第十話 初子の祝福
術後経過とやらは、私はどうやら悪かったらしく、すぐに発熱した。傷口の痛みこそないが、身体がだるく、頭がボーッとする。大工仕事を出来る状態ではとてもないので、私はしばらくの間家に籠もった。必然、
父の仕事を手伝うには、
エジプトに長くいた私は未だに混乱するのだが、「
私はこの家の中で一番年長者であるし、父も私を長男として扱っている。兄弟の中で最初に生まれた男児、それが「長子」である。しかしながら、神の祝福や神の気に入り、或いはそこまで大袈裟にならなくても、跡継ぎとして優秀な子がいれば、そちらの方に跡を継がせたいと思うのは、世の常である。この時、跡継ぎとされた子供が「
しかし今の私は、睾丸を両方切り取られ、陰茎も歪んでいる。つまりは、子孫を残せる女がいるかどうか、或いはその女が私のものに満足せず、他の男の所に走ったとしても、私は睾丸が欠けている故に咎める事が出来ない。睾丸のない男は、男ではないからだ。陰茎だけが残っていようと、それがきちんと勃起して機能しようと意味が無い。そんな男にしては足りず、女にしては余分な半端物と血縁になりたいという娘がいたとしても、その父親がそんなことを許すわけがない。
そんな不安定な嫡子がいようか。私の他に、
その愁いは父も同じだったのか、ツィポラの工事が一段落し、休暇を貰った途端、体調を崩した。
体中にカビが生え、
それだけ、父が
私達は、母を含めて交代で看病した。その日は母の当番だった。
「
母が涙を堪えて、寝床の支度をしていた私達を呼ぶので、私達は急いで父の枕元に走った。
「せんぎょう、ひこばえ、きびす、そそぐ、けい、きん、まさ、かず。そこにいるかい?」
「はい。」
涙に声を詰まらせながら、私達は思い思いに答えた。
「ひこばえ、おいで。」
目にもカビが生えて、殆ど見えなくなっていた父が、
「お前は神様の子だ。だから、ぼくではなく、母さんでもなく、神の声の
「…うん、父さん。愛してるよ。」
父は満足そうに笑った。その隣にいる
「
「父さん………。」
「
「うん。」
同じように、隣にいる
「
「んむ、んむぁ!」
きっと通じていただろう。
「
「うん、父さんの顔が、いまのおいには凄くよく見えるよ。」
「そうかね? はっはっは、下しか見えないというのも中々便利だな。―――げほっげほっ。」
母が父の胸に手を当てて、父に水差しを呑ませた。父は力を振り絞るような声で続けた。
「
「うん!」
きっと
「―――
「父さん、あのね、あのね? もう肌が抉れてて、色んな所がへっこんでるの。皮膚が硬くなって剥がれて………。」
「気にするな。年を取ったら皆がさがさ肌の疣塗れになるんだから。」
それは慰めになっていないと思う。
父は大きく溜息をついた。最後に言葉をかけて貰っていないのは、。本命は最後にとっておいたのだろう、と、私は勝手に解釈し、少しでも父に言葉をかけて貰おうと、父の顔の近くに顔を寄せた。
だが、父は予想だにしない言葉をかけてきた。
「お前は、この家の子じゃない。」
何も言えず、その場が凍り付く。お前とは、私以外の誰でもないことは、その場にいる全ての人間が分かっていた。
「お前は不完全になった上、どうしようもない不埒者だ。母さんの親戚に、
私は頭が真っ白になった。何か言ったような、言えなかったような。父は確かに私の身体が不完全になったことを知っていたが、そのことは母にすら言っていなかった筈だ。況してや弟妹達になど言うはずが無い。だが、私は何かを言ったらしく、父は答えた。
「お前は、この家の
「あっ! セン兄!」
そういって私を追いかけたのは誰だったか。だが私は振り返らずに走った。走っていても涙が溢れた。酷い、あまりにも惨い裏切りだ。私は父に尽くしてきた。それは子供としても、遊び相手としてもそうだ。父に逆らったのは、私の身体が不完全にされたことを怒った時だけだ。父に叱られた時は、いつも素直に謝った。私は努めて、父に長子として認識して貰い、
それが、どうしたことか! これは一体何の冗談だ? 父は私を遊び相手としてしか見ていなかったというのか? 私は父に引き取られてから―――。
否、否、否。違う、そうではない。父は知っていたのだ。私が
なんと酷い、なんと惨い、なんと浅はかな。何故息子を信じてくれなかったのか。私が犯されている事を知っているのなら、何故助けてくれなかったのだ。いくら
惨めだ。走っても走っても追いかけてくる父の声、弟妹の声、母の眼差しを振り切るように、ひたすら走って、村を出た。
ふと気がついたとき、周囲は真っ暗で、川の寄合水も風の歌声も聞こえない所にいた。荒原なのか、死んだ砂の臭いがする。
私は神を持たない。私を赦す神を知らない。私を助ける神を知らない。私を慰める神を知らない。
だが神の存在を否定することも、拒否することもしていなかった。寧ろ私は、そんじょそこらのパリサイ人などよりも、強く神の救いも助けも赦しも慰めも求めていた。しかし、神の民として神の国イスラエルに戻ってから十年、終ぞ神は、私を顧みては下さらなかった。
「大丈夫ですか?」
「…?」
声をかけられ、涙の沼から這い上がる。砂と汗に塗れた私に松明を近づけ、私の顔をじろじろと見つめる美丈夫がいた。
「貴方はナザレの人ですか?」
「………。」
小さく私は頷いた。
「よかった。私の先生が、貴方を探し出して連れてくるようにお命じになったのです。立てますか?」
「…???」
「アニキ! アニキー! こっちにいたよ! 案内するの、手伝ってくれ!」
美丈夫は松明を翳して降り、誰かを呼んだ。火が美丈夫の頭の上に掲げられて、彼の全身が浮かび上がる。逞しく鍛えられ、暗闇の中でも分かるくらいに日焼けをしている。恐らく、漁師だろう。大工は木陰で作業することはあっても、漁師は水の上、何の遮蔽物も無いところで、魚の詰まった網を引き上げる。自然とこういう体つきになるのだ。年の頃合いは、母と同じくらいだろうか。三十代ほどに見える。
「あの、貴方は―――。」
「しゃくふ、その兄ちゃんか?」
とんでもない名前が聞こえた。
「こんな夜中、他にもナザレの人がこんな所にうろうろしてると思うなら、探しても良いよ、アニキ。」
「
確かめずにはいられずに、シャクフと呼ばれた美丈夫の方に聞くと、美丈夫は慣れたように言った。
「違う、
私もあまりヘブライ語の読み書きは出来ない。とりあえず目の前の男が商売女と間違えられるくらいには、やはりいい男であるのは間違いないようだ。美丈夫ではあるが、彼―――
「兄ちゃん、随分ぐしゃぐしゃだな。おれは
弟と同じ語源の名前なのだな、と、ぼんやりと思った。
「兄ちゃん、おれ達の先生が、お前さんを見つけるように使いパシったのよ。先生が話聞いてくれるから、ここで泣かねえで、一緒に来てくれや。どうせ行くとこないんだろ?」
「アニキ!」
行くところがない、と言われて、ぼろぼろと涙が溢れた。もう間もなく死んでしまうだろう父の死に目はおろか、葬式にすら出られない。泣女などいなくても、私があの人のために一番に泣いてやれるのに、私はナザレに戻ることすら出来ないのだ。父が許してくれる場所にしか、私はナザレで、否、このイスラエルで生きる場所はないのだ。
「すまない、この頓珍漢の言ったことは気にしないでください。せめて名前、名前だけでも教えてくれませんか。」
落ち着いて、と、幼子にするように、
「………せんぎょう。神を仰ぎ、神を賛美する……。そのような者だと、母が付けてくれました。私は
「
「………兄君も、そうではないですか。たしか第二子のお名前で。―――勇敢で、怖い物知らずの男だったとか。」
「うちのアニキなんてとんでもない! 弟の私が言うのも何ですがね、こう見えて既婚者のくせに、義姉さんにもお姑さんにも物が言えないと来た! だからまあ、先生の所に追い出されたというか、引っ張ってきたというか…。」
「おい
「とにかく、荒野の夜は冷えます。歩けますか?」
私は答えず、
途中、気を紛らわせるために、二人は少しの沈黙を挟んでは、小言のような小話のようなものを話して聞かせたが、私はそんなものに気を回せず、生返事すら返すことが出来なかった。
ゆっくりゆっくり歩いて、空が白み始めた頃、洞窟に辿り着いた。入り口では消えかかった焚火を必死に起こしている、野生人がいた。駱駝の皮を手作りしたらしい粗末な服に、あまり手入れをしていないのか、ぼさぼさの長い髪と髭を持った、同じ年くらいの男だ。男というか、小柄なので少年にも見える。ただその自己主張の激しい体毛だけが、大人の男らしいところだった。
「先生、ただいま戻りました。」
「え、彼が?」
思わず零れた疑問に、あっはっは、と、少年は笑った。
「貴方が、ボクの従弟のお兄さんですね?」
ということは、彼が
「神がそのように望まれたのです。歓迎します、兄さん。貴方は私の母の従妹の子だと聞き及んでおります。なら、ボクにとっても兄です。ボクのことは気軽に、
「いいなー。」
「アニキ、朝食の支度が気になる。
「え? あ、いたい、痛い痛い痛い!」
気を利かせたのか、
「確か、母の親戚には、凄く年老いてから子宝に恵まれた老女がいたと思いますが…。」
「はい、その人が、ボクの母です。」
「しかし、その人は確か祭司の家に嫁いでいた筈です。祭司の息子であれば、何もこんな所で修験者などせずとも………。」
すると、
「祭司は、睾丸が欠けてる者は跡継ぎに出来ないのです。母には、ボクが不完全で生まれてしまって申し訳ないと思っています。…でも、神はボクに、神の道を整える為に、荒野に出ることを望まれました。ボクたちは、
「キリスト…。ギリシャ語で救世主、でしたか。」
「はい、そうです。どうか兄さん、絶望しないで下さい。貴方を迎えるように、神がお望みになったのです。このイスラエルで、不完全で、神に望まれない穢れた身体であるボクたちに、神がどのような清めをもたらして下さるのか、それを希望に思いながら、修行に励みましょう。」
私は
「あはは、傷口を焼き締めて塞いだのに、失った睾丸が二つとも生えてくるとでも?」
「神がお望みならば、出来ないことはないのです。ボクも月経の無くなった女から生まれたのですから。」
あまりにも
否、もしかしたら一つ年上の私や
「いや、これは失敬。ぼくと同じくらいなのに、大した信仰心でいらっしゃる。御言葉に甘えて、貴方の事は
「ええ、それでいいですよ、兄さん。ボクも兄さんのことは敬いますが、この教団ではボクの言うことを聞いて貰うことになるので。―――さあ、朝食の準備が出来ているはずです、行きましょう、兄さん。」
「はい、
私の後ろの背中が、人に寄りかかられているかのように温かい。太陽が昇り、昏く深い洞窟の入り口を奥まで照らす。私は太陽に後押しされ、洞窟に住み、野蜜と
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます