我が愛しの子羊
第十七話 崩落せし明星
男というものは単純なようでいて、恋を知らない処女のように面倒くさい憧憬主義なところがある。私は彼等のその嫉妬が、彼女達の崇高でおめでたい決意を侮辱するのではないかと、気が気ではなかったのだ。そんな私の気苦労を知る者は、
「
「
「にり…なんだって?」
「二律背反。」
「ジジツハンハンというのは、なんなんだい?」
私がこの国の言葉を忘れなかったのは、エジプトでイスラエル人の客の相手もしなければならなかったからだが、イスラエルに来てからは、母から聖書と律法と、そして道徳の物語を教わった。然るに、私と
「違ってはりますわ、
寒気のするようなおっとりとした声で、弟子の一人が近づいてきた。手に帳簿を持っているので、用件が分かってしまい、私は顔を渋くする。すると彼は、うっとりとときめくように目を細めて笑った。
「いけずなお人やねえ、今日はソッチじゃなくて、コッチや。」
そう言って、彼は筆の柄で、つるつるの
「ん? ワシか? おじいちゃんでも分かるかねえ。」
「わかってくれんはったら、
帳簿を見せてくるので、私も覗いてみたが、字が読めないのでよく分からなかった。ただ、一カ所だけ謎の空白がある。
「この空白なんだ?
「もしかしたら、
「ああ、おじいちゃんはお腹いっぱい食べたよ。いやあ、あの少年は実に素晴らしい子だ!」
「
「結構な数、皆さん残しゃりはってなあ。もったないと思て、うち、女達と集めたんおす。それがこれだけ。」
ほれ、と、文字を指さされたが、何と書かれているか分からない。
「それなのになあ、今日、夕餉の人数分ひくと、数が合わしまへんのや。具体的にいうと、一人七つ以上、パンか魚を食べてへんと、この数にならんのや。」
「そんなの人間が食う量じゃないぞ。誰かがそっくり施したんじゃないのか?」
「せやかて、
「じゃあ、泥棒かねえ。でもこの人数の七倍の数の食べ物を盗むんだったら、おじいちゃんなら沢山の仲間に声をかけるなあ。だから誰も気付かないってことはないと思うんだけど。でも最近の若い子は、一人でもっと持てるのかなあ。」
「いやいや、人間に腕は二本しかないよ、
「ほお! そりゃあ沢山だ! そんなに無くなったのか! それは大変だ!」
「…おい
「あれ、まあ。」
どこまでそう思っているのか、
「したら…、
「ああ、お休み、
「へいへい、お休みさんよ。」
私がしっしっと手で払っても、ころころ転がるような笑みを崩さず、
彼は
頼もしいのだろうが、私はあの、男とも女とも似つかわないと称される、独特の喋り方が苦手で好きではない。私個人としては、女っぽいと言っても良い。男は男らしく、女は女らしく。私にとって、それはとても重要なことだった。尚悪いことに、彼は立派なもみあげと口髭を持っていて、女のように体毛もしっかり洗っているような奴で、体毛がほぼ無いような私は、剛毛の女が、私のつるつるの顎を馬鹿にしているようにしか思えなかった。それだというのにその眼差しはとても優しげで儚げで、そこだけが女のようだった。それも、私が知っているような、貧民の女ではない。私がエジプトの神殿にいた頃、神々の加護を願いに来た貴族の娘達は、皆、瞳が空色だったのだ。いずれ訪れる出産というものが、喜びで溢れて、日の出のように嬉しいことだと、それだけを信じていれば良い娘達を、娼婦達はどう思っていたのだろう。私は女ではないから、望む妊娠、望まぬ妊娠の違いが分からない。
けれども、あんな瞳をした娼婦はいなかった。あんな瞳をした娼婦は、皆、娼婦ではなくなっていった。
「
「…え、そんな露骨な顔してる?」
「ウハハハ、おじいちゃんには何にでもわかっちゃうのだよ!」
一応団体生活なので、そのような事が無いように、なるべく表情筋を動かしているつもりだったのだが。しかし
「心配しなさんな、
「…別に、心配なんかしてねえさ。明日の朝、朝食を食いっぱぐれるかもって思っただけだ。寝よう寝よう。」
「お休み、
ガコン! ぶちゅっ、ガツン!
律儀に私の額に
「気をつけろ! 年寄りの頭に罅が入ったらどうする!」
「ああ、ごめんなさい―――って、
「先生、先生が!」
「
「違う! そっちじゃなくて、
「どうした? 恩赦でもされたか?」
「ここにいちゃおれない、
「恩赦されたんなら、エルサレムにいる
「違う、殺されたんだ! 王妃の奸計が、ついに先生の首を刎ねた!」
悲鳴のように
私は、
だというのに、なんだって? 死んだ? 死んだと言ったのか、
屈辱の裡に死する運命を、押しつけたというのか!?
「馬鹿な、だって、
「そうだよ、成人前から荒野にいたような人だった。だから私達もどこか油断して、祈りを忘れていたのかも知れない。とにかく、エルサレムの弟子達は殆ど勢いづいた王妃の手先にやられてるそうだ。私達も手伝いに―――あ、
自分を落ち着かせるように、やるべき事を連ねる
案の定、
「おい、ヒコ!!」
「うわああああーーーあん!!」
「ひ、ヒコ?」
「おい、おいヒコ、泣くな、いい大人だろ。何泣いてるんだ。」
「だって、だって、
尚もぐずりそうだったので、私はカッとなり、
「痛い痛い! にっちゃ痛い!」
「死んじゃったじゃねえだろ! あの人の身体を辱めてまで荒野に連れ出したんだぞ! なんで護ってやらなかったんだ、お前が護らなくちゃいけなかったのに!! お前が預言者として、取り次がなければならなかったのに!! 何やってたんだ、この愚弟!!」
「痛い痛い! 降ろして!」
「あれほどの人を、どうしてお前の神は護らなかったんだ!! 言ってみろ、預言者なんだろ、お前は!!」
反吐の固まりのような台詞を吐き捨てて、私は少し冷静になり、
「先生! どうかしましたか、先生!」
知らず、私の身体が硬直するのを見たのか、
「大丈夫だよ、
「にっちゃ、ボクはここで、やらなきゃいけないことがあるの。ここはボクの教団だから、ボクが自分の気持ちだけで動いちゃいけない。だから、ね、にっちゃ。ボクの代わりに、エルサレムに行って、
「………。ぼくでいいのか? 師匠の訃報を聞いて、涙の一粒も出ない、弟に八つ当たりするようなぼくで。」
「うん、にっちゃがいい。にっちゃに行って欲しい。ね? いいでしょ?
「………。分かったよ。もう夜も遅いけど、今から出ればエルサレムには午前中に着くから、今すぐ発っていいか?」
「うん、気をつけてね。エルサレムに登る山道は、よく強盗が出るから。」
「ああ、気をつけるよ。じゃあ、お前の弟子を二人借りてくからな。」
「うん、行ってらっしゃい。」
扉の向こうに
エルサレムに着いたのは、朝食を皆が食べ終わる頃だった。馬を一晩中酷使していたが、途中、水や食事を摂らせている間に、私達も蜜と蝗を捕まえて食べた。弁当を持って来るのを忘れてしまったからだ。水も禄に飲まなかったので、エルサレムについてすぐ、貯水場の多いシロアムの近くで水をたらふく飲んだ。飲み過ぎてたぷたぷになった腹を抱え、靴を脱いだ足を池に浸す。冷たくて気持ちいい。
「うー、ぐるぐるする………。塩が欲しいね。
「え、お金あるの?」
「無いなら拾って来いよ。水の飲み過ぎで気持ち悪い。」
「もう…仕方ないな。」
自身も疲れているだろうに、兄の相手をすることの方が疲れると判断したらしく、溜息をついて歩き出した。後ろから見ていても、走る馬にずっと乗っていたからか、尻のよじれた歩き方をしている。シロアムの池に癒やしを求める乞食達が、ぽつりぽつりと現れる。見慣れない客人の私達を少し怯えたように見ていたが、私達が旅でくたくたなことや、寧ろ旅を終えたばかりで何も持ってないことに気付くと、興味を無くしたようだった。
「休憩してるけど、
「ああ、それは多分大丈夫だよ。最低限、没薬と香油は、女どもがやってあるって、伝令の奴が言ってた。」
「ケッ、こんな時にばかり、女ってのは強いからな。墓に入れる力もないくせに。」
「だからオレ達が来る事になったんだろ。男弟子達は大分ひっつかまったそうだからな。こういうとき、女は便利だ。」
「…そうかもな。」
「それはそうとさ、
「あん?」
「ほら、あそこの。」
「なんだありゃ。あんな所に建てるってことは、櫓か、それとも治水工事かねえ。」
「今の国王は、王妃さえいなきゃそこそこ良い王なんだってな。土木は職人がある程度集まれば、後は肉体労働だけでどうにかなるんだって?」
「あー、うーん、元大工としては否定出来ないねえ。」
あはは、と笑ったところで、ぐら、と、世界が揺れた。
「………。ん?」
水を飲み過ぎたのだろうか。ぐら、ぐら、と、徐々に揺れが大きくなる。
「んんん?」
ぐら、ぐらぐら。ぐらぐらぐら、ぐらぐらぐらぐらぐら!
「起きろ
「え、え、え? これ、オレが揺れてるんじゃないの?」
「よく見ろバカ! 壁の石が―――。」
どうにか
「何してる
その中の一人に目が止まった。深く布を被り、男か女か、大きな背丈の子供か、小柄な大人かも分からない、けれども確かに目が見えていない事だけは分かる、布の人間。私は
「おい、おい、そこのめくら!」
「!」
喧噪の中で、自分の事だと気付いたその乞食は、頭を両手で覆いながらも顔を上げた。
「どでかい地震だ、こっちに来い!」
「ま、待ってください、私は足も―――。」
手を取って立たせようとした時、ふっと目の前が暗くなった。間髪入れずに乞食を抱きかかえ、目の前の池の中に飛び込む。一呼吸遅れて、水の中に鋭く尖った石が落ちてきた。恐らく私達の立っていた辺りに落ちて砕けたのだろう。少しでも躊躇ったら、この石の下敷きだったかも知れない。水の中で乞食を見ると、突然飛び込んだからか、今にも溺れそうになっている。私は乞食の布を取り払い、顔を押さえつけると、唇に口づけて息を吹き込んだ。ごぽごぽと乞食の口の周りに泡が飛び散る。私が息継ぎの為に水面に浮いた、その瞬間―――。
「
ゴン、と、私の後頭部が、池の底に口づける音がした。
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