第十一話 御国は近づけり
私はそれから、
弟子達は私を性的に見ることはなく、否、時々いたにはいたのだが、彼等は馬鹿正直に、私にそのような色情を向けていることを私自身に話し、赦しを請い、罪の穢れを神が撃つことがないように祈ってくれと嘆願した。彼等のそれは保身に近いときもあったし、罪悪感に近いときもあり、人それぞれであったし、また同じ人でも、その時々によって意識は違うようだった。家が恋しいと泣く若い修験者がいれば、私は隣に行って、一晩中彼等の寂しさを聞いてやり、その心の弱さを
いつしか
私が教団に入って暮らし初め、十年ほど経つと、教団はエッセネ派の中でも一、二を争う一大勢力にまで拡大した。
その苛烈な二面性を持った生き方は、私には少し、苦しかった。
詰まるところ、罪の意識が私は根本的にズレていた。私が潔白な人間とは無論思っていなかったのだが、悔い改めよ、姦通を止めよ、と言われても、私にはピンと来ない。私にとって、男であれ女であれ妻帯者であれ祭司であれ、彼等は等しく客だった。客であるからには対価の交換をしなければならない。それは悪いことではないはずだ。
真っ直ぐに生きている
「
「今日は何日か、数えていたかい?」
「ん? なにかの祭りだったか?」
私は集められた蜂蜜と
「………。?」
「今日は、君が我等が教団に来て丁度十五年だ。」
「え、もうそんなに経ったのかい。………、で、これは?」
「首飾りだよ。君が後生大事に持っていた木片を加工したんだ。この前落としたんだろう? 洞窟の入り口に落ちていたのを拾ったんだ。いや、穴を開けたんじゃないよ? もとから空いていたのさ。」
「………???」
受け取ったのは、私の親指より一回り大きいくらいの、小さな木片だった。腐っている訳ではないようだが、確かに所々穴が空いている。虫でも喰ったのだろうか。
否、そんなことより、私にはこの『後生大事に持っていた』というのに引っかかった。とんとこんな古くさいゴミのようなものを宝物にしていた記憶は無い。
「誰か別の人のじゃないか? ぼくはナザレを出たとき、着の身着の
「ん? でも、これは君が祈るとき、いつも握り拳の中に入れていたじゃないか。余程大切なものなんだと思っていたよ。教団の誰もが知ってるさ、君の小さなこの宝物。」
「んん???」
益々私は不思議に思い、岩の隙間から零れる光に翳して見つめた。否、どこかでこんな形のものを見た記憶はあるのだ。だがそれを何時も持ち歩いていた事など無い。本当に、着の身着の
「………あれ!?」
「恥ずかしがることないよ、どんなものだって、大切だと思うものがその人の宝物なんだから。」
まさか、まさか、そんなはずはない。
私は光に色々と翳し、確認した。確かに記憶の彼方に埋没していた、思い出の品だ。
―――今日、窓を直すのに使った木の余りだ。もし僕が次来るまでに辛いことがあったなら、これを使って身を守りなさい。
まだエジプトにいた頃、父―――
何故、子供の頃に失くしたものが、今更になってこんな所にあるのだろう。もしや、何かの神託なのだろうか。
私のような者に神託が下るとは思えなかったが、父の事を思い出すと、あれから家はどうなったのか、途端にそんな気持ちが吹き上がってきた。
「
「家に帰ってみるんだろう? 良いとも、今すぐ行きたまえ。先生には言っておくよ。もう知ってそうだけどね。」
「あと、蜂蜜と
「はいはい。じゃあ六つ目以降は私がやっておくね。」
「すまない!」
父はとっくに亡くなっているだろうし、もしかしたら弟妹の誰かは、結婚できなかったかも知れない。母も老いてる筈だ。何か病気になっているかも知れない。
辛いことがあったなら、と、身を守るために貰ったあの日の木片が、こんな不可思議な形で再び私の前に現れたのだ。何も無い方がおかしい。私は紐を首の後ろで結び、服の中にしまい込んで走り出した。
「罪を恥じ、悔い改めよ! 神の子羊が来られる。どのような預言者よりも、イスラエルの太祖よりも先に居られた方がやってくる! その日は近く、盗人よりも密やかに来る!」
今年三十になり、一人前になったばかりの
「君、君、そこの馬番の君!」
「?」
がしがしと馬を洗っていた少年は、もう少しで成人しようかというくらいの子供だった。ぽけっとしている少年に目線を合わせて跪き、私は言った。
「君、私はね、北のユダの山の近くにあるナザレという村まで行きたいんだ。急いでるんだ。君の旦那様はどこだい、この馬を貸して欲しいんだ。」
「え、え、えっと…えっと、えっとね…。」
少年がおろおろしていると、はっと顔色が変わった。私の背後に、彼の主人が来たらしい。
「
「あ、若旦那様! あの、えっと、えっとね。」
「馬を貸して欲しいんです、急いでて―――。」
顔を上げて後悔した。そこには十年前以来、ずっと遭っていなかった、人の姿をした災難が、少し成長して立っていたのだ。しまった、ここはそう、カペナウムだ。
「………。ああ、いいよ、貸してあげよう。
「はい! えっと、えっと、鞍ですね!」
「久しぶりだなァ、
「………。ご無沙汰しておりました、…
父の葬式は、やはりあの後すぐに行われたのだろう。私の家族は、私を探してくれたのだろうか。
「この十年、ずっとお前を探してたんだぜ? どこで商売してンだよ、今は。」
「別に………。自分の生き方を模索しているだけです。」
「ハン、自分の生き方ねえ? そんな大層なこと考えられるほど、お前の家は裕福にも、祝福が満ちているようにも見えなかったがなあ。」
「………。どういう意味です?」
聞き流そうとしたその言葉が、違和を感じさせ、思わず聞き返した。
「…お前、本当に知らなかったのか?」
「知りません。教えて下さい。私の家族に何があったんですか!?」
「んー…。どうしよっかなあ、オレとしては、またお前とはヨロシクやりたいんだけどなぁ?」
急き立てようとする気持ちが、ニヤニヤと笑う
「そうですか…。私は
「おいおい、連れないこと言うなよ。面倒見てやってるのはオレ達なんだぜ? ここはお利口にしようよ、
「………。あの家には―――軛職人が一人と、大工仕事の出来る男が二人と、力仕事が出来る男が一人いるはずです。食うや食わずの生活の訳が―――。」
「ま、いいよ。掌をくるっと返す様は、誰がやったって面白いもんさ。お前は絶対オレの所に戻ってくる。今いる場所を捨ててでも、お前はそうするさ。兄という生き物はそういう生き物だ。」
問い詰めたい気持ちを抑え込み、私は戻ってきた
「じゃあな、行ってらっしゃい、
引っかかる言い方をされ、馬に後ろ足で蹴飛ばさせようとしたが、そんな器用な事は出来ないので、たまらない気持ちを馬の尻に当て、鞭を振るった。馬になんて、随分と乗っていないのに、身体は覚えているものだ。
ベトサイダを出たのは昼頃だった。一度雲の隙間から太陽が見えたが、それもすぐに終わってしまい、再び曇天がイスラエルを重たく包んでいった。ナザレ村が遠くに見えてきた頃にはもう日も落ち、一日が終わってしまった。村の中に駆け込む頃には次の日が始まっていて、村は真っ暗で、水を打ったように静かだ。星明かりを頼りに、村の門に馬を繋ぎ、実家に走る。
実家は、昔と変わらずあった。躊躇いはなかった。扉を叩き、私は呼んだ。
「お母さん!
家の扉はすぐに開かれた。開いたのは、こちらを不自然な格好で見上げるせむしの男―――
「
「…!! セン兄!」
「どの面下げて戻ってきた、この薄情者!!!」
「
「お前なんか兄さんじゃない! この家に娘息子は三人だけだ。とっとと出てけッ!」
「お止め、
「母さん、ゆっくり歩いて、ゆっくりだよ。」
私を凄まじい目で睨むその目線は、憎しみと怒りであったが、侮蔑は含まれていなかった。私はその事実に、心底ホッとしていた。嫌われているとは思っていたが、瓶をぶつけられる程とは思っていなかったので、頭が混乱していたのもあるだろう。灯火を持って、三十代にしては頬がこけた母が、
「セン兄、とにかく入って。ご近所に迷惑だから。」
「お帰りなさい、お帰りなさい…! ごめんね、
「いえ…。あの、お母さん。その、突然帰ってきて―――。」
「いいの、いいのよ。
「母さん! もうパンも魚も肉もないよ! あたし達にこんな思いさせた奴、一晩くらい何も食べなくても死にゃしないよッ!」
「
「キン兄は悔しくないの! こいつが出て行きさえしなければ、ケイ兄だってスン兄だって、あんな惨めなことにならなかったんだッ! 姉ちゃんだって、あたしよか幸せになれたのに!」
「
尚も吠えつく
食卓には、私、母、
「お母さん…。」
「遠慮しないでいいのよ、お腹空いたでしょう。その格好、
弟妹達はその後、母の言葉を遮らず、一言も喋らず食事をし、母に言われるがまま先に寝室に入った。
「………あの。お母さん、その、十五年前は突然飛び出して…。あの、なかなか暮らしは苦しいと聞きました。貴方の息子だと認めてくれるなら、話して頂けませんか?」
「まあまあ、他人行儀になっちゃって。何を言っているの、貴方を
「お母さん。」
「………。」
母に促すと、母は黙り、しくしくと泣き出してしまった。
「
「この十五年、どこにいたのさ、
「………。ガリラヤ湖の方の荒野、あそこに、母さんの甥っ子がいるんだ。そこでお世話になってた。」
「へえ、そう。じゃあ、修行をほっぽり出して来たの?」
「………。信じられないかも知れないけど、ずっと昔に失くしたものが、出てきてね。胸騒ぎがして、帰ってきたんだ。」
私が胸元から古ぼけた木片を見せると、
「そんなゴミは大事に持ってたのに、
「………すまなかった。…なあ、今この家に何が起きてる?
「うるさいなッ!! 一度に言えるわけないだろ!!」
「………。」
「……ごめん、順を追って、説明するよ。おいらもその、また、会えると思ってなかったから…。それに、時間で説明した方が、きっと、お互い上手くいく。
「ああ、大丈夫だよ、いつも水も禄に飲んでないから、十分だ。」
「あっそ。」
そう言って、
「でも、何から話そう………。」
事情は掴めなかったが、私はこの家に戻ることも、連絡は使いを出すだけにしようとも決心した。
この家には、私が必要だ。私という召使いが必要なのだ、と思ったのだ。
その日、私が家族の元に戻ったとき、私が彼等の苦しみを聞いた日、人知れず、天の国は近づいていた。
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