第十二話 死者は語らじ
私が飛び出したあの晩、家族の者達は皆、何か父と私が喧嘩をしていて、死期に焦った父がかっとなったのだろうと考えた。だから翌日、朝になってから、母は
しかし父の絶望感とは対照的に、父は存外長生きした。というより、私がいなくなってから、歩けるようにまで回復し、身体のカビも服で隠れるくらいにまで引っ込んだ。目の中のカビは取れることはなかったが、
その時、
「よぉ、
そんなことをよく言われた。父は胸の中をカビに侵されながらも、激しく反論した。
「お前も落ちぶれたもんだ。僕の可愛い娘息子達だ、誰が落とすもんか。」。「ああ、相変わらず良い妻で、良い母だ。司祭の家に嫁がなかったのが不思議なくらいさ。」
父の答えは、いつもそんな感じで、二人は会話が噛み合っていないことが不思議だった。二人は今まで、職人としてナザレの村を歩く以外のことは、全て
詰まるところ、彼等はナザレの村人が私達一家をどのように見ているのか、知らなかったのだ。
父は日に日に身体の表面のカビが体内に染み込み、身体が弱くなっていった。それでも表面上、穢れがなくなったので、父は子供達と共に外へ出たがった。否、もしかしたら、自分の近くでしか、子供達を外に出したくなかったのだろう。
先に気がついたのは、
まず、食べ物を交換して貰えなくなった。ロバが老いても、新しいロバの仔の話が回ってこない。農地に入らせて貰えないから落ち穂すら拾えない。ツィポラまで歩くのは、
結論として、大兄は父を切った。緩やかに死にゆく家族に対する義務を全て放棄した。一家の後ろ盾が明確になくなると、村人達は露骨な嫌がらせをするようになった。
それでも一家は、ローマへの税金を納めることが出来ていた。
そんな生活も、五年と持たなかった。
忘れもしない、あの年、雨が多かった。ローマの領土は広い。ということは、それだけ建物も人もいる。だから、被害があればそれは甚大だった。どこがどのようにして必要だったのかは知らないが、その年、住民登録も何もなく、突然税が引き上げられた。多くの村人達が、農地やロバ、村長でさえ娘を取り上げられる中、たった一軒だけ、税を納めきった家があった。私の家だ。虫の知らせなのか、その前日、
あまりにも悔しくて、情けなくて、
ツィポラから、
裏切り者を裁く神を、彼等は持たない。だから彼等が誅したのだ。彼等の社会では、彼等こそが
一度に子供を二人も失い、父はとうとう気を違えてしまい、一日中楽しげに歌を歌うようになった。
調子外れの音楽を指摘すると、その外れた音は、
葬儀はしたものの、
家に帰ると、父が家にいなかった。再び家族総出で探したが、見つからない。あんな気の狂った状態で、何処に行ったのか分からなくなったらどうなるのか、もう考えるだけでこちらも狂いそうだった。もしかしたら入れ違ったかも、という希望が、マナが降るように下りてくると、各々家に戻ってみたが、父はいなかった。
三日三晩探し、深夜漸く、疲弊した家族が顔を合わせた時、ふと
その時、三つ目の歌声が重なったことに、誰かが気付いた。誰かが狂ったように叫んだ。「魔術だ。悪霊が来た」と。
家族の中で、健康なのは
「もう十分ですよ。」
その言葉を聞いて、熱狂していた村人達は冷静になった。そして目の前に積まれた大きな一つの石塚を見ると、今度はその恐ろしさに気づき、悪霊が来ていたと騒ぎ始めた。その場で、その石塚の責任をどうするか、と、話し合おうとしたので、
「悪霊はいませんよ。今は去っています。」
根拠のないその言葉を根拠に、村人達は散っていった。彼等が捌けてしまうと、石塚の生々しい事と言ったらなかった。
しかし、雨風が削りきったのか、石塚は影も形もなかった。田舎道なので野草は生えているが、石は一つも転がっていなかった。地面が吸ったのか、血の跡は勿論、濡れた跡すらなかった。そして鴉が食い荒らしたのか、犬が噛み砕いたのか、その場に骨は勿論、髪の毛一本、見つけることは出来なかった。二人は、弔いも、終わりの時に復活するための身体すら残さず死んだのだ。それは、私がいなくなって、十年くらいした頃だったという。
あまりにも短い間に、あまりにも多くの大きなものが失われて、母は一層身体が弱くなり、歩くのもやっとになるくらいまでに弱ってしまった。
死にはしない。その程度には水も食料も手に入る。
だがその暮らしは、『生きている』とは言いがたい。
そんな暮らしが嫌だったのだろうか。ある日、珍しく
「これからは、私の時代だから。」
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