第十五話 愚劣なる策士

 どんな職種でも、仕事中に死んでしまう事は有り得ないことではない。それが娼婦や男娼と呼ばれる世界でもまた同じ事。

 一番多かったのは、腹上死だったと思う。人気すぎるというのではなく、客の性癖に付き合わされ、全身から空気がなくなり、胸が文字通り裂けて死んだ。私は幸いにも引っかかったことは無かったのだが、仲間の女を殺した男がぞっとするような顔で言った言葉を覚えている。『首を絞めたとき、最ッ高に締まるンだ』。奴はそう言って、次の神殿娼婦を探そうとしたが、流石に扼殺やくさつ死体が神殿に転がっているのは見過ごされることはなく、彼は縄にかけられてどこかへ連れて行かれた。死刑にならなかったかも知れないが、碌な人生も送らなかっただろう。それから、性病による死。性病にも種類があるらしく、半年も持たずに死ぬこともあれば、私が神殿に来る前に追い出した元仲間がまだ生きているらしい、という話も聞いた。同じ性病に起因するものであっても、性病を原因として、殺される事もあった。要するに、性病を移された客が逆恨みをして殺しに来て、道連れにしようとしたのだ。こうなると怒り狂って手が付けられないから、私達は性病を持ったと分かると、どんな事情のある者でも、聞くだけ聞いて切って捨てて追い出した。

 性病を騙ったとしても、どんな毒が、嗣跟つぐくびすの陰茎にそれらしい傷や痛みを与えるのか分からなかった。となると、性病を移されたと怒らせるのは無理だろう。

 となると、もう一つの方―――私の首を絞めさせる方法だが、嗣跟つぐくびすは、嗜虐性はあるものの、あそこまで過激ではない。だから、理由をでっち上げる必要がある。つまり、快楽による扼殺やくさつではなく、憤怒や憎悪による殺意だ。私は滅法、奴に嫌われ、蔑まれ、自分という存在と関わったことを後悔するような、そんな戯作げさくを書かねばなるまい。経験上、私達で筆卸しをしたような男共というのは、私達のその場しのぎの小遣い稼ぎを真に受けて熱中し、私達の仕事を逆恨みして襲いかかるという傾向がある。私達以外に相手をして貰えないような、そんな駄目な醜男達というのは、拗らせると死ぬまで追いかけてくるし、何なら死んでも身体の一部を切り取って持って行ってしまうような奴もいたというから恐ろしい。

 嗣跟つぐくびすと私は対等な関係ではなく、かといって単純な主従関係とも言い難い。寧ろ私達は、私が圧倒的に不利な契約関係と言うべきだろう。

 私がこの契約を放棄されて怒ること。それはまさが『妻』『母』以外になることだ。それこそ私は嗣跟つぐくびすを殺すためだけに、腹に尻に口に毒を含んで、何日もの間裸でいるだろう。しかし嗣跟つぐくびすから一方的に課せられているこの契約を、切るも切らぬも嗣跟つぐくびすの気分次第。この契約を放棄させる方向性では、嗣跟つぐくびすの怒りは買えないだろう。そもそも何故このような契約が―――………。

「………。そうか。」

 私が嗣跟つぐくびすに良いようにされているのは、嗣跟つぐくびすが得るはずだった享楽を止めた、その補填だ。ということは、もし私が嗣跟つぐくびすの前提を覆し、おちょくっていたと奴に恥を掻かせてやることが出来れば、奴は私を殺そうとするに違いない。

 そうと決まれば、と、私は急いで、駱駝の皮の服を洗い、修練者に見えないような、かといって町人にも見えないような小汚い格好になると、急いでツィポラに走った。


 ツィポラはガリラヤ地方最大の都市だ。あらゆる娯楽や経済が集う。北側が国境だから、ギリシャ人やローマ人なんかの異邦人もウロウロしていて、ギリシャ語を喋る一般人が最も多い地域でもある。私は道中、蓄えておいた全ての食べ物と取り替えたなけなしの金を握りしめ、顔の輪郭を隠し、会堂の管理者に近づいた。

「なあ、なあ、会堂長さんよ。オイシイ話があるんだ、ちょっと宣伝しておくれよ。」

「なにか用か、乞食。」

「如何にもぼくは乞食だ。だから、あるお人から伝令を頼まれたのさ。前金も貰った仕事なんだ、ちょっと聞いてくれよ。」

 私がそう言って、『前金』を手に乗せると、会堂長は周囲を見渡し、柱の陰の壁際まで移動した。

「手短に頼もう。」

「話が分かるな、アンタ。なに、ちょいと羽振りと腰振りのいい話さね。十五年以上前に立てられた、ツィポラの外れにある掘っ立て小屋知ってるだろ? 昔、職人達が使ってたとか何とか言ってる、今吹きだまりになってるところ。」

「ああ、あの乞食共の巣窟か。それがどうかしたのか。」

「それがよ、次の日没から日の出まで………、だから、あと三時間くらいか。とにかくそれくらいで、一等珍しい娼婦が集まるんだそうだ。片手の指ほどもいないけどね、早い者勝ち、並んだ者勝ちってことだ。」

「娼婦なぞどこにでもいるだろう。」

「あたぼうよ、だからこそぼくが伝令を頼まれたんだ。そんじょそこらにはいない、とっても珍しい類の娼婦だから、とね。」

「どう珍しい?」

「オット! そりゃ料金を取らなくちゃなあ。それもぼくがじゃなくて、支配人たちが、だ。」

「………。」

「聞いてるぜ? 最近、カナに出来るはずだった慰安所がおじゃんになったんだろ? ちょろりと聞いた話じゃあ、そこに来る筈だった女が紛れ込んでるって話だ。今晩だけだから、後悔したくなきゃ来るように、お知らせしといてくれよ。」

「支配人の名前は?」

瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょうだ。いいか、間違えるなよ、瞻仰せんぎょうだ。」

 私はそう言って、金袋を取り戻し、その場を去った。

 次に私は、掘っ立て小屋に急いだ。十五年以上前、私が父とツィポラの拡張工事をしていたとき、使っていた簡易集会所だ。今でも壊されずに乞食が使っているのは、昔から噂になっていたし、もう確認してある。

「おい、貧乏人ども!」

私は吹きだまりになっていた乞食達の前に、金袋から取り出した銅貨を一枚、放り投げた。虚ろな目をしていた乞食達が、一斉に硬い音に向かって群がる。私は一心不乱になっている彼等にも聞こえるように、金袋をじゃらじゃらと鳴らして言った。

「今夜、日没から日の出まで、イイトコの色気じじいどもが集まる! こんな端金じゃねえ、それこそ一タラント(約三千万円)も夢じゃないかもしれない! だから時間までここの外に出て、時間になったら片っ端から襲って身ぐるみ剥いでやれ!! 全てはぼくの主人、瞻仰せんぎょうさまがお許しになった! 今夜の追いはぎは食い放題だ! 分かったらとっとと会堂から出ろ! 今から隠れ場所と武器を探しに行け! そら、信じられないなら、この前金をくれてやる!!」

 そう言って金袋の中身を乱暴に掴み、人の塊の上に投げつける。小さなアサリオン銅貨しかないが、数だけは無駄に多くて、その硬貨の価値も分からず一心不乱に集めようとする。私はアサリオン銅貨の残りを会堂の入り口付近に投げ、最後に空の金袋を会堂の外、遙か遠くに投げ捨てた。乞食達は、無言で会堂を去って行き、虚しい静けさが降りてくる。神殿娼婦は、精液を集めているように見えていたのかも知れない。少なくとも、嗣跟つぐくびすのような人を人とも思わない鬼畜には、そう思われていたのだろう。否、そもそも父に捨てられ、生贄もせず、民族の罪と約束から外れた私は、人と呼べるのかも分からないが。

 とにかく空になったのならば、すぐに満たさなければならない。日の入りまでもう二時間ばかりだ。

 私はツィポラを走り回り、娼婦という娼婦に、今夜の『オイシイ話』を持ちかけた。つまりは、郊外の元集会所にしこたま客が来て、しかも皆、彼女達を特別な技巧を持った高級娼婦だと思い込んでいる、という話だ。身分が、外見が、そんなことは関係ない。悦ばせる事さえ出来れば、一晩で一月分のパンが買えるかも知れない。全て瞻仰せんぎょうという女衒が企画したことだが、ツィポラの規模を見誤ったのと、一行が遅れているので、現場の君たちをご所望である、と、これくらいで良いだろう。いざ時間になれば、何十人もの娼婦とその二倍近い客が犇めき合う中で、真実もへったくれもない。それに、娼婦達は既に、会堂で『オイシイ話』があることを既に聞き知っているはずだ。彼女達の生活に直結する情報の伝達は速い。思惑通り、会堂には数十人ほどの娼婦が集まった。その内の、少なくとも十人は、少女おとめといって差し支えない程の年齢だった。きっとすぐに孕めずに追い出されたのだろう。彼女達を愚かな少女おとめと言いながら貪る男達の中に、嗣跟つぐくびすが初めから混ざっていれば、万々歳なのだが。

 ツィポラの魚は、嗣跟つぐくびすが卸している。それは今も変わらないだろうし、寧ろあの頃から十五年経った今、跡継ぎとしてもっと色々な所に卸しているだろう。魚は保存が利くが、主食の一つだ。すぐになくなってしまう。死海で取れる塩も奴が一緒になって運んでいるはずだ。つまり嗣跟つぐくびすは、今夜もツィポラに来ているはずなのだ。そこに、酒池肉林の淫らな宴が催され、しかもカナの慰安所絡みとなれば、必ず食いつく筈だ。慰安所で得られる筈だった金や、快楽が、私の名前で横行するとなれば、奴は「どの面下げて」と怒るだろう。そこで私は、一世一代の大芝居だ。娼婦の暮らしなど何処も一緒だし、信用のおける話し相手とも思われない。如何に私が今回のような騒動で、十五年間私腹を肥やし、一晩で豪快に使って見せたのか。集めた娼婦達に満足した彼等から、銀貨を一枚多く貰い、自分の袖の中に隠すだけで、その証拠になる。女衒のやり方はよく知っているし、何ならイスラエルに戻ってきてから二十年以上の月日をかけて、取税人達のやり方も覚えた。私なら上手くやれる。人生をかけた大一番、きっと上手く出来る。

 姦婦以下の人生を送ってきて、羊を犯すことからすら安全な孔だと、家畜の権利さえないと言われた私の死に場所としては、随分賑やかな所ではなかろうか。

 私は今から、誰が一番多く搾り取れるか、一番多く稼げるか、などといった賭けで時間を潰している娼婦達から隠れるように上着を頭から被り、集会所の隅で、最期の祈りを始めた。祈る事はただ一つ、私の罪が、私の家族に、私が今でも家族だと思っている彼等に及んで、その未来に翳りがないように、とだけ、ひたすらひたすら、懇願した。

 それは恐らく私が初めて『神』にした祈りだった。


 集会所から見上げる空から赤みが消え、薄暗い帳が覆うと、次第に星が瞬き始める。完全に日が沈んだのだ。私は外から時折悲鳴が聞こえてくるのを確認し、椅子と机を動かして、入り口に座った。

ここから先は、女衒の仕事だ。暗がりでも私だと分かるように、上着を脱いで、私が髭も禄に生えていないことを示す。誰が見ても、私を知っている者であれば、私と分かるように。

「やあ、いらっしゃい、旦那。」

「今日、旅の女どもが来ていると聞いたのだが。あれがそうかい。」

「それがね、旦那。道が悪いみたいで、まだ全員揃っちゃいないんだ。だけどまあ、旦那は運が良い、一番乗りだ。旦那が終える頃には着いてるだろうから、まずは誰か好きな女を見つけてみなよ。」

「病気持ちはいないだろうな。」

「そりゃ旦那、旦那の目利きしだいさ。良いイチモツを持ってる奴は、自然と良い匂いの孔に収まるもんだ。さぁさ、おそまつじゃない自慢の息子さんをはしゃがせてやんなよ。代金は後払いだから。」

「おい、部屋はないのか?」

「旦那、冗談じゃないよ。旅芸人なんぞを泊めてくれる宿屋があるもんかい。まァ、女の言い値を払えるンなら、ここから連れ出しても良いよ。金は二人で出て行くときに纏めてもらうから。」

 今一納得していなさそうだったが、後ろから野次が飛んでくると、顔をしかめたまま奥に入っていった。不満があるなら帰れば良いものを、常日頃からツィポラにいる女とも知らないで、物珍しそうに物色している。

 私が一番、カモにしてやりたい男は、一番乗りでは無かったようだが、絶対に来る、という確信が持てていたので、私は気にせず女衒の振りを続けた。

 月が傾き始めると、いい加減集会所の中も臭くなってくる。ヨロシクやっている男どもを刺激しないように、こっそり窓を開けようとしたが、外から乞食達が強盗をしている声が聞こえてきてしまったので、泣く泣く閉めた。指一本分だけ窓を開くくらいなら大丈夫だろう。新鮮で軽い空気が、すいすいと吸い込まれていった。天井まで籠もっている熱気が、丁度栓を抜いたように抜けていったのだろう。

「ん? 女衒はいねえのか?」

 待ち侘びていた声に、思わず口元が歪む。嗣跟つぐくびすだ。

「タダでヤりたい放題かー?」

「そりゃ、随分と皮の被った事を仰るんですねェ、網元の若旦那。」

 私がひねり出した言葉に、嗣跟つぐくびすがどんな顔をしたのか、よく見えなかった。よく見ると、奴にくっついている年若い男がいる。成人して二、三年、というところだろうか。私は芝居を始めた。

「やれやれ、見つかってしまいましたか。もう少し商売をしていたかったんですがね。」

「商売? お前に商いなんて出来たのか?」

 きょとんとした声は、取り繕っているのだろうか。私は椅子に腰掛け、記憶の中の女衒を思い出しながら答えた。

「そりゃ、見よう見まねって奴ですよ。事実こうして、見られたくない奴には見つかってしまいましたしね。」

「俺に知られたくなかったのか?」

「そりゃ勿論。この商売は貴方のカナ慰安所の案を始めたものですからね。ああ、でもご心配なく。カナの慰安所を出汁にしただけで、嗣跟つぐくびすさまのお名前は出していませんから。…で、今日はどの娘を買ってかれます? 普段嗣跟つぐくびすさまがお手つきにしないような、珍しい娘を集めたつもりですがね。」

「何だよ、金取るのか?」

「当たり前ですよ、商売なんですから。」

「お前、あの洞穴に住んでるだろ? 金なんか稼いでどうするんだ? 仕送りでもしてるのか?」

「まさか! 明日の夜にはドデカい宴会場に乗り込んで、良い酒をカッ喰らってオサラバしてますよ。ケツで稼いだ金なんて長く持っておくもんじゃない。」

「………。」

 嗣跟つぐくびすの顔が険しくなる。私は芝居を続けながら、再び立ち上がり、そっと二人を外に連れ出した。遠くでまだ時々、悲鳴が聞こえる。

「どうです、良い声でしょう。場所を貸して貰った乞食達にね、強盗をさせてるんです。あの網をかいくぐった猛者だけにすると、娘も大事にしてくれるんですよ。おまけに日の出までずっと金を落としてくれる。乞食達は食い扶持が増える。まあ、持ちつ持たれつって奴ですなァ。私も金持ちは嫌いですから、時々外に出てこうして涼みながら声を聞かせて貰ってるんですけど、まあ、いいもんですよ。あの中にずっと居ると、精液と汗の臭いで頭がイきそうになる。いやあしかし、斡旋というのは、資産が現地調達出来る上に現地で消費出来て在庫も無く、実に素晴らしい商売ですね。これは流行る訳です。私も是非、商品を纏める側になりたかった! …ああ、ついつい熱が入ってべらべらと。これは失敬、萎えてしまいますね。さあ戻りましょう。良い娘が空いてなかったら、混ぜて貰うと良い。まともな思考を失ってる娘を選べば、ずっと安くしてもらえますよ。」

「…言いたいことはそれだけか?」

 よし、乗ってきた。

 私はわざと嗣跟つぐくびすの目の前で立ち止まり、ニッと笑った。

「なんです? 冷やかしならお断りなので、さっさと帰って下さい。娘一人満足させられないお粗末さんは、商売にならないんで自信が無いならそれもお帰りください。」

「そうか。」

 そう言うと、嗣跟つぐくびすは私の肩と首を強く掴み、押し倒した。ぎりぎり、と、爪が食い込んでくる。ただ、話がしたいのか、喉を絞めているという感じはしない。

「お前がそんなに金に困ってるなら、一緒にカナの慰安所に紹介してやればよかったな。今からでも作るか? 慰安所。」

「けほ…っ。お断りです、働かないで…得た、金で遊ぶのが、一番良い。」

「よくこんなこと出来たな、孔の分際で。妹が大事じゃなかったのか?」

「私はねェ! …他人の、貞潔の、心配なんか、するなら………。それを、利用してでも、イイ思いがしたかっただけだ! アンタみたいに! 人から、…奪って、みたかったんだよ!」

「へえ。どんな気分だった?」

 我ながら反吐の出るような事を言いながら、なるたけ邪悪に言った。

「最ッ高さ、網元なんかより、ずっとずっと、ずっとずっと多く稼げた! ぼくはアンタより稼いでみせたんだッ! ―――漁師より、娼婦の方が稼げるって、証明できた!!」

「要するにさ、刺激が足りなかったんだろ? 日々の暮らしに。毎日毎日こんなどんちゃん騒ぎ、持つわけねえ。…今回が初めてだよな?」

「ふふ、どうでしょうかね? ツィポラの他に、どこに卸してたのかは知りませんが…。クク、サマリア辺りまで、歩けない、ことも、な―――ガッ!」

 その時になって、掌が一気に私の喉仏を押し込んできた。ぎらぎらと燃える目が近い。

 ―――もう少しだ、そのまま、もっと強くのし掛って、三十数えろ。ぼくはそれで死ぬ。

「へえ、サマリア人にまで売りに行ったのか。」

「みな、ユ、っは…。とほ、ひ、か―――んぐぅっ。」

「そりゃゴキゲンだ。…丁度良い、荒野まで行く手間が省けた。ここでヤらせろ。」

「え。」

 なんでそうなる。あれか? 陵辱して殺したいという訳か?

 計画と少し違うが、最終的に殺してくれるなら構わない。いざとなったら逆に絞め殺して、私も死を偽装しよう。裂いた服で、器用に私の肘の内側と内側を頭の裏で強く結ぶと、何か取り出した。

「金がない家があってナ。代わりに古い油を貰ったんだ。お前に使おうと思ってたから、ホントに丁度良いよ。」

 油? まさかこいつ、今更その使い方に気付いたのか。今までギシギシの状態でよく勃っていられると思っていたが、今更こんなものを使って満足出来るのだろうか。

 鳩尾の辺りまで破いた服の裾を、今度は臍の下くらいにまで引き上げて、直接革袋から油のようなものをかける。油という割にはさらさらとしているし、ぐっとせ返るような濃い甘い匂いもする。しかし何であれ、使い方を間違えているのは相変わらずだ。足を持ち上げてかけようとしているが、上手くかからないらしい。めんどくさい、と、持ち帰ると、袋の口を直接私の尻の中にねじ込んだ。途端にとんでもない量のそれが流れ込んできて、たまらない吐き気がせり上がってくる。だが油が尻から上ってくる事は無くて、寧ろべたべたにされた下腹部と一緒に溶けているような、奇妙な感覚に襲われる。ただの油じゃない。これは―――この匂い、感覚、まさか。

「はちみつ、ざけ、…?」

「なんだ、知ってたのか。使うと気持ちいいんだとサ。だから試して見ようと思、って!」

「うあぁぅっ。」

 ぐらっと下半身が揺さぶられ、ぐるん、と、世界が回転する。睾丸を切られたときの葡萄酒とは違う、目の前が明滅する奇妙な酒だ。少なくとも蜂蜜を荒野で食べていたときには、関係の無かった感覚だ。匂いは蜂蜜だし、この酩酊にも覚えがあるが、私の今までの体験とは大きくかけ離れたものだ。

その事実にまず混乱する。何か得体のしれない、私の知らないものが大量に体内に入っている事に、身体が強張る。殺されようとしていた筈なのに、自分の知らない方法で殺されるのが、どんな苦しみを伴うのか分からなくて、恐怖がうずき出す。吐き気よりも、だんだんと身体が熱くなっていくと、ふわふわとした酩酊感が強くなってきた。身体に馴染んできているのだろうか。嗣跟つぐくびすは匂いに中てられたのか、震える指で自分の股を寛げると、ずる、と私の陰茎と、本来睾丸があったあたりの間に擦りつけた。ここをそのように使われた時、睾丸はあったから、この初めての感覚に、私は驚声を上げた。はぁ、と、温かく太い息が首元にかかったかと思うと鎖骨に歯を立てられる。というより、噛み付かれた。身体が上下にぶれなくなり、より激しく擦られる。鎖骨の刺激は鋭く、下腹部への刺激は緩慢で、その不釣り合いな感覚に酔ってくる。

「思ったよりイイな。一回出すぞ。」

「え…っ?」

 ぼんやりとした頭で、鎖骨から繋がった唾液を見る。その向こうで、酷く粘着質な熱いものが垂れてくる。蜂蜜酒のまったりとした温度が塗り替えられ、嗚呼勿体ないと、どこか他人事のように考える。ずるん、と、突っ込まれた革袋が引き抜かれ、あれっと思った途端、ずるん、と、何時もより少し硬度と温度の低いものが入ってくる。潤滑油が多すぎるのだ。

「んん…っ。」

「おわ、入った。すげえ、こんな簡単に入るもんなんだな。なんで教えてくんなかったんだよ、瞻仰せんぎょう。」

「う、…わぅ、あ…。」

 これを逃したら殺して貰えないかもしれない、と、焦点の合わない瞳と縺れた舌で、声を振り絞った。

「おおきさ、だけが…とり、えの、へたくそ、には、もっ、っ、たいな…。」

「………。あ?」

 男というのは不思議なもので、こんな排泄器官の大きさに拘る。女陰についてはやたらと小さく、男のものはやたらと大きく。それは使わない時でも同じで、大きければ大きいほど、何だか偉くて強いように錯覚している。実際の所受け入れる方としては、大きかろうが小さかろうが関係なく、そこに至るまでの技量で全て決まるというのに、下手な男ほど形や大きさに拘る。―――取り柄が一つしか無いのだ。その取り柄を否定されれば、他に誇れるものは何もなくなる。………男根が果たして誇るに値するモノなのかどうかは知らないが。

「………。ふーん、じゃあお前、毎度きもちぃ具合に締めてたのは、―――。」

「演技に、決まってる! そうじゃないと、止めないから!! 下手くそとするのは―――つまらないし、退屈だ!! アンタはつまんない男だッ!!」

 奴の羞恥心を煽るように、自尊心を曝け出して嬲るように、大声で叫んだ。

 さあ、怒れ。殺せ。怒れ、殺せ。怒れ! 殺せ! 怒れ! 怒れ!! 怒れ!!!

「…じゃあさぁ。」

 しゅる、と、首に私の帯がかけられる。絞殺か、悪くはない。煽るように鼻を鳴らして嘲弄すると、意外や、奴は私の腰をしっかり抱えたまま器用に立ち上がり、酔いが回り、片足で立っている私の身体がぐにゃりと垂れ下がらないように、帯で引っ張った。一、二歩私の方向へ進むと、ごつん、と、私の頭の一番出っ張ったところと、二の腕の裏が何か硬いものに当たり、身体を支える。

。」

「うぐ…っ! あ、あ、んぁ、んっ、んんっ、かは…っ。」

 時々爪先が浮いて、嗣跟つぐくびすの睾丸の枕を押しつぶすように入り込んでくる。急な弧を描き、肩を鎮めて胸を突き出すような不自然な姿勢のせいで、少し揺らされるだけで酷く蠢く。下手くそなのに変わりはないが、強い圧迫感と酷く不安定な姿勢で動きが読めず翻弄され、息が出来ない。絞殺じゃなくて腹上死でもいいか、と、押し出される声を閉じ込めると、声は私の頭の中を反響し、耳から飛び出して言った。

 耳はだから、半分近く塞がっていたと思う。

 だけども、確かに聞こえた。

「ま…て、まって、待って!」

「あ?」

「止めて、ください、あやまります、謝ります。だから―――の前では止めて下さい。」

 『にっちゃ』と。幼い頃のままの声で、心配するように私を呼ぶひこばえの声がしたのだ。集会所の灯火が零れる場所で、初めて神殿に行ったときのような姿をしたひこばえが、私を見ていた。嗣跟つぐくびすも気付いたようで、じっとそちらを見ていたが、私が止めて、止めて、と懇願を続けるので、私の方へ向き直った。

「あいつの前は嫌なのか?」

「あの子は何も知らない…。私がこういう男だということも何も知らないんです。こういう世界がある事も知らない。兄がこういう世界にいることも知らないんです。ずっと秘密にしてきたんです、だから―――。」

「おい、お前ちょっとこっちに来い。」

 とて、とて、と足音が近づいて来る。愈々いよいよ私は焦って、何とかこの快楽を一人占めさせようと、力を込めたが、酔った為か、上手く力が入らない。月から顔を隠して、ひこばえは私をじっと見つめると、私の裸体の弧を目線で辿り、半分ほど勃ち上がった私の陰茎を、身を乗り出して見つめた。

「み、見るな! 見るな! 止めなさい、止めろ、止めて!」

「丁度良い、筆おろしの予定だったしな。お前、こいつに突っ込んでみろよ。」

「そんなことこの子に言わないで下さい!」

「…って、まだ半勃ちにもなってねえか。下着とって見てろ。硬くしてやっから。」

 嗣跟つぐくびすがそう言うと、ひこばえは黙って従った。

 何故、何故、何故。私は殺されたかっただけなのに。ひこばえの為に殺されたかっただけなのに。ひこばえが預言者になりたいというから、殺されたかっただけなのに。何故、何故、何故。

 骨が軋むほどに、嗣跟つぐくびすが私の中に入り込む。これ以上入らない、というくらいにまで入り込まれた時、よじれて狭まった内蔵をこじ開けるように腰を回されて。

 かたん、と、閂が差し込まれた。

「う…あ、ああっ! ああぁッ!!」

 それまで受け流せていた暴風が、閂がかかった鉄扉に直撃する。扉は激しく軋み、風をもろに受けて、繋がっている鉄柵諸共響く。

「…っく、…ぐ、あっ、んふぅんん…っ」

「なんか言ったか?」

 鉄扉が響いて。歌がきっと必要な音が響いていたのだ。私は聞こえる旋律に合う歌を歌った。

「イ…く…っ、イく、イく、もっと、もっと、動いて下さい…っ。」

「?」

「あ、ああ、足りない…足りない…触って、さわって、お願い…。」

「…!」

「あ、あああ、イイ、イく、イく! もう少し、もっと、止まんないで、ああ、あああ、突いて、抉って、噛んで、イかせて、イか、イかせてェッ!」

「堕ちた? 気持ちいいのか? 演技じゃなく?」

「はぁあ、あぁ、あ、ああ! あー、はふ、ふ、うぅん、んんんんううーーーッ!!」

「うわ、とと!」

 浮いた足先が地面に触れて、僅かに靴のきびすが動いて、激しく絶頂に達した。少なくとも嗣跟つぐくびすに組み敷かれている時には感じたことのないような泡の波で肌が浮き立ち、撫でる指先だけで悶えて大声を出した。

 満たされている訳じゃない。寧ろ虚しい。それでもその絶頂の感覚は―――漱雪しょうせつに抱かれている時よりも激しく狂おしく響いた。

「おい、おい、暴れるな!」

「おねがい、おねがい、もっと、もっと強く、つよく、シて、もっと、おっきくなって…。ぼくに、さわって。」

「解いてやるから、ちょっと大人しく―――うわあっ!」

「あっ! ああん、あ、ふー、ふー、ふー―――んああ、ああ! あああァ!」

 解かれた腕をすぐに私の張り詰めた陰茎に添え、尻から嗣跟つぐくびすが出て行かないように押し倒し、身体を支えて滅茶苦茶に動いた。嗣跟つぐくびすが触らなかったから、自分で触って、自分で達しようとした。―――のだが、ぱっと手首を掴まれて離される。もう少しで三度目の絶頂が訪れていたのに、と、嗣跟つぐくびすを見ると、もう欲を取り戻していた。そんなにも私の自慰は煽情的だったのだろうか。情欲の火は、唸り声を上げてうねっていた。

「いい気なもんだな、人のちんこさんざん罵っといて、そいつでキモチイイですってか? ちょっとオイタが酷いぜ、瞻仰せんぎょう。」

「や、つかまえないで…イけない…。」

「おい、ちょっと来い。」

 私ではない誰かを呼んだ。地べたに着いた私の足を浮かせるので、いやいやと締めると、嗣跟つぐくびすは唸ってから言った。

「安心しろ、このまま今夜はろくイキだ。背中向けろ、そしたらもっともっとイカさせてやる。」

「ん…んんっ。」

 言われるがままに、足を動かして背中を向けると、私の目の前に少し小さな、けれども確かに勃起した性器があった。嬰児が母の乳房に吸い付くように、何の衒いもなく、私はそれを咥え、ぐるぐる、ずるずると音を立てて彼を犯した。それが誰かなど考えなかった。

 ただイきたくて、イきたくて。どうしようもなく、絶頂を迎えたその更に先へ、土踏まずが痺れて歩けなくなるその先へ、這ってでも行きたかった。

「お前のは自分でしごけ。俺は勝手に動く。…って、寝たままだと腰ヤっちまうな。ちょっと動くぞ。」

 そう言って、嗣跟つぐくびすは滑る陰茎を突き刺したまま、器用に膝立ちになった。子供の時も色々と格好を取るのは得意だった。私は右手を添え、左手で身体を支えながら、口と手を動かし、必死になってしがみつこうとした。

 もう少し、もう少しで届く。あと少しで。

 喉が、渇いていて。そこに首を伸ばして唇で触れれば水が出ると知っていた。どんな大きさでも、どんな形でも、どんな硬さでも、そこに水源があるのは女も男も同じだ。そしてその水源は、私が呼び水を差し出せば、必ず水を出す。

 案の定、青臭く、未熟なそれが滲み出てきて、私は安心して喉に引き込んだ。

「いた…っ! 痛い、引っ張んないで!」

「おい、童貞だぞ。加減してやれ。」

「んんっ、ふ、うん…。」

 後ろから右手を取られ、均衡を崩す。その途端、口腔の形が変わり、べっと吐き出してしまった。激しく咳き込むと、全身が震えて強張る。まただ、またイけない。ぐっと力を込めても押し出てこない。

「あ…はっ、はっ…、つ…さま…。イ、かせ…て、…おっきいの、くるの…、きそう…。」

「…、出すんだな。」

「?」

 その時奴がどんな顔をしたのか分からなかったが、私が口淫を施していた少年が息を呑んだ気配がした。

「に―――。」

 何か言いかけた時、突然巨大な衝撃が来て、悲鳴を上げてのけぞった。その衝撃で、身体の芯が揺れる。勢いが傾きそうだった。これを逃すまいと、腹に力を込めた。それでも右手は動かせなかった。

「あっ、アあーッ! イく、イくっ! イかせて、足りない、だめ、だめ―――っ!」

「ハン、後ろから見ててもテメェのツラが見えるぜ、瞻仰せんぎょうオツムに成っちまうほど悦かったか?」

「んぅ、うん、いい、イイから…っ! イかせて、いっぱい、イかせて!」

「しごいて欲しけりゃ、目の前の童貞の筆卸ししてやってくれよ。まだ禄にんだ。」

「…っ、のんで、いい?」

 喉が、喉が焼け付いて、舌が剥がれない。にやりと笑った歯が、とてもで。

「そんな臭ぇ口に興味ャねえよ。お前のしゃぶるんは目の前にあるだろ、そこで呑め。」

「ん、んん…っ。」

「ひっ! ね、ねえ、もう止めようよ…。」

「ん? なんで?」

「だって、おかしいよ、こんなの。」

「おかしい? よく聞けよ、この愚弟!」

「あっ!」

 髪を掴まれ、ぐっと身体をのけぞらせられる。嗣跟つぐくびすの荒い息が耳と首筋にかかった。その言葉はよく聞こえた。

「こいつの顔を見ろ、どこにも髭がない、もみあげすらない。こいつの喉を見ろ、突き出てるのは喉仏だ。こいつの鎖骨を見ろ、同じユダヤ人の男じゃありえねえほど滑らかだ。こいつの胸を見ろ、乳首こそついてるが乳房はない。こいつの腹を見ろ、お前は知らないだろうが、女はここは汚せない。こいつの股を見ろ、キンタマが一つも無い。その真ん中を見ろ、女にはないモンがついてるが、ちんことはえれぇ違うなあ?」

「そ、れは、そうだけど…。」

「こいつは男でいるには足りなくて、女でいるぶんには余分なんだよ。毛も乳も取れねえ、羊や牛以下だ。荷物を牽かせても人より多くは持てないし運べないから馬やろばの類でもない。獣にすらなれない、孔だけしか使い道のない道具だ。ちょっと年期が入ってて音がするだけだ。これは俺の道具だ。そしてお前に今貸してやってる。だから、お前は使んだよ。」

 いけない、という言葉に反応して、頭を振った。

「い、や…。イけないのは、嫌…。」

「聞いたか? 童貞。こいつの声を! 娼婦よりも女らしく、男のガキよりも幼いこの声をよ! 信じられるか? これで三十年は生きてるんだぜ? 同じ人間と考えるにゃァ―――あまりにじゃねえか。」

 言いながら、嗣跟つぐくびすはひっきりなしに熱い呼吸を繰り返している私の口に指を這わせ、閉じないように固定してから、指で舌を挟んで引き出した。

「見ろ、このよく動く舌を。人より多くの罪を犯す舌だ。人より多く神に背く呪われた口だ。だがこいつを購う為の羊はない。羊以下に羊は使えない。山鳩も然り、だからこいつは人間じゃない。一人でこのユダヤの中にいることは出来ない。俺達が使ってやらなきゃ、る意味がねえんだよ。」

「あ、…うあ、…あ………。」

 言葉は聞こえるが、意味は理解できていなかった。戸惑っていることは分かったが、何を戸惑っているのか分からなかった。私はただ、身体が辛くて、そこから解放されたくて、声を張り上げた。

「ああっ! ああ! もう、もうだめ、だめ、だめ! イかせて、はやくイかせて! あたま、おかしくなる…! くるしい、くるしいの、おねがい、イかせて! おもいっきり、イかせて!!」

「騒ぐなアホ。音を立てる孔は一つで十分だ。」

「あっ! いや、ああっ! イく、もうすこし、もうすこし、なの、に―――んぅっ。」

 何か短い言葉が、小さく繰り返されていたが、私は渇いた喉を潤すために、ひたすら吸い取った。その間にやっと手が離されて、もどかしく膿んでいた熱を集めて出そうとする。身体の強張りが戻り、前後に立つ男が動く。熱が目から溢れ、堪えきれず歯が震えた。悲鳴が上がったのか、私は頭を引きはがされ、口を抑えられた。

「んんんんんんんーーーーッ!!」

「うお…すっげ…。」

 ドロドロと身体が、孔から溶けていく。本当に、本当に激しく達して、意地悪い問答のお陰で昂ぶりに昂ぶっていて―――もしかしたら、あれほど激しい絶頂を知らなかった私は、今までただ、裸で草原に寝転がり、風に揺れる草花に触れて遊んでいただけだったのかも知れない。

「すっきりしたか?」

 問いかけられているのは私ではない。私は臓腑の底がひっくり返るような衝撃の反動で、もう臍から下と、首から上は溶けて無くなっていた。

「………。うん。」

「いつまで立っても精通がなかったから心配したんだぜ。母さんがお前にまだ女は早いとかうるさくてどうしようもなかった。よかったな、これでもう一人前だ。じゃ、帰るか。」

 地面と一つになった私の耳に、二人分の足音が聞こえる。彼等は帰るらしい。私も還ろう。私は孔なのなら―――今は、穴はどこにもないのだから。


 すぐだったかも知れないし、もしかしたら夜は明けていたかも知れない。ただ、私がまた頭まで固まった時、誰かが私の頬に触れているのが分かった。

「貴方の身体を、これからは神への瞻仰せんぎょうの為に使いなさい。」

「………!!!」

 ハッと気を取り戻し、起き上がる。私は外に居なかった。どころか、ツィポラにも居なかった。家にいた。洞窟ではない。私の実家だ。ナザレの、私の実家だ。

「え…。え?」

瞻仰せんぎょう! 目が覚めたのね!」

「おかあさん…??? あ、あれ?」

 母は乳粥が入っていたらしい皿を取り落とし、私に抱きついて泣いた。

 ………。夢? いや、あれほど激しい行為だったのに、夢なものか。夢だったとして、朝は大惨事になっているはずだ。それくらい自覚はあるし覚えている。

「母さん、どうし―――あ! セン兄! いつの間に!!」

「どうしたのキンに―――あ!? また出てったはずなのに!!」

「なんだ騒々しい―――え、瞻仰せんぎょう!? 母さん、一人で瞻仰せんぎょう担いで寝かせたの? 一体どうやって!」

きんかずきびす。すぐにお肉を貰ってきて、瞻仰せんぎょうは食べなくちゃいけないから。それから凝乳チーズと乳粥も貰ってきて。今料理した奴落としちゃったから。」

「お母さん…。」

瞻仰せんぎょう、もう大丈夫よ、もう大丈夫だからね。もう何もしなくていいのよ…。」

 私は悟った。母は。そして弟妹は。なら黙るしかなかった。不満を呈するかずを宥め、三人が部屋を出て行く。母と二人きりになっても、母は私を抱きしめて泣くばかりで、私も何も言えなかった。母に知られたら、必然的に父との―――漱雪しょうせつとの間のことも知られる。だが自分から勘当を切り出すには、私はあまりに疲れていた。身体が、ではなく、記憶が。

「おかあ―――。」

瞻仰せんぎょう、これからは母さんが、貴方を守って下さるように取り次いであげる。だからもう、何もしなくて良いのよ。生贄も納税も何もしなくていい、お願いだから、母さんの傍にいて。瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょう、お願い、母さんを………。」

 一人にしないで。置いていかないで。

 そんな言葉を口にしたかったのだろうけれど、母はまた私を抱きしめて泣いてしまった。母を抱き帰そうとした時だった。

 こんこん、こんこん。とんとん、とんとん。

 扉を叩く音が聞こえた。だがそれは悪霊の奏でた音に違いなかった。何故ならそれは、私のに聞こえたから。

「………はい、おかあさん。瞻仰せんぎょうは傍に居ます。…ずっと、傍に居ますよ、お母さん。」

 迫り来るように聞こえてくる音は、私が母を慰める言葉を絞り出し、母に隠れるように抱きしめると、聞こえなくなった。


どうやら私は、ひこばえの人生のために死ぬよりも、母を支えるために生きねばならないようだ。私の策は大いに空振ったらしい。

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