第十六節 気狂える教師

 実家にはきびすきんかずが既に居たので、私の居場所はないように思えた。事実、かずは何かと私にきつく当たったし、暫くの間腰が役に立たなくて床に伏している間、私に食べ物や飲み物を持って来るのは専ら母の役割だった。初めこそそこに救いを見いだしていたが、その内母がいつどのような切欠で私に事の真偽を確かめるのではないかと、不安になるようになった。母は、それを感じ取ったらしく、食事の席に始めにきびすを入れた。きびすは言いたいことよりも聞きたいことが沢山あったようだが、母が私に色々と世間話をしているのを見て、ぽつりぽつりと世情の話に意見を言うようになった。それは三人での会話になった。

 腰に力が入るようになると、母に連れられて村の中を散歩した。母の胸は大分悪くなっており、家の外を歩くときは、私が手を引かなければならなかった。きびすの話だと、母の胸をよくするものは栄養のある食事しかないらしく、その為にはきびすの大工の仕事だけでは足りないとのことだった。まさか売春でもしているのか、と、聞こうとしたが、意外なことに、まさの嫁ぎ先が、上質な凝乳ちーず、小麦を送ってくれるのだという。伝え聞く限りでは、少なくとも『妻』であることには変わりないらしく、幸せかどうかは分からないが、不幸でもなさそうだった。

 村の外に出てから暫く、私は誰にも会わなかったが、ある時、一人の少年に出会った。成人したばかりらしいその少年は、名前を恩啓おんけいと名乗り、嗣跟つぐくびすの末の弟だと言った。嗣跟つぐくびすは最近娘が生まれ、カペナウムの隣村か、湖向こうのベトサイダくらいにしか魚を卸さないため、代わりに彼がナザレに来るようになったのだと言った。

「こんにちは! 海女うなめさん、瞻仰せんぎょうさん。」

 青年と言うにはまだ幼いが、彼は挨拶も心地よく村人達からすぐに好かれる好青年だった。村の外れまで歩く事も難しい母に、色々な町や村の話をし、母もすっかり恩啓おんけいを気に入っていた。だが私はあまり、彼が好きではなかった。理屈ではない。何故か彼を見ていると、詰問されているような、この小さな少年が裁判官であるかのような錯覚に陥る。詰まるところ―――私は彼に、私が男娼であったことを知られているような気がしてならないのだ。彼を見ていると、逃げ出したくなる。家に引きこもり、一番奥の部屋で上着を被っていたくなるのだ。

「こんにちは、恩啓おんけいちゃん。今日も元気ね。」

 恐らく下心のない善意なのだろうが、恩啓おんけいは村に魚を売りに来た後、うちに直接魚を売りに来た。母が外を歩くのが難しいと知ってから、態々家に売りに来るのである。私はそうなると逃げられないので、いつも部屋の奥へ引っ込んだ。ただその日は、かずが癇癪を起こして部屋を追い出されてしまったため、居間できびすと一緒に駄法螺だぼらを吹いていた。

瞻仰せんぎょうさん、きびすさん、何のお話してたんですか?」

 母の前に魚籠を起き、彼にとっては珍しい組み合わせで座っていた私達の所にやって来る。

「やあ恩啓おんけい。大した事はないよ、昨日の安息日の説教が難しかったって話だ。」

「安息日と言えば、最近、安息日を守らないラビ(教師)がいるそうですね。」

「そんな馬鹿な。ラビと呼ばれる人が律法を守らなくなったら、この世の終わりだよ。」

「ホントですよ。でも律法を守らないのに民衆に人気があるんです。」

 ハハッと私は笑った。

「へえ、愈々いよいよ神の民も目が曇ったのかね。そんな気違いに関わってたら、祭司達も黙っちゃいるまいに。今に石で殺されるぞ? そいつ。」

「石で殺される前に、頭がおかしくなっちゃうかも知れませんね。凄い人気だから、行く先々で民衆に取り囲まれてるんですよ。もうガリラヤ湖周辺の村で、知らない人は居ないんじゃないかってくらい。兄ちゃまも最近、話をよく聞きに行くんです。ボクも行ったことありますよ。」

「そりゃゴキゲンな跡取り息子さまなことで。」

「ちなみに、その人はなんて言うの?」

 きびすがそう聞いた。どうせ碌な人間じゃなさそうだ、と、私は話半分に聞きながら、葡萄酒が入っていた小さな瓶をひっくり返した。一滴も落ちてきやしない。

「ご存じかも知れませんよ、ナザレ出身だそうですから。―――ひこばえさま、と仰います。」

 ガチャン!!!

 その場にいた全員が顔を強張らせた。私は動揺のあまり、瓶を取り落とした。大きな音がして、かずが出てくる。

「何の音? ―――あ! 瓶! アンタ壊したの!?」

かず、何でも無いよ、何でも無いから、危ないからこっちに来るな。」

 震える手で、きびすが、動けない私の代わりに、瓶の欠片を集める。恩啓おんけいは熱っぽさを含んだ目で続けた。

ひこばえさまの説教は不思議な力がおありです。この前、兄ちゃまのお付きだった厩番と、その友人の乞食が弟子に迎えられたんですけどね。カナで奇跡を起こされて、その話をカペナウムでしてくれたんです。その他にもいろいろ、神様についてお話なさいましたよ。それを聞いて、ユダヤ教の指導者の、…ええと、なんて言ったかな、とにかく有名な人が、夜に一目を忍んでやってきたくらいなんです。その時も大層なお話をなさったそうで、…ああ、いいなあ、いいなあ。ボクも家の仕事が無けりゃ、あの人について行くのに、或いは、あの人からお声を戴けたら、きっと父ちゃまも許して下さるんだろうに、いいな、駒桜こまざくらは。禄に漁も出来なくてうちの厩番になったのに、真っ先に弟子になっちゃった。」

恩啓おんけい、母が魚を選び終わったみたいだ。この後残りを別の所に卸すんだろう? 長話してるヒマなんてないぜ。」

 震える声でそう絞り出すと、仕事を思い出した恩啓おんけいは魚籠の前に戻った。瓶の欠片を集めて竃に放り込み、きびすはじっと黙っている。顔色が悪い。

「じゃあ、また次回。毎度ありがとうございました!」

「ええ、恩啓おんけいちゃん、気をつけるのよ。」

「はーい! 海女うなめさんもお大事に!」

 パタパタ走って行く音がする。それをどこか遠くに聞きながら、私はぼんやりと、死のうとして失敗したことを思い出していた。

 本当に預言者の仲間入りをしようとしているのだ、ひこばえは。あの子の時に不自然な言動は、私が知っている頃よりも鋭く尖っているだろう。それが神秘的だとか、革新的だとか、無知なる民衆は思うのかも知れない。学がなければないほど、根拠よりも直感を信じるものだ。そして哀しいかな、イスラエル人は歴史については詳しくても、神については無知だと私は思っている。何故なら、彼等は律法学者の言うことを、そっくり丸ごと繰り返し、安息日の歩数なんかを気にして生きている。イスラエルでしか生活したことがないのならそれが当たり前なのだろうけど、幼少時代を外国で過ごしていた私には奇妙奇天烈な習慣だ。

「………。」

 だが、そのように厳しく律法に縛られるのは、イスラエル人が自分達の歴史についてあまりにもよく知っているからだ。神の怒りを買った者が一人でも居れば、イスラエル人は断絶の危機に見舞われる。それは国王であってもやもめであっても例外はない。一人残らず外国に蹂躙されるか、裁きに遭うか、だ。その憂き目をどんな民族よりも繰り返している愚かな民族だから、愚かしく律法に縛られる。彼等は律法を護ってさえ居れば安全で、護れない人々を閉め出してしまえば護られる。―――私のような者を見つけたなら、彼等がどうするかなど火を見るより明らかだ。だから私は、彼等が愚かだというのだ。私から見れば、誰も彼もが性欲に支配された獣と変わらない。

 どんな人間だって、娼婦や男娼を目の前にして、浅ましい欲を擡げないなんてことはないのだ。無いと大言するのは、単純に好みの花売りにあったことがないだけだ。

「まだヒコ、続けてたんだね。」

「まだ? まだってどういうことだ、きびす。」

 するときびすは、泣きそうな顔で言った。

「まだ瞻仰せんぎょうが帰ってくる前、一度だけ、ヒコが帰ってきたんだよ。その日は安息日だったから、会堂で預言書を読んだんだ。立派になったもんだと思ってたんだけどね、初めは事実、良いことを言ってたんだよ。だけどその内雲行きが怪しくなって、とうとうナザレ人を罵倒し始めて、終いには崖から落とされそうになったんだ。なんとかおいらときんで押しとどめて逃がして…。おいらはもう危ないことは言うなって言ったんだけど………。」

「人の心配も気にしないで、まだバカやってるって事か。…でもそれ、本当に頭がおかしくなってないのか、ヒコ。」

「母さん、おいらヒコが心配だよ、見に行ってもいい?」

きびすが言うと、母は黙り込んで考えた。話を聞いていたかずが口を挟む。

「ヒコ兄が心配なら、実際に会いに行けば良いじゃん。母さん、アタシ達に見に行かせてよ。」

「ううん…。」

 母は尚も悩んでいるようだった。話が進まないので、私が助け船を出す。

「お母さん、ぼくが背負って行きますから、皆で行きましょうよ。」

「なんでアンタが決めるのよ!」

かず止めなさい! 母さんを背負えるのは瞻仰せんぎょうだけなんだから! 母さん、ろばにだってもう乗れないんだぞ!」

 うぐっとかずが言葉を詰まらせる。確かに、きんは下を向くことしか出来ないし、きびすは足の一部の骨がない。私しか母を背負える者はいなかった。

きんの意見も聞きましょう。その上で、きんも行くと行ってくれるなら、皆で行きましょう。ああ、でも瞻仰せんぎょう、おんぶはしなくていいわ、手を引いてくれたら、歩けるから。」

「でもお母さん、カペナウムまでですら、歩くとしたら結構ありますよ。ガリラヤ湖の南の方にもし居たら―――。」

「アンタ、母さんの気持ちをフイにするの!?」

「少し黙りなさい、かず!」

かず、ありがとう、瞻仰せんぎょうも。でもいいのよ、私が歩きたいの。」

「………。」

 きんが反対してくれるのを祈ったが、馬具の修理から戻ったきんは、二つ返事で快諾してしまった。翌日私達は急遽、旅支度をし、ガリラヤ湖へ向かうことにした。


 母の胸の具合を見ながら歩く道のりは非常に遠く、中天に太陽がかかるときは、全員の上着で陰を作り休んだ。太陽がまた動き出すと私達も歩き出し、月が斜めになるくらいまでなら歩いた。私はもう少しゆっくりでもいいのでは、と、何度も言ったが、母はひこばえが心配らしく、なるべく歩きたがった。

 そうして、たっぷり七日は歩いた頃、ひこばえがカペナウムにいると聞き、私達はカペナウムの会堂に行った。預言者の真似事をしているなら、きっと説教をする場所に会堂を選んでいるし―――実際、会堂には外まで人が溢れていた。聞こえもしない説教に、何故か全員心を打たれてうっとりと聞き入っている。私はそこで、見知った顔を見つけ、四人を群衆より一歩下がった所に待たせて話しかけた。

妁夫しゃくふ妁夫しゃくふ! おおい! ぼくだよ、瞻仰せんぎょうだ。」

 妁夫しゃくふはすぐに振り向いた。そして私を一目で見つけると、人混みを掻き分けて出てきた。

瞻仰せんぎょうさん! きっと来てくれると思ってましたよ、さあどうぞ、ひこばえ先生の説教を―――。」

「ヤ、ヤ、ヤ、そうじゃないんだ、妁夫しゃくふ。実は母と弟達と一緒に来ていてね、ヒコ…バエの事を心配して、母なんて胸が悪いのに態々ナザレから歩いて様子を見に来たんだよ。」

「おや、そうなのかい。分かった、呼んでくるよ。」

 待ってて、と、妁夫しゃくふは私に手で合図を送り、群衆の中に沈んでいった。

 数秒経つと、何故か群衆がわっと盛り上がり、口々にひこばえを讃え始めた。どんなに群衆が熱狂しても、私から見ればいつまでも赤ちゃん言葉が抜けきらない頼りない弟だ。そりゃ確かに、不思議なことを言うこともあったけれども、だからといって預言者様なんて柄でもないにも程がある。

 妁夫しゃくふが出てきた。少し困ったように眉を寄せているが、表情は明るい。丁度今の熱気に中てられたようだった。

「ごめんよ、ひこばえ先生は出てこれない。」

「なんで?」

「今のひこばえ先生にとって、家族というのは、こうして話を聞いてくれる人の事で、ナザレに置いてきた家族の為に、『家族』を待たせる事は出来ないって。」

「………。は?」

「今はお忙しいけど、今夜の宿での晩餐なら多分―――あ、瞻仰せんぎょうさん!」

 冗談じゃない。私は群衆を押しのけて会堂の中に入った。

 母の胸が悪いことは、ひこばえも知っているはずだ。その後ナザレに戻ってきて、調子に乗って村人を怒らせて、どれだけ母が心配したか、きびすきんがどんなに命の縮むような思いをして逃がしたか、それらの恩を忘れて、今の人気に酔っている。自分の家族も大切に出来ないような不肖の息子が、どう逆立ちをして自分の出た家系の人間を、ひいては家族を含めたイスラエル人を救うと言うのだ。そんな傲り昂ぶった恥ずかしい思い違いをしているなら、正さなければ。それが私のような兄でも出来る事というものだ。

ひこばえ!」

 二、三人の壁がどうしても突破できず、私は額から上が見えているひこばえを呼んだ。するとひこばえはパッと立ち上がり、すぐに私を見つけ、私の前に立ちふさがっていた人々を退かさせ、近づいて来た。

「にっちゃ! 久しぶり!」

 その言葉があまりにも舌っ足らずの子供のようで、目の前にいるのが嫁を娶っても不思議ではない年の頃合いの弟であることを疑った。そんな風に喃語が抜けない甘ったれのくせに、調子に乗って母の心配を蔑ろにして、にこにこ笑っているのが許せず、私は思いきり左の頬を殴りつけた。数人の女達が悲鳴を上げ、男達は私の気迫に圧されたのか、どよめいて後ろに下がった。

「この愚弟! 母さんがどんな気持ちでナザレから出てきたと思ってんだ! この親不孝者!」

「痛いっ! にっちゃ痛い! 痛い痛い! 止めて!」

「そんなに子供の預言者ごっこがしたいなら、お前を家に閉じ込めて延々とぼくが付き合ってやる! ほら、立てひこばえ! 帰るんだ!」

「ダメだよにっちゃ、ボクは―――。」

「どんなにお前が偉ぶってもな! ぼくはお前のおむつを取り替えるときに何度もションベンをかけられたし、腹を下しても一人で便所にも行けないお前の為に便所に付き合ったんだぞ! 預言者様がシモの管理も出来ないようなだらしない奴な訳ないだろ! お前は預言者なんかじゃない! ただの空気の読めないはぐれ者だ! 夢から覚めるまで家から出さないからな、ホラ帰るぞ!」

「おい。」

 私がひこばえを立たせるために、ひこばえの二の腕を握った方とは反対の方の私の二の腕を、誰かが掴んだ。その途端、呼気を吹き付けられた竃のように、身体の芯が燃え上がる。誰かではない。私はこの掌を

「誰かと思ったら、先生の兄君じゃねえか。随分と手荒いことしてくれんなァ?」

 嗣跟つぐくびすだった。目と耳がそう確信すると、へたりと足腰の力が抜ける。それで隠れた事には隠れたが―――少し、なっていた。あの日、散々に嬲られた記憶が蘇る。剰え、それが好ましい体験だったことをも思い出してしまう。それと同時に、恐怖も感じていた。

「何だったら―――。」

嗣跟つぐくびす、止めなさい。もうこの人は私を殴ってない。」

「………。チッ。」

「にっちゃ、立てる? 外に行こう。」

「…にっちゃじゃない、兄ちゃんだ。」

「分かった分かった、。」

 何とも言えない脱力感に押しつぶされそうになりながらも、私はひこばえに支えられて会堂を出た。

 ひこばえは家族と再会し、抱擁を交わしたが、私達が大丈夫なのか、何をしているのか、と尋ねると、何とも言えない風にはぐらかした。晩餐の準備をするために離れていたらしい謦咳けいがいの薦めで、会堂長の家で夕食を共にすることは出来たが、ひこばえの右には嗣跟つぐくびすが、左には謦咳けいがいが座っていて、特別私達を気にかける事はなく、食事中に様々な問答をしていた。

 母はそれを見て満足し、安心したようだった。きんかずも、母が良いなら、と、納得した。しかしそうは問屋が卸さないのが、兄というものである。だが会堂長は、一晩泊めてくれるとまで言ってくれたので、私達は急遽用意された別室に泊まる事にした。

瞻仰せんぎょう、起きてる?」

「…ああ、お前も寝れないのか、きびす。」

「…少し、外に出ない? …考えを纏めたいんだ。」

私は答える代わりに身体を起こし、きびすが立ち上がるのを手伝って、外に出た。


 結論から言うと、きびすにはあの時のひこばえの、ラビとしての言葉が届いていたらしい。具体的にどんな話だったか、と聞くとはぐらかしたので、恐らく詳細に聞こえた訳じゃないか、それとも理解及ばず忘れてしまったかしたのだろう。だがきびすは、ひこばえにラビの資質があると感じたのだという。

「おいらはさ、瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょうよりもずっと後になってひこばえの兄ちゃんになったから…。だから、ひこばえが小さい頃、どんな赤ちゃんだったのか知らないし、だからこそ、その、多少の補正は入っていると思うんだ。おいらは…、―――おいらは、ひこばえは本当に、預言者になれると思う。」

「…きびす、でもひこばえは―――。」

瞻仰せんぎょう、おいらはひこばえがどうなるのか、傍で見たい。そして出来るなら、兄として力になってやりたい。でも、おいらは不完全だ。添え木が壊れたら、ひこばえがもし歩けなくなったら、おいらにはひこばえを助けてやれない。だから、だからね、瞻仰せんぎょう。おいらがひこばえを助けられるように、助けてほしいんだ。」

「………、つまり、一緒に一味に加われと?」

「無理にとは言わない…って、言うべきなんだろうけど………。おいらは賭けてみたいんだ。穢れの中で育った、父親の知れない子だと言われて育ったひこばえが、どんな預言をされてるのか、見てみたい。きっとそれは、おいら達みたいなのを救ってくれる。」

「救う? 救うだって? あはは、そりゃないさ、だって―――。」

 ―――だって、ひこばえは私と嗣跟つぐくびすをまた引き合わせてしまったのだから。

 もし私をも救ってくれるのなら、そんなことはしなかった筈だ。私が救われるに値する、イスラエル民族の一人として数えてくれるのなら、男としての最大の不名誉から守ってくれたはずだ。

 ―――否、違うのかも知れない。

 考えてみればひこばえが誰を救いに来た預言者なのか、私がどうやって知ることが出来るだろう。ひこばえは初めから、私など見ていないだけなのかも知れない。だからあの時、私にはひこばえの声が聞こえなかったのではなかろうか。ひこばえが救おうとしている人にだけ、声が届いたのかも知れない。どういう基準なのか分からないが、少なくともひこばえは、きびすを救う為の預言者なのかも知れない。

 であれば、私はきびすを護らなければ。きびすと、ひこばえをも護らなければ。―――私は、初子では無かったが長男で、見限られたとは言え、ひこばえを護る戦士として育てられたのだから。

「…分かったよ、きびす。一緒にひこばえの弟子になろう。」

「! ありがとう、瞻仰せんぎょう!」

 きびすは私に抱きついて喜んだ。その背中から翼が生えているように生き生きと喜ぶきびすを抱き返せなくて、私は声を絞り出した。

「だけどぼくは、ひこばえを認めたわけじゃない。だからきびす、ぼくが弟子の身分を忘れて、横暴な兄に成らないように、きびすもぼくを護ってくれ。」

 ―――嗣跟つぐくびすの陰茎の形が、私の身体に纏わり付く限り、私はいつ、我を忘れて快楽を見つけようとするのか分からない。ひこばえの傍に既に嗣跟つぐくびすがいることは、恩啓おんけいの言葉で予測出来ていた筈なのに、私は嗣跟つぐくびすの力強い掌に当惑してしまった。あの熱が私を覆って離れない。

「うん、分かったよ、瞻仰せんぎょう。皆にはおいらから話すよ、またかずが騒いだらいけないからね。だから瞻仰せんぎょう、明日の朝一番に、ひこばえに弟子入りの話をしに行ってよ。」

「ああ、分かった。…じゃ、決まりだな。もう寝よう。明日、早いんだろ?」

 きびすは安心したように笑い、二人でそっと寝室に戻った。


 翌朝になって、弟子入りの話をひこばえにすると、ひこばえは抱きついて喜び、まだ少ないけど、と嫌味だか謙遜だか分からない接頭語を添えて、弟子を紹介した。兄弟子達は全部で六人。即ち、謦咳けいがい妁夫しゃくふ嗣跟つぐくびす恩啓おんけい駒桜こまざくら、そして、駒桜こまざくらの友人だという神授しんじゅである。

神授しんじゅは既に六十は越えている老人で、私が何故かお気に召したようだった。私も神授しんじゅは好ましく思ったので、彼と自然と居ることが多くなった。彼が老人で、既に明らかに勃たないというのも、嗣跟つぐくびすの脅威に晒されていた私には、大きな安心感が持てる所だった。一方できびすは、ひこばえの話にどんどん興味を示し、行動や祈りの時間を模倣するようになっていた。それを敬虔と呼ぶか、模倣と呼ぶか、それはその時の私にはまだ判断が出来ないところだった。

とにかく、私達はこうして、ひこばえの公生活に加わり、家を捨てたのだった。

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