我が愛しの子羊

第十七話 崩落せし明星

 ひこばえが預言者として歩き出して半年あまり。早くもひこばえを慕う男共は七十人をくだらない程になり、女の弟子達も増えていた。それそのものは、さして問題ではない。問題は、ひこばえが公衆の面前で女弟子たちに言葉をかける回数が、男弟子よりも遙かに多いということだ。私は何度もひこばえに改心を迫ったが、その度に、ひこばえの優柔不断な優しさに心酔する女弟子たちと喧嘩になった。その度に、私は毎度毎度、タマの小さい男だと馬鹿にされた。小さいも何も、私は両方とも睾丸を無くした身なので、それそのものはどうでも良かった。しかし、男共のくだらない自尊心は、私を焦らせるに十分だった。

 男というものは単純なようでいて、恋を知らない処女のように面倒くさい憧憬主義なところがある。私は彼等のその嫉妬が、彼女達の崇高でおめでたい決意を侮辱するのではないかと、気が気ではなかったのだ。そんな私の気苦労を知る者は、ひこばえではなく神授しんじゅだった。神授しんじゅは弟子の中でも一番年を取っていた為、私の気苦労も見抜いていたのだ。

瞻仰せんぎょうちゃん、そうかっかするもんじゃないよ、これからの時代なのさ。」

神授しんじゅ、律法には、女が公衆の面前でしちゃいけないことが山ほどあるんだよ。それを悉く、ひこばえは無視してやがる。その上で「律法は正しい」としか言わない。二律背反も良いところだ、あんなの。私はアレの兄だからいるだけだけど、他の間抜けと腑抜けは何の違和感もないんだろうか?」

「にり…なんだって?」

「二律背反。」

「ジジツハンハンというのは、なんなんだい?」

 ひこばえの説教を聞いてて気付いたのだが、ひこばえの舌っ足らずな子供のような物言いは、寧ろ説教の時に酷く顕著だった。その所為か、集まった弟子達も学がなく、外国育ちの私よりも言葉を知らない。

私がこの国の言葉を忘れなかったのは、エジプトでイスラエル人の客の相手もしなければならなかったからだが、イスラエルに来てからは、母から聖書と律法と、そして道徳の物語を教わった。然るに、私とひこばえの語彙や会話水準は、著しく差がある筈がない。事実、一緒にやってきたきびすだって、私と同じように喋ることが出来る。ぺたぺたと裸足で水辺を歩くような物言いはしない。

「違ってはりますわ、神授しんじゅはん。『にりつはいはん』いうんえ。まあ、矛盾してるいうことだわ。」

 寒気のするようなおっとりとした声で、弟子の一人が近づいてきた。手に帳簿を持っているので、用件が分かってしまい、私は顔を渋くする。すると彼は、うっとりとときめくように目を細めて笑った。

「いけずなお人やねえ、今日はソッチじゃなくて、コッチや。」

 そう言って、彼は筆の柄で、つるつるの神授しんじゅの頭を撫でた。

「ん? ワシか? おじいちゃんでも分かるかねえ。」

「わかってくれんはったら、ひこばえさまのお顔に泥を塗ってまうから、思い出しておくれや。今日の昼の事なんやけどね、…ええと、ここや、ここ。」

 帳簿を見せてくるので、私も覗いてみたが、字が読めないのでよく分からなかった。ただ、一カ所だけ謎の空白がある。

「この空白なんだ? 澹仰せんごう。」

「もしかしたら、瞻仰せんぎょうはん知ってはります? 昼頃、ほれ、大層な奇跡があったじゃありまへんの。」

「ああ、おじいちゃんはお腹いっぱい食べたよ。いやあ、あの少年は実に素晴らしい子だ!」

神授しんじゅ、論点はそこじゃないよ。んで? あの時の弁当大増量がどうかしたのかい。」

「結構な数、皆さん残しゃりはってなあ。もったないと思て、うち、女達と集めたんおす。それがこれだけ。」

 ほれ、と、文字を指さされたが、何と書かれているか分からない。

「それなのになあ、今日、夕餉の人数分ひくと、数が合わしまへんのや。具体的にいうと、一人七つ以上、パンか魚を食べてへんと、この数にならんのや。」

「そんなの人間が食う量じゃないぞ。誰かがそっくり施したんじゃないのか?」

「せやかて、瞻仰せんぎょうはん。ここいらは富んでもなく、貧してもなく、みぃんな自分の家持ってて、その日の食べ物はちゃんと買うてます。」

「じゃあ、泥棒かねえ。でもこの人数の七倍の数の食べ物を盗むんだったら、おじいちゃんなら沢山の仲間に声をかけるなあ。だから誰も気付かないってことはないと思うんだけど。でも最近の若い子は、一人でもっと持てるのかなあ。」

「いやいや、人間に腕は二本しかないよ、神授しんじゅ。無理だ無理だ、男だけで今七十人いるんだぞ、この教団。その七倍の数だぞ? 徒党を組んだ強盗が、物のついでと女の一人か二人連れ去って持ってくような規模だ。」

「ほお! そりゃあ沢山だ! そんなに無くなったのか! それは大変だ!」

「…おい澹仰せんごう、お前はいつも都仕込みの算数をお披露目してくれるが、お前が正しいのかどうか、自分の名前も書けない私達が分かると思うのか? 嫌味を言うならよそでやってくれよ。私と神授しんじゅは、二人で話をしていたんだから。」

「あれ、まあ。」

 どこまでそう思っているのか、澹仰せんごうは目をぱちぱちとさせて、またふんわりと笑った。

「したら…、ひこばえさまに、そのように報告するしかありゃせんねえ。どうも、お邪魔しました。明日もきっと律法学者がぎょうさん来はって、気張るやろから、早う寝んさいねー。」

「ああ、お休み、澹仰せんごうくん。」

「へいへい、お休みさんよ。」

 私がしっしっと手で払っても、ころころ転がるような笑みを崩さず、澹仰せんごうはまるで鳥の尾のように去って行った。

 彼は澹仰せんごう。私と同源の名前だが、少し発音が異なる会計士だ。南ユダヤ、聖都エルサレムの近くの出身だそうで、悔しいがこの教団一の教養を持っていると言って良いだろう。シュシュツだかシューシューだか、私でも知らないような難しい言葉で、教団の財形を管理している。受惠じゅけいの教団の時は、抑も金を使わなかったし、村で暮らしているときも両手の指で数えられる程度の金を弄ったことしかなかったから、どうして澹仰せんごうがモノを見ずに計算しているのか分からない。他にも律法にも詳しく、商品の目利きも出来るので、例えば取税人なんかが数を誤魔化していようものなら、すぐに論破し、正しい料金で道を通させた。

 頼もしいのだろうが、私はあの、男とも女とも似つかわないと称される、独特の喋り方が苦手で好きではない。私個人としては、女っぽいと言っても良い。男は男らしく、女は女らしく。私にとって、それはとても重要なことだった。尚悪いことに、彼は立派なもみあげと口髭を持っていて、女のように体毛もしっかり洗っているような奴で、体毛がほぼ無いような私は、剛毛の女が、私のつるつるの顎を馬鹿にしているようにしか思えなかった。それだというのにその眼差しはとても優しげで儚げで、そこだけが女のようだった。それも、私が知っているような、貧民の女ではない。私がエジプトの神殿にいた頃、神々の加護を願いに来た貴族の娘達は、皆、瞳が空色だったのだ。いずれ訪れる出産というものが、喜びで溢れて、日の出のように嬉しいことだと、それだけを信じていれば良い娘達を、娼婦達はどう思っていたのだろう。私は女ではないから、望む妊娠、望まぬ妊娠の違いが分からない。

けれども、あんな瞳をした娼婦はいなかった。あんな瞳をした娼婦は、皆、娼婦では

 澹仰せんごうは、あの貴族の娘達と同じ瞳をしている。足下はどうしようもなく穢いのに、あの男の瞳は、空色だ。私は、あれが嫌いだ。

瞻仰せんぎょうちゃんは、澹仰せんごうくんがそんなに嫌いなのかい?」

「…え、そんな露骨な顔してる?」

「ウハハハ、おじいちゃんには何にでもわかっちゃうのだよ!」

 一応団体生活なので、そのような事が無いように、なるべく表情筋を動かしているつもりだったのだが。しかし神授しんじゅは、私のつるつるの頬に角張った指先を当て、言った。

「心配しなさんな、瞻仰せんぎょうちゃん。髭ももみあげもなくても、君は立派なユダヤの男だ。神殿の一番奥まで入って良い、ユダヤの男だよ。」

「…別に、心配なんかしてねえさ。明日の朝、朝食を食いっぱぐれるかもって思っただけだ。寝よう寝よう。」

 神授しんじゅは私が、自分の体毛に思うところがあるというのを理解しているようだった。しかし私の睾丸の秘密を知っている訳ではない。この集団の中で、それを知っているのは、ひこばえと、嗣跟つぐくびすだけだ。私は何かと嗣跟つぐくびすひこばえの傍に居るので冷や冷やしたが、その内嗣跟つぐくびす自身、ひこばえに心底心酔しており、私との肉体契約のことを持ち出すことはないと気付いた。すると途端に、今度は二人がもっと一緒に、出来れば二人きりでいてくれないかと思うようになった。そうすれば、私の睾丸の秘密は、少なくとも二人に共有されるだけだからだ。

「お休み、瞻仰せんぎょうちゃ―――。」

 ガコン! ぶちゅっ、ガツン!

 律儀に私の額に神授しんじゅが口付けようとしたとき、私の後ろにあった扉が勢いよく開かれ、突き飛ばされた。神授しんじゅの唇が私の眉間にぶつかり、押し倒す。幸いにも僅かに後頭部に残っていた髪に守られたようだが、痛そうだ。

「気をつけろ! 年寄りの頭に罅が入ったらどうする!」

「ああ、ごめんなさい―――って、瞻仰せんぎょうさん! 瞻仰せんぎょうさん、大変ですよ!」

 妁夫しゃくふだった。暗がりの中でも分かるくらいに真っ青になり、心なしか震えているようだ。

「先生、先生が!」

ひこばえがどうかしたか?」

「違う! そっちじゃなくて、受惠じゅけい先生が!」

「どうした? 恩赦でもされたか?」

 受惠じゅけいが投獄された事は、私はひこばえの傘下に入ったときに、既に先輩だった妁夫しゃくふから聞いたことだった。興奮のあまり舌が縺れて上手く喋れない妁夫しゃくふを落ち着かせていると、謦咳けいがいが後ろから顔を覗かせていた。何故か旅支度をしている。

「ここにいちゃおれない、受惠じゅけい先生を引き取りにいかなきゃ!」

「恩赦されたんなら、エルサレムにいる受惠じゅけい派が面倒見るだろ? 何をそんなに―――。」

「違う、殺されたんだ! 王妃の奸計が、ついに先生の首を刎ねた!」

 悲鳴のように妁夫しゃくふが叫び、私はヒュッと息を呑んだ。

 私は、受惠じゅけいは拷問こそされるだろうが、死にはしないと思っていた。何故なら受惠じゅけいは、ひこばえの従兄で、預言者なのだ。それも、生まれたとき、態々身体の一部を奪ってまで、神は受惠じゅけいを預言者として荒野へ連れ出した。彼は報われるに違い無いと、私は確信していた。

 だというのに、なんだって? 死んだ? 死んだと言ったのか、受惠じゅけいが? ということは、神は受惠じゅけいを護らなかったのか。祭司の家に生まれさせておきながら、その未来を、親の期待を裏切ってまで荒野に連れ出したその稚児を、神は護らなかったというのか。

 屈辱の裡に死する運命を、押しつけたというのか!?

「馬鹿な、だって、受惠じゅけいさんは―――生まれついての預言者だ。神が護らない筈がない!」

「そうだよ、成人前から荒野にいたような人だった。だから私達もどこか油断して、祈りを忘れていたのかも知れない。とにかく、エルサレムの弟子達は殆ど勢いづいた王妃の手先にやられてるそうだ。私達も手伝いに―――あ、瞻仰せんぎょうさん!」

 自分を落ち着かせるように、やるべき事を連ねる妁夫しゃくふを突き飛ばし、ひこばえの元へ走った。確か先ほど、祈りのために、一番奥まった所に行くと言っていたから、恐らく勝手口にいるだろう。

 案の定、ひこばえは勝手口の片隅に立ち、壁の方を向いていた。

「おい、ヒコ!!」

 ひこばえは答えず、壁の方を向いている。私が大股で近づき、肩を掴んでこちらを向かせると、ひこばえはそのまま私の胸に飛び込んだ。

「うわああああーーーあん!!」

「ひ、ヒコ?」

 ひこばえは泣いていた。泣いている、というより、雄叫びを上げていた。なんだなんだ、と弟子共が集まってくる気配がしたので、勝手口を開けて外に連れ出す。ひこばえは子供のように泣きじゃくり、もみあげと鼻の下の髭が月の光に照らされてキラキラと光っていた。

「おい、おいヒコ、泣くな、いい大人だろ。何泣いてるんだ。」

「だって、だって、受惠じゅけいがしんじゃった…。」

 尚もぐずりそうだったので、私はカッとなり、ひこばえの胸ぐらを掴んで持ち上げた。

「痛い痛い! にっちゃ痛い!」

「死んじゃったじゃねえだろ! あの人の身体を辱めてまで荒野に連れ出したんだぞ! なんで護ってやらなかったんだ、お前が護らなくちゃいけなかったのに!! お前が預言者として、取り次がなければならなかったのに!! 何やってたんだ、この愚弟!!」

「痛い痛い! 降ろして!」

「あれほどの人を、どうしては護らなかったんだ!! 言ってみろ、預言者なんだろ、お前は!!」

 反吐の固まりのような台詞を吐き捨てて、私は少し冷静になり、ひこばえの胸元を締め上げていた手から力を抜いた。どさっとひこばえが尻餅をつき、私は扉にもたれかかったまま、膝が震えて、がくんと座り込んだ。扉を隔てた向こうで、嗣跟つぐくびすが叩く音がする。

「先生! どうかしましたか、先生!」

 知らず、私の身体が硬直するのを見たのか、ひこばえは慌てて立ち上がり、私を逆に胸に収めると、扉を押さえて答えた。

「大丈夫だよ、嗣跟つぐくびす! ちょっと混乱していただけだ! 今来るとややこしいことになるから、そっとしておいて!」

 嗣跟つぐくびすは納得したのかしてないのか、扉の前から去った様だった。私が涙もなく震えているのを感じ取ったのか、ひこばえは私の肩を抱いて。頭を抱きしめ、もう一筋涙を流した。

「にっちゃ、ボクはここで、やらなきゃいけないことがあるの。ここはボクの教団だから、ボクが自分の気持ちだけで動いちゃいけない。だから、ね、にっちゃ。ボクの代わりに、エルサレムに行って、受惠じゅけいの弔いをしてきてあげて。きっと受惠じゅけいの霊も、元弟子のにっちゃが行ったら喜ぶ。」

「………。ぼくでいいのか? 師匠の訃報を聞いて、涙の一粒も出ない、弟に八つ当たりするようなぼくで。」

「うん、にっちゃがいい。にっちゃに行って欲しい。ね? いいでしょ? 謦咳けいがい妁夫しゃくふも連れて、三人で行ってきて。」

「………。分かったよ。もう夜も遅いけど、今から出ればエルサレムには午前中に着くから、今すぐ発っていいか?」

「うん、気をつけてね。エルサレムに登る山道は、よく強盗が出るから。」

「ああ、気をつけるよ。じゃあ、お前の弟子を二人借りてくからな。」

「うん、行ってらっしゃい。」

 扉の向こうに嗣跟つぐくびすがいないようだったので、私は素早くひこばえと中に入り、ひこばえの手伝いを借りながら荷物を纏めた。やいのやいのと騒ぐ二人を引き連れると、駒桜こまざくらが馬を持っている地主に掛け合ってくれたので、すぐに馬を駈ってエルサレムを目指した。


 エルサレムに着いたのは、朝食を皆が食べ終わる頃だった。馬を一晩中酷使していたが、途中、水や食事を摂らせている間に、私達も蜜と蝗を捕まえて食べた。弁当を持って来るのを忘れてしまったからだ。水も禄に飲まなかったので、エルサレムについてすぐ、貯水場の多いシロアムの近くで水をたらふく飲んだ。飲み過ぎてたぷたぷになった腹を抱え、靴を脱いだ足を池に浸す。冷たくて気持ちいい。

「うー、ぐるぐるする………。塩が欲しいね。妁夫しゃくふ、買って来い。」

「え、お金あるの?」

「無いなら拾って来いよ。水の飲み過ぎで気持ち悪い。」

「もう…仕方ないな。」

 自身も疲れているだろうに、兄の相手をすることの方が疲れると判断したらしく、溜息をついて歩き出した。後ろから見ていても、走る馬にずっと乗っていたからか、尻のよじれた歩き方をしている。シロアムの池に癒やしを求める乞食達が、ぽつりぽつりと現れる。見慣れない客人の私達を少し怯えたように見ていたが、私達が旅でくたくたなことや、寧ろ旅を終えたばかりで何も持ってないことに気付くと、興味を無くしたようだった。

「休憩してるけど、受惠じゅけいさんの遺体、大丈夫なんだろうか。」

「ああ、それは多分大丈夫だよ。最低限、没薬と香油は、女どもがやってあるって、伝令の奴が言ってた。」

「ケッ、こんな時にばかり、女ってのは強いからな。墓に入れる力もないくせに。」

「だからオレ達が来る事になったんだろ。男弟子達は大分ひっつかまったそうだからな。こういうとき、女は便利だ。」

「…そうかもな。」

 謦咳けいがいの何気ない言葉に、孕まされながらも身を売るしかなかった昔の仲間を思い出す。謦咳けいがいは勿論、ひこばえの元に集う者達は、皆下層階級の夢見がちな者達だ。遊び女達を買う金もなく、を犯すしかなさそうな、そんな男達だ。だからこんなことも言えるのだろう。男に犯されれば妊娠してしまう女の方が、私から見れば不便だ。

「それはそうとさ、瞻仰せんぎょう。あの塔って、いつから建築されてんだ?」

「あん?」

「ほら、あそこの。」

 謦咳けいがいが指を差すと、シロアムの池の水面にはぎりぎり映らなそうな、少し遠い丘に、建設中らしい塔があった。物見櫓だろうか。

「なんだありゃ。あんな所に建てるってことは、櫓か、それとも治水工事かねえ。」

「今の国王は、王妃さえいなきゃそこそこ良い王なんだってな。土木は職人がある程度集まれば、後は肉体労働だけでどうにかなるんだって?」

「あー、うーん、元大工としては否定出来ないねえ。」

 あはは、と笑ったところで、ぐら、と、世界が揺れた。

「………。ん?」

 水を飲み過ぎたのだろうか。ぐら、ぐら、と、徐々に揺れが大きくなる。

「んんん?」

 謦咳けいがいも同じらしい。頭を抑え、上半身を起こす。

 ぐら、ぐらぐら。ぐらぐらぐら、ぐらぐらぐらぐらぐら!

「起きろ謦咳けいがい! なんかよくわかんないけど、ヤバい!」

「え、え、え? これ、オレが揺れてるんじゃないの?」

「よく見ろバカ! 壁の石が―――。」

 どうにか謦咳けいがいを立たせた時、ドボン、と、池に何かとても大きなものが落ちた。振り向くと、巨大な切ったばかりらしい石が、池の中で泡を吹いている。池で癒しや施し待っていた乞食達も、あわあわとその場から立ち上がり、逃げ出しているが、何人かが座ったままだ。恐らく目が見えていないのだ。

「何してる瞻仰せんぎょう、早く逃げろ!」

 その中の一人に目が止まった。深く布を被り、男か女か、大きな背丈の子供か、小柄な大人かも分からない、けれども確かに目が見えていない事だけは分かる、布の人間。私は謦咳けいがいを突き飛ばすように離し、乞食達の群れを逆走した。

「おい、おい、そこのめくら!」

「!」

 喧噪の中で、自分の事だと気付いたその乞食は、頭を両手で覆いながらも顔を上げた。

「どでかい地震だ、こっちに来い!」

「ま、待ってください、私は足も―――。」

 手を取って立たせようとした時、ふっと目の前が暗くなった。間髪入れずに乞食を抱きかかえ、目の前の池の中に飛び込む。一呼吸遅れて、水の中に鋭く尖った石が落ちてきた。恐らく私達の立っていた辺りに落ちて砕けたのだろう。少しでも躊躇ったら、この石の下敷きだったかも知れない。水の中で乞食を見ると、突然飛び込んだからか、今にも溺れそうになっている。私は乞食の布を取り払い、顔を押さえつけると、唇に口づけて息を吹き込んだ。ごぽごぽと乞食の口の周りに泡が飛び散る。私が息継ぎの為に水面に浮いた、その瞬間―――。

瞻仰せんぎょうーーーッ!!!」

 謦咳けいがいの声が、やけに耳障りだった。薄暗く、灰色で溢れかえっていた視界は、一瞬で真っ暗闇になった。

 ゴン、と、私の後頭部が、池の底に口づける音がした。

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