますので、塗ってあげてください。…幸い、侍女もついたようですしね。私は先に行かせて貰います。」

「道分かる?」

「ええ、案内して貰いますので。傷が塞がるまで、くれぐれも動かさないように。頭が岩の下敷きになったんですからね。」

 よく生きてたな、と思った。

 とにかく、そういう訳で、目障りなあの医者は部屋に一歩も入らずに去って行った。私はジンジンと痺れる重たい頭を枕に置いて、溜息をついた。代わりに謦咳けいがい若枝わかえが、家の主人に取り次いでくれ、私の傷が塞がるまで世話をしてくれた。傷が治ると、念のため町医者に診せて確認し、漸く教団に戻ったとき―――あのクソったれの医者が、私の弟弟子になっていて、私は見えない岩をもう一度喰らった。


 私が謦咳けいがい若枝わかえと共に教団に戻ってから暫くすると、ひこばえは沢山の弟子の中から、特別な弟子として十二人を選んだ。その中には私、きびす謦咳けいがい妁夫しゃくふ澹仰せんごう神授しんじゅ恩啓おんけい、そして何故か嗣跟つぐくびすまでいたが、医者―――もとい、薬光やっこう若枝わかえは選ばれず、それに多くの女弟子たちからは一人も選ばれなかった。

「なあなあ、瞻仰せんぎょうはん。」

 特別に力を与える、とか言った割に、私は特に変化を感じなかった。もしかしたら単純に、お気に入りの人間を選んで、傍に置きやすくしたかっただけなのかも知れない。あの甘ったれの考えることだから、十二人もいれば、誰かに拒否されても、別の誰かが慰めてくれると思ったんだろう。

 澹仰せんごうが声をかけてきたのは、私達が選ばれて一週間ほどした頃だった。

「なんだよ。」

「十二人、選ばれたはええんけど…。なんや、血の気の多いもんは居ても、戦士がおらへんなあ。」

「荒事は荒事好きに任せとけよ。」

「あきまへんわ。血の気の多いんは、いつも見境なく拳あげて、そんなんじゃあ、ひこばえさまの御名に傷がつきます。」

「そういうもんか?」

「聞けば瞻仰せんぎょうはん、幼かったひこばえさまをお守りするために、そらぁええ戦士の教育、受けはったんやって?」

「………ひこばえが言ったのか?」

 そんなこと、あの子は知らなかった筈だ。父が言ったのだろうか?

「ええ、まあ、そうです。…でも、ちゃんとした先生に着いたわけでは、なかはった言うてましたなぁ。」

「回りくどいぞ、何が言いたい。」

 ふふ、と、澹仰せんごうが笑った。

「うち、こう見えて拳闘には自信あるんえ。せっかく選ばれた者どぉし、冷静な戦士、目指してみぃひん?」

 めんどくさい、と、言おうとして、ふと考えた。

 今でこそ、まだ嗣跟つぐくびすは私に手を出していない。ひこばえが護ってくれるとは思っていなかったが、私が謦咳けいがい妁夫しゃくふとずっと連んでいるので、話しかけられなかっただけだろう。だがそれも、いつまでも続くわけではあるまい。預言者というのは誰でも、残酷に殺されるということを、私は母から聞いたイスラエルの歴史で知っている。まさかあの臆病者が、そこまで考えて預言者になろうとしているとは思えないが、確かにその弟子がいつまでも生きている保証はない。謦咳けいがいは喧嘩っ早い訳ではないが、直情径行で思ったことをすぐに行動に移してしまう嫌いがある。それは怒りにおいても同じだ。妁夫しゃくふは、荒事はうまくいなすことが出来るだろうが、謦咳けいがいの巻き添えを食って尻ぬぐいをしている今の状況が改善されなければ、いつか巻き添えを食って死ぬかも知れない。そうなったなら私には知古の友が居なくなり、嗣跟つぐくびすに再び組み敷かれるかもしれない。

 なら、ガリラヤ、ましてやナザレで得られなかった格闘術を会得しておくのもいいだろう。

「面白そうだな、いい汗が流せそうだ。やろうぜ、拳闘。」

「あんじょうよろしゅう。」

 こういう訳で、私は必然的に、澹仰せんごうと過ごす時間が増えたのである。その内に私は、澹仰せんごうという人間を大いに誤解していたことに気付いた。

 澹仰せんごうは決して女々しい男ではなく、寧ろ私が出会った男の中で、父の次に男らしい男だった。それは拳闘の思いもよらない動きや打撃の重さだとかではなく、その知識量だ。律法について詳しく、ひこばえが悉く律法学者達を論破した後、彼等にこっそりついて言って、怒りを絶望に変えるその口八丁手八丁は見事と言う他ない。無論、時間が経てばそれらは屈辱に変わるだろう。しかし、その場にいる破落戸を雇って嗾ける気力を削ぐのは、私としては大いにありがたいことだった。愚かな試みをしているとはいえ、やはり弟。危険な目に遭って欲しくはない。澹仰せんごうはその意味で、実に有能な弟子と言えた。取税人どもは勿論のこと、市場での交渉も上手く、実家が商家というだけあって、実に節約に長けていた。かと思えば、ひこばえに隠れて施しをしたり、こっそり帳簿を誤魔化したりして、自分なりの『救い』も欠かさなかった。どうしてそんなにも施しに拘るのかと聞くと、澹仰せんごうはこう答えた。

「貧困に喘いではる人は、女であれば娼婦にならはりますが、もしも男だったなら、強盗になるんえ。ほなら、ひこばえさまの教えに従ううちが、彼等に施した方が、この辺りの店も助かる言うもんや。」

 何故そんなにも自信たっぷりに断言できるのか根拠は分からなかったが、私は成程と膝を打った。

 夜、眠れないときは、一緒に昼間蘖ひこばえがトンデモ解釈を起こした律法について論じあった。

瞻仰せんぎょうはんは凄いお人やねえ。ガリラヤなんて過疎なところにいはったのに、よう律法をご存じではりますなあ。」

「ぼくから言わせてみれば、この教団は実に幼稚だね! ぼくは父に、立派なイスラエル人でいられるようにと、厳しく育てられたからね。これくらいは朝飯前さ。何なら五書を諳んじて見せてもいいぜ。」

「ふふ、そないにしたら、夜がみっつあっても足らへんねえ。」

「全くだ。覚えるの、大変だったぜ。でも父さんと母さんの期待に応えたくてね。」

「偉いわあ、瞻仰せんぎょうはん。きびすはんとは違う分類のおやんやねえ。」

「ああ、きびすはどっちかっていうと、身体を鍛えてたからな。………長男はぼくだったから。」

 長子でこそなかったが、ぼくは確かに、父の長男だった筈だ。今となっては虚しくもなる問いだが。しかし澹仰せんごうと話しているのなら、どんな憂鬱も、最終的には瓦解していくのだ。

「凄いなあ、偉いわあ。」

 弁舌が上手いのは本当で、澹仰せんごうはいつもそう言って話を締めくくった。それも一方的に、眠くなったとか、飽きたとか、澹仰せんごうの都合で終わる訳ではない。私が満足した頃にそうやって言われると、私はすっと熱が冷めて、冷静になれるのだ。

 いつの間にか、私はひこばえよりも、澹仰せんごうとの絆が一番強くなっていた。

 ―――だからこそ、私は澹仰せんごうと深い絆で結ばれたことを、呪わずには居られなかった。

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