第十四話 不埒なる王妃

 嗣跟つぐくびすはベトサイダに新しく家を持っていて、そこには自分の弟妹もいた。嗣跟つぐくびすはもう娘も息子も十分いるが、まだ頭数だけで、成人はしていない。嗣跟つぐくびすが万一子孫を残すのに失敗していた場合、家督と妻と妾達を継ぐ代えが要る。その教育もかねて、下から三番目くらいまでの弟妹が一緒に生活しているらしい。嗣跟つぐくびすは私をさんざん持て余した後、私に自分の性器を褒めさせ、如何に自分の生殖能力が優れているか言わせたことがあり、それで知った。彼ほどにもなれば、愛妾が増えればその部屋も新しく増築出来よう。

 しかし私は妾ではない。それに、嗣跟つぐくびすの父親が生きている以上、あまりにも目に余るようでは、失脚する可能性がある。嗣跟つぐくびすは私を荒野に住むように命じ、私は受惠じゅけいの教団からは遙か遠くに住まわせて貰うように丸め込み、岩肌の洞窟に住み着いた。荒野暮らしが長かった私にしてみれば、寝床と川があるだけ十分だ。蝗と蜜だけに縛られては肉付きが悪くなり抱き心地も悪いからと、三日おきに食料が届くし、嗣跟つぐくびすの遊びに付き合えるよう、寝床は無駄に上等だ。

 風の噂で、カナで行われた婚礼は大成功であるという事を聞いた。なんでもとっておきの特上│葡萄ぶどう酒を、宴のトリに出すくらいに太っ腹な新郎だったらしい。普通七日間も特上の食事が続いても、意味がない。大体三日目辺りから、客は酔いが回って善し悪しが分からなくなるからだ。だがその新郎は、食べ物こそ質素になっていった物の、最後の最後で素晴らしい葡萄ぶどう酒を出したのだという。それがいくつもの瓶に一杯で、あの寒村のボンボンと言えどどこからそれを仕入れたのか、皆聞きたがったという。もしやまさの前金で、と、思ったのだが、結婚式に参加していた嗣跟つぐくびすが一番その葡萄ぶどう酒に驚いたと言っていたし、嗣跟つぐくびすが嘘をつけば、抱き方と勃ち方で分かるから、本当にまさはただの結婚が出来たのだろう。

 ただ、油断はならない。嗣跟つぐくびすの機嫌を損ねれば、いつだってまさは霊媒師と娼婦の二重苦だ。正直│嗣跟つぐくびすが何故そんなに金に固執するのか知らないし、知りたくもないが、私がここでかつてと同じような暮らしをしているなら、否、かつてよりも客が一人という意味ではずっと良い暮らしをしているのだから、これ以上文句は言われまい。どうせ初子になれず、その死に目にも、家族の危機にも立ち会えなかった親不孝者の私がどうにかなっても、あの家にはきびすがいる。出奔してしまったというひこばえも、結婚式の時はいたようだし、きびすも出席したと聞いた。結婚式という晴れの舞台に呼ばれているのだから、きびすは多少風当たりが強くても、あの村でやっていけるだろう。義足ももう、自分で作ることが出来るのだから。そして義足さえあれば、きびすは牡鹿と遊ぶように跳ね回る事だって出来るのだ。

 子は巣立つものだ。どこへ子が歩いて行くのか、親は感知する必要はないし、干渉する必要もないし、子も結婚の事以外で親を煩わせることもない。私は―――結婚できない身体だから、一人でこうして荒野に生きているだけだ。


「もしもし、もしもし。いますか? 探しに来たんです。」

 夕べはやたらと元気だったので、私は夕方起きた。朝食と同じような時間帯と献立で支度をしていると、聞き覚えのある声がした。面倒は嗣跟つぐくびすだけで十分なので、居留守を使おうとしたが、奴はずけずけと洞窟の中に入ってきた。

「今いないことにするなら、入り口でずっと待たせて頂きますね。」

「やかましい、ちょっと寝坊してただけだ。入れよ、蝗でも蜜でもないもので良ければ馳走してやるから―――妁夫しゃくふ。」

「良かった、本当に外で野宿することになるかと思いました。」

 煮炊きをするための火を強く仰ぐと、煙が窓代わりに掘った穴に吸い込まれていく。一応人の家である自覚はあるのか、足下を探りながら妁夫しゃくふが入ってくる。少し見ないうちに、日焼けしたような気がする。皿は余分にないので、私の分は杯に入れ、自分の皿に煮込みを入れて差し出した。妁夫しゃくふは私が普段座っている椅子にそっと座り、両手を上に翳して食前の祈りをしてから、私の食事に手を付けた。意外なことに、中身を確認しなかった。

「お前、受惠じゅけいさんのところでの修行は止めたのか?」

「いや…そうではないけれど、受惠じゅけいさんが、新しい先生の所に行くようにって仰って、今アニキとその人の所にいるんだ。」

「なんだ? 受惠じゅけい派は解散でもすんのか。」

「いや、そうでもないんだけれど…。とにかく、今の先生は食べ物を制限されないから、出されたものは全部食べて良いんだ。」

「フーン。まいいや、明日の朝の分はねえから、それ食ったらさっさと帰れよ。」

「それなんだけど、瞻仰せんぎょうさん。」

 カラン、と、皿を机に置いて、妁夫しゃくふは言った。

「一緒に来ないか、瞻仰せんぎょうさん。受惠じゅけい先生がご指名なだけあって、凄くいい先生なんだよ。」

「断る。ぼくはここの暮らしが気に入っているんでね。」

 実際興味はなかった。今更どんなに優れた教師だか預言者だかが来たとしても、私を受け入れてはくれないだろう。生活に困っている訳でもなく、狂おしい愛しさがある訳でもなく、他に生き方も身の振り方もあるのに、私はこの真綿の沼から抜け出そうとしない。実際沼から抜け出した所で、私を受け入れてくれる場所があるとも思えなかった。嗣跟つぐくびすの言う通り、私は家畜にも劣る生き物だ。自分の身体を可愛がってくれるご主人様がいるだけましというものだ。

瞻仰せんぎょうさん、本当にいい先生なんだよ。受惠じゅけい先生が手ずから洗礼を授けたんだけど、それを尻込みしたくらいなんだ。」

「ヘー、ソウ。そりゃご立派なことで。」

 そんなに高尚なお方なら、私のような者が近づくことも叶うまい。

「ねえ、一緒に行こうよ。」

「嫌だね。ほら、食ったんなら寄こせよ。」

「ああ、ごちそうさま。」

「へえへえ。」

 自分の分の煮込みがまだ残っていたが、食欲がなくなった。瓶の傍に自分の煮込みを置いて、清めの瓶の水を掬って皿を洗っていると、妁夫しゃくふがきょろきょろと周囲を見回しているのが、目の隅に見えた。

「一人で暮らしてるの? 寝床、結構広くない?」

「ああ、一人暮らしだよ。」

「ちゃんと禊はしてるのかい? なんだか―――凄く、ね。」

 思わず手が止まる。呼吸も止まった。

瞻仰せんぎょうさん?」

「お前は人の家に勝手に上がり込んでメシまで貰っておきながら、人の家にケチつけんのか。」

「いや、そうじゃなくて…。なんか、その…。変わったなって、思ったから。」

 そりゃそうだろう。

「ねえ、なんでそんな暗い顔してるの? 何か悩みでもあるんじゃないの? 教団の誰かと喧嘩でもした? もしかしてアニキと?」

「そんなんじゃねえよ。ただ大人数で過ごしてると―――そう、狂った奴とかさ、あいつらの相手をするのが鬱陶しくなったんだ。」

「………。」

 実際あのままあそこにいると、嗣跟つぐくびすの気まぐれで恐ろしい目に遭いそうではあった。あの集団の中で一時の迷いに苛まれた者達は皆理性的で、正直だったし、決して嗣跟つぐくびすが遊びに誘っても乗ることはないだろう。第一、あの不思議な求心力のある受惠じゅけいが見逃すはずがない。だが妙な圧力がかけられたり、迫害者をけしかけられたりするのは目に見えていた。嗣跟つぐくびすは立場を熟知しているのかいないのか、自分の欲に忠実だし、それを突き通す類の人間だ。もし関わるしかないなら、他を切るしかない。元より救いの神を持たない身、イスラエルの繁栄に貢献できない身。私がイスラエル社会を離れた所で、撃つ神がいるとしたら、私だけを撃つだろう。詰まるところ私だけで、全て完結するのだ。

「………ねえ、やっぱり一緒に、新しい先生の所に行こうよ。」

「くどいな。行かないって言ってんだろ。」

 あまりこの話はしない方が良い、何だかそう感じて、私は杯に蓋をし、床が一人分にしては広いことを隠すべく、寝床に大の字になって寝転がった。

「本当は、私は仲間を助けたいんだ。」

「そりゃ、ぼくには力不足だ。それこそお前の兄上にでも頼め、あいつの猪突猛進な行動力は、ぼくも見習えないよ。」

「アニキほど頼りにならない男はいないよ。…いや、そうじゃなくて、最近│受惠じゅけい先生は、王妃に目をつけられてるんだ。」

「そりゃ、王妃殿下にあられましては、今度は役不足なお話で。王妃って、あの売女だろ? そりゃ受惠じゅけい派は大分大きな洗礼派の一つだが、だからといって仮にも一国の王妃にどうこうされるような規模でもあるまいに。」

受惠じゅけい先生は結構、その、物怖じしないだろう? だから王妃と国王の不貞についても凄く激しく詰ってて、それで国王派とローマ派の形勢まで影響してるんだよ。だから王妃の差し金が絶えなくてね。国王の方は、受惠じゅけい先生が人気者で正しいことを言っていると分かっているから、暴徒がいたらちゃんと逮捕はしてくれるんだけど…。受惠じゅけい先生はあんなに激しい人だけど、まだ三十になったばかりの半人前だよ。修練者だってことを差っ引いても、お嫁さんも貰ってない未熟者だ。だから、教団の皆を守るには、今の先生の所にそっくりそのまま移動しなくちゃ。それで受惠じゅけい先生は身軽になって、逃亡だって―――。」

「ハイ、ハイ、分かった、分かった! お前が高尚な事をお考えなのはよーっく分かった! 分かったから、もう帰ってくれ。ぼくは何度も言うけど、もう教団に未練はないんだ。明日は早く起きて色々やることがあるから、無駄話するなら帰ってくれ!」

「………。」

 尚も妁夫しゃくふは何か言いたそうだったが、私が睨め付けると、小さく溜息をついて言った。

「分かったよ…。今日は帰るね。」

「いや、もう来るなよ。ちゃんと新しい先生の所で修行しな。」

「…今に受惠じゅけい派は、王妃の奸計かんけいによって潰されるだろう。その時に、どうか君が逃げられるように、それだけを祈っているよ。」

「安心しな、あそこに戻るつもりは、もうないよ。」

 生活の糧でもないのに、嗣跟つぐくびすに玩弄される生き方に収まっている私を、受惠じゅけいは追い詰めて追い込んで咎めるだろう。そんなことは耐えられない。私はもう、大義名分を忘れてしまったのだ。まさを助ける為だったはずなのに、その後結局、嗣跟つぐくびすを殺す事無く、こうして身体を割り開かれることを受け入れている。奴は下手くそな上に、元来の男狂いではない。女の身体では出来ない目新しい遊びや好奇心を私で満たしているだけだ。私は―――屈辱や汚辱を祓うことを怠けて、ただ生きているだけに過ぎない。イスラエルの繁栄に関われない私にも性欲はあるのだろうか。あるとして、嗣跟つぐくびすで満たされているのだろうか。だから私は、奴が殺せないのだろうか。

「あ、そうだ。もし気が変わったら―――。」

 やかましい、と、怒鳴ろうとして身体を持ち上げたが、続いた言葉に思わず凍り付いた。

「ナザレのひこばえ先生のところにおいで。私達はそこにいるから…。」

「………。」

「じゃあ、またね。」

 ひこばえ? 何故そこであいつの名前が出てくる? まさか、受惠じゅけいが後継に選んだというのは、自分の弟子達を預けたというのは、ひこばえなのか? あいつが、預言者の真似事をしている?

 なら、一層私はここから出る訳にはいかない。もし受惠じゅけいと同じように、生まれながらにひこばえが預言者になることが決まっていたとしたら、その家族に―――否、否、否。そのような神に選ばれた者なら、あの家に生まれる筈がない。あの家には

 否、だからこそ、これからは自分の時代だといったのだろうか。穢れの家に生まれた、父親の知れない子として生まれついた自分が、民衆を導けると? そのような時代を作るとでも? 馬鹿なことを、私のような子を産ませられないようになった男ならともかく、あの子にはまだ嫁いで来る娘がどこかにいるはずなのだ。ということはつまり、ひこばえは神の裁きの対象ということだ。あの子は、神の民を存続させる義務がある。

「………。ダメだ。」

 ダメだ。ダメだ。そんなのはダメだ。

 私がいてはいけない。私の罪が、ひこばえに行ってしまう。私の存在つみが、私の欠けさせられた身体が、ひこばえの輝ける未来を欠かせてしまう。ダメだ、ダメだ。そんなことはダメだ。私のような兄を持ってしまった、ただそれだけの、ひこばえは可哀相な私の弟なのだ。

 だが自ずから、私が私を殺すことはあってはならない。であれば如何とするか―――もし私がいなくなった後、ひこばえを脅しそうな者を道連れにすれば良い。即ち、嗣跟つぐくびすに私をのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る