第十六節 気狂える教師
実家には
腰に力が入るようになると、母に連れられて村の中を散歩した。母の胸は大分悪くなっており、家の外を歩くときは、私が手を引かなければならなかった。
村の外に出てから暫く、私は誰にも会わなかったが、ある時、一人の少年に出会った。成人したばかりらしいその少年は、名前を
「こんにちは!
青年と言うにはまだ幼いが、彼は挨拶も心地よく村人達からすぐに好かれる好青年だった。村の外れまで歩く事も難しい母に、色々な町や村の話をし、母もすっかり
「こんにちは、
恐らく下心のない善意なのだろうが、
「
母の前に魚籠を起き、彼にとっては珍しい組み合わせで座っていた私達の所にやって来る。
「やあ
「安息日と言えば、最近、安息日を守らないラビ(教師)がいるそうですね。」
「そんな馬鹿な。ラビと呼ばれる人が律法を守らなくなったら、この世の終わりだよ。」
「ホントですよ。でも律法を守らないのに民衆に人気があるんです。」
ハハッと私は笑った。
「へえ、
「石で殺される前に、頭がおかしくなっちゃうかも知れませんね。凄い人気だから、行く先々で民衆に取り囲まれてるんですよ。もうガリラヤ湖周辺の村で、知らない人は居ないんじゃないかってくらい。兄ちゃまも最近、話をよく聞きに行くんです。ボクも行ったことありますよ。」
「そりゃゴキゲンな跡取り息子さまなことで。」
「ちなみに、その人はなんて言うの?」
「ご存じかも知れませんよ、ナザレ出身だそうですから。―――
ガチャン!!!
その場にいた全員が顔を強張らせた。私は動揺のあまり、瓶を取り落とした。大きな音がして、
「何の音? ―――あ! 瓶! アンタ壊したの!?」
「
震える手で、
「
「
震える声でそう絞り出すと、仕事を思い出した
「じゃあ、また次回。毎度ありがとうございました!」
「ええ、
「はーい!
パタパタ走って行く音がする。それをどこか遠くに聞きながら、私はぼんやりと、死のうとして失敗したことを思い出していた。
本当に預言者の仲間入りをしようとしているのだ、
「………。」
だが、そのように厳しく律法に縛られるのは、イスラエル人が自分達の歴史についてあまりにもよく知っているからだ。神の怒りを買った者が一人でも居れば、イスラエル人は断絶の危機に見舞われる。それは国王であっても
どんな人間だって、娼婦や男娼を目の前にして、浅ましい欲を擡げないなんてことはないのだ。無いと大言するのは、単純に好みの花売りにあったことがないだけだ。
「まだヒコ、続けてたんだね。」
「まだ? まだってどういうことだ、
すると
「まだ
「人の心配も気にしないで、まだバカやってるって事か。…でもそれ、本当に頭がおかしくなってないのか、ヒコ。」
「母さん、おいらヒコが心配だよ、見に行ってもいい?」
「ヒコ兄が心配なら、実際に会いに行けば良いじゃん。母さん、アタシ達に見に行かせてよ。」
「ううん…。」
母は尚も悩んでいるようだった。話が進まないので、私が助け船を出す。
「お母さん、ぼくが背負って行きますから、皆で行きましょうよ。」
「なんでアンタが決めるのよ!」
「
うぐっと
「
「でもお母さん、カペナウムまでですら、歩くとしたら結構ありますよ。ガリラヤ湖の南の方にもし居たら―――。」
「アンタ、母さんの気持ちをフイにするの!?」
「少し黙りなさい、
「
「………。」
母の胸の具合を見ながら歩く道のりは非常に遠く、中天に太陽がかかるときは、全員の上着で陰を作り休んだ。太陽がまた動き出すと私達も歩き出し、月が斜めになるくらいまでなら歩いた。私はもう少しゆっくりでもいいのでは、と、何度も言ったが、母は
そうして、たっぷり七日は歩いた頃、
「
「
「ヤ、ヤ、ヤ、そうじゃないんだ、
「おや、そうなのかい。分かった、呼んでくるよ。」
待ってて、と、
数秒経つと、何故か群衆がわっと盛り上がり、口々に
「ごめんよ、
「なんで?」
「今の
「………。は?」
「今はお忙しいけど、今夜の宿での晩餐なら多分―――あ、
冗談じゃない。私は群衆を押しのけて会堂の中に入った。
母の胸が悪いことは、
「
二、三人の壁がどうしても突破できず、私は額から上が見えている
「にっちゃ! 久しぶり!」
その言葉があまりにも舌っ足らずの子供のようで、目の前にいるのが嫁を娶っても不思議ではない年の頃合いの弟であることを疑った。そんな風に喃語が抜けない甘ったれのくせに、調子に乗って母の心配を蔑ろにして、にこにこ笑っているのが許せず、私は思いきり左の頬を殴りつけた。数人の女達が悲鳴を上げ、男達は私の気迫に圧されたのか、どよめいて後ろに下がった。
「この愚弟! 母さんがどんな気持ちでナザレから出てきたと思ってんだ! この親不孝者!」
「痛いっ! にっちゃ痛い! 痛い痛い! 止めて!」
「そんなに子供の預言者ごっこがしたいなら、お前を家に閉じ込めて延々とぼくが付き合ってやる! ほら、立て
「ダメだよにっちゃ、ボクは―――。」
「どんなにお前が偉ぶってもな! ぼくはお前のおむつを取り替えるときに何度もションベンをかけられたし、腹を下しても一人で便所にも行けないお前の為に便所に付き合ったんだぞ! 預言者様がシモの管理も出来ないようなだらしない奴な訳ないだろ! お前は預言者なんかじゃない! ただの空気の読めないはぐれ者だ! 夢から覚めるまで家から出さないからな、ホラ帰るぞ!」
「おい。」
私が
「誰かと思ったら、先生の兄君じゃねえか。随分と手荒いことしてくれんなァ?」
「何だったら―――。」
「
「………。チッ。」
「にっちゃ、立てる? 外に行こう。」
「…にっちゃじゃない、兄ちゃんだ。」
「分かった分かった、にっちゃ。」
何とも言えない脱力感に押しつぶされそうになりながらも、私は
母はそれを見て満足し、安心したようだった。
「
「…ああ、お前も寝れないのか、
「…少し、外に出ない? …考えを纏めたいんだ。」
私は答える代わりに身体を起こし、
結論から言うと、
「おいらはさ、
「…
「
「………、つまり、一緒に一味に加われと?」
「無理にとは言わない…って、言うべきなんだろうけど………。おいらは賭けてみたいんだ。穢れの中で育った、父親の知れない子だと言われて育った
「救う? 救うだって? あはは、そりゃないさ、だって―――。」
―――だって、
もし私をも救ってくれるのなら、そんなことはしなかった筈だ。私が救われるに値する、イスラエル民族の一人として数えてくれるのなら、男としての最大の不名誉から守ってくれたはずだ。
―――否、違うのかも知れない。
考えてみれば
であれば、私は
「…分かったよ、
「! ありがとう、
「だけどぼくは、
―――
「うん、分かったよ、
「ああ、分かった。…じゃ、決まりだな。もう寝よう。明日、早いんだろ?」
翌朝になって、弟子入りの話を
とにかく、私達はこうして、
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